Neetel Inside ニートノベル
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 僕の目を夕日が焼ききろうとする。オレンジ色の射光によって照らされた雲は、幻想的で、魅惑的で。どこか不安を僕に感じさせた。
 僕と彼女は中庭にあるベンチに二人で腰掛けていた。ただ何をするでもない。彼女が座ろうとしたから僕も座った。おそらく彼女も僕が座ろうとしたから座ったのだろう。本質的には何も変わらない。ただ僕たちはそこにいるだけだった。
 ボーっとするのにもさっそく飽きたのか、彼女がフーっと溜め息をつく。僕はそれを横目で見る。あの時と同じような、どこも見ていない無機質な目。眼球が眼球足りえてない、まるで鉱物のような質感。水分を含まず、カラカラに乾いているような、そんな目玉が、僕がいる場所へと視線を向ける。
 そしてぴったりとくっついていた、薄桃色をした艷やかな唇がすこしだけ穴をあける。
「……なに?」
「…………いいや。なんでもないよ」
「そう」
 ただ君の目を見ていただけさ。そんなこと言えるはずもない。そんなこと言ったらまるで彼氏彼女の関係じゃないか。そして多分、そう言ってしまったら彼女は「気持ち悪いわね」と罵倒するだろう。嫌悪感を顔に塗りたくった、そんな彼女の表情が目に見える。
 さきほど、僕を励まして(励ましたのか?)快活に笑い飛ばした彼女はどこにもいない。ベンチに腰掛けるなり、この状態に陥った。ちなみに座ってから五分と経っていない。
 もしかして、彼女もまた僕と同じような感覚を持っているのだろうか。
 暇が憎むほどに嫌いという、生き急いでいるとしか、死に急いでいるとしか思えない。そんな感覚。
「ねえ」
「なに?」
「もしかして、君って暇嫌い?」
 気になったのなら、聞いてみよう。これくらいならば手紙を書く必要は無い。いくら口下手と言っても日常会話くらいしなきゃね。僕が言った質問の内容が普段の日常会話で飛び出すのか、それについては甚だ疑問だけど。
 そして彼女は僕の質問を耳に入れてから、僕から視線をそらし、少しだけ俯いた。
「暇が嫌い?」
「うん。さっきから明らかに不機嫌だから、そうなのかなあって」
「……そうね。そうかもしれない。無駄な時間っていうのは、ちょっと耐え切れないものがあるわね」
「ふうん。やっぱり」
「やっぱりってなによ?」
「僕もそうだから。暇、嫌いなんだ」無駄だから。
「あらそう。ま、私たち同類だものね」
「そうだね」
 別に嬉しくともなんとも……とは言い切れないかな。今まで分かり合える人、ほとんどいなかったから。
 この感覚を人に話す度に、変人扱いされてきたしなあ。僕に対し、暇こそが人類に許された休息なんだ! と鼻息荒く宗教じみたことを言う人もいた。そしてそれでも確証も無しに、彼女に問いかけてしまったということは、いかに僕が学習能力が無いか、ということを如実に語っていた。
 だからこそ、言い切れないのだろう。むしろちょっと嬉しいくらいだ。口には出さないけどね。
「あら。すごく嬉しそうな顔。今まで共感されたこと、あまり無かったのね」
 口には出さなくても、顔には出ていたようである。目は口ほどにものを言うというが、僕の場合は顔かな。…………どっちにしろ同じことなんだけどね。
「……まあね」
「あなた、すぐに感情が顔に出るのね。見てて飽きないわ」
 そう言ってクスクスと笑う。本当に愉快そうに。
「そりゃどうも」
「その癖、口には出さないんだから、不思議なものだわ」
「相手に感情を伝えるのが苦手なんだよ。口下手だから」
「ああ、だから手紙」
 そういうこと。僕はそう言って前を向く。
 彼女は僕にアホじゃないの、と言った。僕もそれを受け入れて、アホですと返事をした。
 そこにはどれだけの意味があるのだろう。そこには如何ほどの意味が偏在しているのだろう。
 おそらく、なんにもない。からっぽだ。だって言葉なんだもの。
 そう、ただの言葉。
 確かに僕は何もかもを受け入れた。そして何もかもを拒んだ。
 それは気持ちの問題だ。言葉なんて、そんな軽いもので済ましたくはない。
 腕を失ったこと。失ったことを諦めること。失ったことを認めないこと。失ったことを受け入れること。失ったことを拒むこと。どれもこれも、僕の中では等しく存在している。
 じゃあ、僕はそれをどうすればいい? ただそのまま置いておくだけ? 今まで生きてきて、培ってきた価値観で保護していくだけ?
 多分、そんなことをしたら僕は瓦解してしまう。どうしようもなく、弾けてしまう。
 だから求めた。彼女の持っているものを。
 腕を失い、毅然と生きてきた彼女が何に気付いたのか。僕はそれが知りたかった。
 だから手紙を書いた。使った。渡した。
 彼女はどう返事をしてくれるだろう。正直、怖くもあり、楽しみでもあった。
 彼女へと視線を戻す。彼女はもう僕の方を向いてはいなかった。痩せ気味といえる、細い首が淡く橙色に光っている。長く伸びた黒髪は、陽光を吸収して妖しく黒光りしている。
 僕の手がほとんど無意識に、彼女の髪へと伸びていく。僕自身、その手を止めようとは思わなかった。ただ吸い込まれていくのを、じっと見つめていた。
 指が髪にかかる。そしてスッと五本の指で髪を梳いて、人差し指に絡ませる。柔らかく、まるで砂を触っているような、そんな透明感。僕の指は彼女の髪を弄り倒していく。
 彼女はちらりと僕の方を向いたけど、何も言わなかった。視線も前へと動いていく。なので僕は遠慮なしに髪の毛を弄ぶ。
 髪フェチと言いながら、全く女性の髪に触ったことのない僕は少しだけ、いやかなり興奮していた。でもそこまで無遠慮なことはしない。ただ指と手のひらだけで楽しんでいた。
 この時間がいつまでも続けばいいなあ、と思った。でも時は無常に残酷に、容赦なく過ぎていく。
 そのマイペースさは、見習いたいものだ。
 まあ、それも単なる嘯きなんだけれども。
 
