Neetel Inside ニートノベル
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 父にあの醜態を見られてから数時間が経過した。
 あの後、一時間くらい会話してから父は帰った。話によると、忙殺時期は過ぎ去ったとのことらしい。そういえば妙に清々しい顔をしていた気がする。
 そして最後に、父は「多分入り用になるだろうから、持っとけ」と言って、僕に一万円札を渡してくれた。
 そういや二週間ずっと文字の練習をしていたので、金銭が無いことについて全く気が回っていなかった。いやはや、病院とは恐ろしいところである。ニートの皆さんをぶち込んだら、絶対に出てこないんじゃないかと思う。ああ、でもパソコンも無いし、ゲームも無い。ましてや漫画なんてちょっとしか置いてないんだから、逆に苦痛か。
 いや、パソコンくらいなら持ち込みそうだ。というか、僕がそんな立場なら持ち込むと思う。
 一万円札を財布から取り出し、手で弄ぶ。折ったり、伸ばしてみたり。
 片腕が無くなるということは本当に不便なことなんだと、こういう時に実感出来る。もちろん食事の時なんか、一番強く感じられる。白米ボロボロ零れるし。初めての時は食べきるまで、一時間くらい軽くかかってしまった。ただでさえあまり美味しくない病院食が、冷めて更に美味しくなくなった時は、かなり食欲が失せた。でも決して不味いとは言わない。失礼だからね。
 そういえば、彼女にみかんを貰った時もかなり苦労した覚えがある。大量のみかん汁が待合室の机にぶちまけられたからなあ。拭くのも同様に苦労した。当の彼女は涼しい顔でワコワコ剥いていたけど。見事なもんだと感心した。
 退院まであと二週間。彼女は明日か明後日には持ってくるとは言っていたけれど、百パーセント信じても良いのだろうか、と少し不安になった。根性悪いしなあ。退院する日になって「これどーぞ」なんて言って渡されても困る。たった一度の意思疎通だけで、彼女の心構えを理解出来るはずもないだろうし。
 まあ、質問してる立場なんだし、そこは信じておかないとね。いくら人を見る目無いからって、それはあまりにも人を信じてなさすぎると思う。
 とか考えてるうちに、だんだん一万円札がシワシワになってきているのに気がついた。手遊びしすぎた、とちょっと後悔する。ちなみに手遊びはてすさびと言うんだぜーと電波を飛ばしておく。誰に届いたのかなんて知る由もない。「届きましたー!」なんて言いながら病室に駆け込んでこられても、困るけど。
 すると、病室の扉がいきなり開いた。え? マジ?
「へぇっ?」
「検温の時間ですけど……どうかしました?」 
「あ、いえ……なんでもありません」
 ただのナースさんだった。すごい失礼な言い方だけど。まるで屍のようだ。
 そして、つい情けない声が出てしまったことに今更気付く。今日は何回羞恥にまみれたら良いんだろう。厄日、なのかな。
 いや、でも手紙を受け取ってもらえたから、それだけでも十分ハッピーデイだ。
 そんなことを考えてニヤニヤしていたであろう僕の顔を覗きこんで、ナースさんはクスクスと笑っていた。またかい。
「何か良いことでもあったんですか?」
「……あー、ええ。まあ。」
 曖昧な返事を返して、さっさと話題を変えることを試みる。
「えーと検温、ですよね。わかりました」
「あ、はい。これでお願いします」
 ナースさんの手から検温計が手渡される。
 果たして、正確な数値は出るんだろうか。羞恥によって、体温が底上げされている僕はどうでもいい心配をした。
「心配しなくても、ちゃんと数字は出ますよ」
 そして見抜かれていた。
 どんだけ顔に出やすいんだ、僕は。
 
