Neetel Inside ニートノベル
表紙

レター・ラブ
児戯

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 あれから一週間程過ぎた。
 たった一週間では今までの経験というのはさすがに取り戻せないようで、僕はかなり苦労していた。
 一週間前、彼女に受け取りを拒否されてから、僕は毎日手紙を彼女に手渡している。全部丸められて投げ返されたけど。
「字が汚い」「読めたもんじゃない」「バカにしているの」と、罵倒も添付済みである。いいから文句を言わずに受け取れ、と思うのだけれども大体合っているので僕としては言い返せない。でも一応、読んではくれているみたいだから、良しとはしておくけれど。
 バカにしている訳ではないんだけどなあ……。
 単に僕は聞きたいのだ。今までどうやって生きてきたのかを。
 別に具体的なことを聞くつもりはない。どういった心構えを持ってここまで来たのかを純粋に知りたいのだ。
 まあ、立場としては僕の方が低いので相手からアクションを起こしてもらわなければどうしようもないのだけれど。あと、一応別の理由もあったりはする。
 さて、今日の分も書けた。毎日別の言葉や文章を駆使して手紙を作るというのは結構面倒臭いものである。別にそこまでしなくてもとは思うけれど、色々趣向を凝らさなければ僕も飽きてしまう。毎日同じ文章を書いていたくもないし、それにそれではあまり練習にもならない。
 そして、これからを生きていくためにしなければならないことでもある。それがわかっているからこそ、尚更しんどい。
「ふむ。じゃ、いつものように持っていくかな」
 テーブルの上に置いてある手紙を折りたたむ。綺麗に折るのはやはり難しい。何回か練習はしたけれど、未だに慣れない。
 そして僕はお世辞には綺麗と言えないそれをポケットに入れて、病室を出た。

「あら、また来たの」
「うん。今日も持ってきました」
 今日はなんとなく機嫌が良いみたいだ。一週間連続で顔突き合わせてたら、少しくらい彼女の心の機微というのもわかるようになる。
 ポケットにしまいこんでいた手紙を渡す。彼女はそれを数秒見つめてから、引っ手繰るようにして手に取る。
 折りたたんでいた手紙を彼女の白い指が開いていく。この瞬間は何度見てもドキッとしてしまう。別に指フェチなんかではない。言い訳をしておくなら僕は髪フェチだ。黒髪や茶髪、大体の髪ならどんとこいだ。そして髪型としてはやはりストレートが至高だと思う。指に絡ませて、スーっと梳くのを想像すると自然とニヤケてしまう。次点でOLや大学生が良くやる髪を巻いてある奴だ。正式名称は知らないが、あれも素晴らしいと思う。あのふわっとした巻き髪を手でくるくると触っていたい。ちなみに髪フェチである僕の夢は、彼女が出来たら彼女の髪をお風呂上りに手入れしてあげたい。ドライヤーで優しく乾かして、そして「ちょっと」
 目の前に張っていた石鹸の膜が、パチンと割れたみたいに視界が復活する。
 彼女が若干怒気を含んだ目で僕を睨んでいた。どうやらさっきから呼んでいたらしい。全然気付かなかった。
「あ、ごめんごめん。考え事してた」
「読んであげている人を目の前にして、よくそんなことが出来るわね」
 ごもっともである。というか、怒られてばっかである。
「悪かったよ。で、今回は受け取ってくれるのかな?」
「……」
 何故かじっと見つめられる。いや、あのだからそういうのはあまり慣れてないというか。やっぱり今回もバカにされて終わるのだろうか、と危惧してしまう。
 しかし彼女の手の中にある手紙は未だ丸められてはいなかった。
 それどころか、さっき僕が折りたたんだ時よりも綺麗に折りたたまれていた。さすがだなあ、と素直に感嘆してしまう。
 ……ということは。
「……ふうん。少しは読めるようにはなってきたようね」
「ほ、ほんと?」
「私は嘘つかないし、お世辞も言わない。まあ、それなりに努力はしたようね」
 やっと受け取ってもらえた。一日十四時間頑張ったかいがあったというものだ。最近はちょっと腕を動かすのも辛くなってきたくらいである。やっぱり慣れてないと、何事も不具合が起きてしまうんだな。頭でなく、体で理解した。
「で? 私はこれを受け取って、どうすれば良いって言うの? まさかあなたの自己満足に付き合わされたわけじゃ、ないわよね」
 そんなことは断じて無い。ちゃんと理由はある。
「前に言ったと思うけど、君に聞きたいことを纏めて書いてあるんだ。そしてその手紙の返事を書いて欲しい。僕が退院するまでに」
「……返事」
「そう。それに書いてある内容に関してだけでいいから。お願い出来ないかな」
 向こうからのアクションとはこのことである。返事を書いてもらうという、アクション。
 しかし彼女はあまり意欲的ではなかった。
「結局、それもあなたの自己満足じゃない。それをして私にメリットはあるの?」
「……無い、かもしれない」
「全く。だからあなたはアホなのよ」
 ぐうの音も出ない。まるで某師匠のような言葉で罵倒されてしまった。よくよく考えてみればそうなのである。……いや、別によく考えるまでもないけど。確かに彼女には何のメリットも無い。それどころか無駄に時間を消費する可能性もある。実際彼女にしてみれば、今までのことも加え、この行為自体ただの迷惑でしかないのである。
「……まあ、良いわ。書いてきてあげる」
「…………っえ」
 空から耳が降ってきたような感覚がした。あれ、耳じゃないや。なんだっけ。頭が上手く働かない。
 彼女は今、何て言った?
「書いてきてあげるって言ってるの。あなたが言ったのに、ちょっと驚きすぎよ」
 相当驚いた顔をしているらしい。顔をぺたぺたと触るけど実感が湧かない。
「いやでも、まさか本当に書いてもらえるとは思ってなかったというか……。あの、ありがとうございます」
「気持ち悪いわね。じゃあ、明日か明後日にでも書いてくるわ。楽しみにして待っていなさい」
「うん。本当にありがとう」
「だから、気持ち悪いってば」
 彼女はそう言うと、僕に向かってシッシッと追い払う仕草をした。
 僕はそれに合わせ、彼女から離れる。
 そしてその場から離れると、興奮がふつふつと沸き上がってきた。
 受け取ってもらえた。受け取ってもらえた!
「よし、よし!」
 ニヤニヤが止まらない。言葉さえも、口からまるで壊れた蛇口のように漏れ出してくる。
 傍目から見たら精神病棟にぶち込んだ方が良いんじゃないんだろうかと、疑われるくらい自分でも気持ち悪かった。事実なのでしょうがない。
 まるでラブレターを受け取ってもらえたかのような気持ちだった。出したことも貰ったことも無いけど。でも多分、こういう気持ちなんだろうなあというのは理解出来た。
 嬉しくてしょうがない。今すぐにでも暴れたい。行き場が無いおかしなパワーが僕の中で荒れ狂う。
「あー……ハハッ」
 この場にいたら、多分色々な何かが自制出来ないで、迷惑を起こしてしまうかもしれない。
 なのでニヤニヤしながら足早にその場から立ち去る。何人かの入院患者やナースさんに見られたけど気にしない。
「気にしない気にしなーい」
 浮かれポンチな僕はどうしようもなかった。
 それくらい彼女に、大先輩に努力を認められたことが快感だった。
 まるで児戯のような文字を彼女は認めてくれたのだ。
 それが嬉しくて、嬉しくて。
 質問の返事さえも少しどうでもよくなるくらい、嬉しかった。
 そしてそんな高揚した気分は、病室に着いて、中に入っていた父に見られるまで続いていた。
「なんでそんなニヤニヤしとるんだ、お前」
「……………………何でもないよ」
 顔から火が出るという諺を、僕は身をもって体感した。
 今なら家一軒くらいなら燃やせるんじゃないか。そう思いました、まる。