 数十分ほど、そうしていただろうか。
 太陽が沈みかけ、辺りが少し暗くなってきた頃に僕は意識を取り戻した。髪から手を放すとすぐに、後悔の念が僕を襲ってきた。なんでもっと意識を保っておかないんだ、どれだけもったいないことをしていたんだ、と。甚だ見当違いじゃないかと思う。これだけ勝手に触っておきながら、咎められないとでも思ってたのだろうか。
 思ってたんだろうね。アホか。
「髪。そんなに好きなの?」
 立ち上がって、尻をはたいている彼女が僕に問いかける。特に嘘をつく必要もないので、正直に答えておこう。顔がこっちを向いていないのがちょっと怖いけど。
「うん。大好き」
「……あっそ」
 全く興味無さそうな返事が飛んできた。じゃあ聞くなと思う。わざわざ胸まで張って言った僕が馬鹿みたいじゃないか。まあ、みたいじゃなくてそのまま馬鹿なんだけど。
 暗いし、そろそろ帰るわ。と言って彼女はスタスタと歩いていってしまった。
 僕は別れの言葉も何も言わずに、その背中を見送る。
 その小さな背を見ていると、ふと小さな疑問が湧き出てきた。
 どうして彼女はここにいたんだろう。なぜ僕に声をかけたんだろう。
 そしてそれらの問いは、どう考えても答えが出ないということもわかっていた。
 でも、もしもその答えの一つが、僕を励ますためだとしたら。もしかして、そうなのだとしたら、僕は手放しで喜ぶだろう。現にあの時、声をかけてもらって僕はとても嬉しかった。言葉では言い表すことが出来ない、そんな嬉々とした感情が僕を取り巻いていくのを感じることが出来た。
「ま、どうなんだろうね」
 そう独りごちてベンチから立ち上がる。腰を伸ばし、軽く柔軟をして身体をほぐしていく。
 外はもう真っ暗だった。街からの光のせいで、ここからは星をみることは出来ない。無駄に都会なので、無駄に街は煌々としている。地上に落ちた星が精一杯輝いている。そんな格好をつけたキザったらしい、歯が浮くような台詞も自然と頭の中に湧いてくる。そんな光景だった。
「さて……僕もそろそろ帰るかな」
 僕はそう言ってから、足早に中庭を後にした。すっかり夕食の時間を忘れていたのだ。多分ナースさんに怒られるだろう。時間を守ってください、と粘着性を備えた罵りを僕にぶつけてくるに違いない。
 そうならない為に、僕は病室へと急いだ。
 
 結局間に合わず、怒られてしまった。ううむ、中庭を出た時点でアウトだったことに気付いていれば、無駄に急がなかったのに。
 彼女は知ってたんだろうな。言ってくれればいいのに、と自分勝手に憤る。
 そして夕食を終えた後、僕は暇つぶしの道具を何も買っていないことに今更ながら気がついた。
「あー……失敗した」
 それならば、と僕は布団を被った。今日は色々なことがあって、僕は正直疲弊している。だからもう寝てしまおうと思ったのだ。
 寝てしまえば、何もかも忘れることができる。睡眠とは現実逃避に最適なのだ。ただそれは、本当に逃避でしか、ないのだけれど。
 目をつぶり、睡眠を貪ろうとする。
 しかしその前に、僕にはすることがあった。
 それは昔からしていることだった。いつから行っていたのかは覚えていない。気づいたら、もうすでに習慣として身についていた。
 寝る前に一つ、祈ること。
「良い夢を見られますように」
 僕はそう呟き、祈ってから眠りについた。

       

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