 検温を終えてから、ナースさんは病室から出ていった。あの病室の人、気持ち悪いのよ。ニヤニヤしてて。みたいな噂がナースステーションで立てられないことだけ心配だった。……大丈夫だよね。
 机の上に置きっぱなしになっていたシワシワの一万円札を財布の中に入れる。そして財布をポケットに入れ、ベッドから降りる。
 なんとなく、落ち着かない。なので病院内をちょっとウロウロしようと思った。途中で適当に暇つぶしの雑誌でも買おう。
 もう、することもほとんど残ってないしね。
 
 病室から出ると、消毒液の匂いが鼻をくすぐった。おそらく、この匂いはいつまで経っても慣れないと思う。
 腕を失ったところ。僕にとって、そんな場所としての意識が、頭の中に定着していた。
 子供の頃は、病気なんてあまりしたことがなかった。大きくてもインフルエンザ程度で。病院のお世話になるなんて、数えるほどしか無い。入院なんて今回が初めてだ。
 そういえば事故を起こした人はどうしたんだろう。生きてるのかな。結構大きな事故らしかったし。
 まあ、入院してからの間、僕の病室に一度も来ないところを見れば、この世にはいない、もしくは僕よりも大怪我を負っているかのどちらかだろう。僕がどれだけラッキーだったのかがよく分かる。それにもし会ったとして、僕はその人とどういう会話をすればいいのか分からない。よくも僕の腕を! とかそんな熱血なこと言えるはずもないし。これだから口下手は困る。上手く言葉を紡げないということは、身体の一部をなくしていると同じくらい不便なのかもしれない。不便だらけですね、僕。
 とか考えつつ歩いていると、以前彼女と出会った中庭に出た。
 そういえば、いつも待合室のテレビの前でボーっとしているのに、どうしてあの時は中庭にいたんだろう。気分転換か何かだったのかな。
 彼女が座っていたベンチを通り過ぎる。
 西日が目を突き刺し、顔が自然と歪む。
 後ろを振り返って、日に照らされて浮き上がった影に目をやった。レンガのタイルの上には、不完全な形で黒い人型が張り付いている。
 しゃがみこんで、不完全を隠すように左手で右肩を包み込む。現実を目の当たりにして、絶望感が僕の身体の中を侵食していく。汗がドッと吹き出して、吐き気がする。抗うと、決めたのに。そう、誓ったのに。
 自分の目からはよく見えなかった。だから耐えることができた。全体じゃないから。
 鏡の中では逆に見えた。だから騙すことができた。正確じゃないから。
 でも影は全て見えた。だから保つことができなかった。全体で、正確だから。
 自分が弱いということはよくわかっている。わかっているから、彼女に生きる術を問いかけた。
 拒む、抗う、拒む、抗う。ガチガチと合わない歯の間から、漏れてくる言葉たち。それは単なる言葉でしかなかった。言葉遊びなんかじゃない。ただの、単語。
 無い腕がズキズキと痛む。痛んで、僕が異端であることを如実に知らしめてくる。
 そう、僕は異端。世間から外れた、異なる存在。
 歩いていてどんな目で見られるんだろう。バスの中でどんな目で見られるんだろう。電車の中でどんな目で見られるんだろう。コンビニで買い物をしてる時、どんな目で見られるんだろう。生きていく中で、どんな目で見られていくんだろう。
 今まで積み上げてきた支えが崩れ去っていく。いくら文字を書く練習をしたって、そんなのはただの塵だった。ゴミだった。塵も積もれば山となるだなんて、誰が言ったんだ。風が吹けば、そんなもの全て無くなってしまうじゃないか。
 努力とは、量ではなく質なのだ。
 そんなこと、今更気付いてどうするんだ。どうしようもない。どうしようもない僕だから、今まで気付けなかった。
「……あー。社会、出たくねー」
「アホじゃないの」
 後ろを振り向くと、彼女が立っていた。
 力強さを携えて。
 僕には無い、何かを持って。
 僕はそれに縋った。欲しくて欲しくて、堪らなくて。
 だから、こう返事しよう。
 全てを受け入れ、認め、抗って、拒んで。こう返事しよう。
「……はい、アホです」
「よくできました」
 彼女はそう言って、朗らかに笑った。

       

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