     

 父にあの醜態を見られてから数時間が経過した。
 あの後、一時間くらい会話してから父は帰った。話によると、忙殺時期は過ぎ去ったとのことらしい。そういえば妙に清々しい顔をしていた気がする。
 そして最後に、父は「多分入り用になるだろうから、持っとけ」と言って、僕に一万円札を渡してくれた。
 そういや二週間ずっと文字の練習をしていたので、金銭が無いことについて全く気が回っていなかった。いやはや、病院とは恐ろしいところである。ニートの皆さんをぶち込んだら、絶対に出てこないんじゃないかと思う。ああ、でもパソコンも無いし、ゲームも無い。ましてや漫画なんてちょっとしか置いてないんだから、逆に苦痛か。
 いや、パソコンくらいなら持ち込みそうだ。というか、僕がそんな立場なら持ち込むと思う。
 一万円札を財布から取り出し、手で弄ぶ。折ったり、伸ばしてみたり。
 片腕が無くなるということは本当に不便なことなんだと、こういう時に実感出来る。もちろん食事の時なんか、一番強く感じられる。白米ボロボロ零れるし。初めての時は食べきるまで、一時間くらい軽くかかってしまった。ただでさえあまり美味しくない病院食が、冷めて更に美味しくなくなった時は、かなり食欲が失せた。でも決して不味いとは言わない。失礼だからね。
 そういえば、彼女にみかんを貰った時もかなり苦労した覚えがある。大量のみかん汁が待合室の机にぶちまけられたからなあ。拭くのも同様に苦労した。当の彼女は涼しい顔でワコワコ剥いていたけど。見事なもんだと感心した。
 退院まであと二週間。彼女は明日か明後日には持ってくるとは言っていたけれど、百パーセント信じても良いのだろうか、と少し不安になった。根性悪いしなあ。退院する日になって「これどーぞ」なんて言って渡されても困る。たった一度の意思疎通だけで、彼女の心構えを理解出来るはずもないだろうし。
 まあ、質問してる立場なんだし、そこは信じておかないとね。いくら人を見る目無いからって、それはあまりにも人を信じてなさすぎると思う。
 とか考えてるうちに、だんだん一万円札がシワシワになってきているのに気がついた。手遊びしすぎた、とちょっと後悔する。ちなみに手遊びはてすさびと言うんだぜーと電波を飛ばしておく。誰に届いたのかなんて知る由もない。「届きましたー!」なんて言いながら病室に駆け込んでこられても、困るけど。
 すると、病室の扉がいきなり開いた。え? マジ?
「へぇっ?」
「検温の時間ですけど……どうかしました?」 
「あ、いえ……なんでもありません」
 ただのナースさんだった。すごい失礼な言い方だけど。まるで屍のようだ。
 そして、つい情けない声が出てしまったことに今更気付く。今日は何回羞恥にまみれたら良いんだろう。厄日、なのかな。
 いや、でも手紙を受け取ってもらえたから、それだけでも十分ハッピーデイだ。
 そんなことを考えてニヤニヤしていたであろう僕の顔を覗きこんで、ナースさんはクスクスと笑っていた。またかい。
「何か良いことでもあったんですか?」
「……あー、ええ。まあ。」
 曖昧な返事を返して、さっさと話題を変えることを試みる。
「えーと検温、ですよね。わかりました」
「あ、はい。これでお願いします」
 ナースさんの手から検温計が手渡される。
 果たして、正確な数値は出るんだろうか。羞恥によって、体温が底上げされている僕はどうでもいい心配をした。
「心配しなくても、ちゃんと数字は出ますよ」
 そして見抜かれていた。
 どんだけ顔に出やすいんだ、僕は。
 
 検温を終えてから、ナースさんは病室から出ていった。あの病室の人、気持ち悪いのよ。ニヤニヤしてて。みたいな噂がナースステーションで立てられないことだけ心配だった。……大丈夫だよね。
 机の上に置きっぱなしになっていたシワシワの一万円札を財布の中に入れる。そして財布をポケットに入れ、ベッドから降りる。
 なんとなく、落ち着かない。なので病院内をちょっとウロウロしようと思った。途中で適当に暇つぶしの雑誌でも買おう。
 もう、することもほとんど残ってないしね。
 
 病室から出ると、消毒液の匂いが鼻をくすぐった。おそらく、この匂いはいつまで経っても慣れないと思う。
 腕を失ったところ。僕にとって、そんな場所としての意識が、頭の中に定着していた。
 子供の頃は、病気なんてあまりしたことがなかった。大きくてもインフルエンザ程度で。病院のお世話になるなんて、数えるほどしか無い。入院なんて今回が初めてだ。
 そういえば事故を起こした人はどうしたんだろう。生きてるのかな。結構大きな事故らしかったし。
 まあ、入院してからの間、僕の病室に一度も来ないところを見れば、この世にはいない、もしくは僕よりも大怪我を負っているかのどちらかだろう。僕がどれだけラッキーだったのかがよく分かる。それにもし会ったとして、僕はその人とどういう会話をすればいいのか分からない。よくも僕の腕を! とかそんな熱血なこと言えるはずもないし。これだから口下手は困る。上手く言葉を紡げないということは、身体の一部をなくしていると同じくらい不便なのかもしれない。不便だらけですね、僕。
 とか考えつつ歩いていると、以前彼女と出会った中庭に出た。
 そういえば、いつも待合室のテレビの前でボーっとしているのに、どうしてあの時は中庭にいたんだろう。気分転換か何かだったのかな。
 彼女が座っていたベンチを通り過ぎる。
 西日が目を突き刺し、顔が自然と歪む。
 後ろを振り返って、日に照らされて浮き上がった影に目をやった。レンガのタイルの上には、不完全な形で黒い人型が張り付いている。
 しゃがみこんで、不完全を隠すように左手で右肩を包み込む。現実を目の当たりにして、絶望感が僕の身体の中を侵食していく。汗がドッと吹き出して、吐き気がする。抗うと、決めたのに。そう、誓ったのに。
 自分の目からはよく見えなかった。だから耐えることができた。全体じゃないから。
 鏡の中では逆に見えた。だから騙すことができた。正確じゃないから。
 でも影は全て見えた。だから保つことができなかった。全体で、正確だから。
 自分が弱いということはよくわかっている。わかっているから、彼女に生きる術を問いかけた。
 拒む、抗う、拒む、抗う。ガチガチと合わない歯の間から、漏れてくる言葉たち。それは単なる言葉でしかなかった。言葉遊びなんかじゃない。ただの、単語。
 無い腕がズキズキと痛む。痛んで、僕が異端であることを如実に知らしめてくる。
 そう、僕は異端。世間から外れた、異なる存在。
 歩いていてどんな目で見られるんだろう。バスの中でどんな目で見られるんだろう。電車の中でどんな目で見られるんだろう。コンビニで買い物をしてる時、どんな目で見られるんだろう。生きていく中で、どんな目で見られていくんだろう。
 今まで積み上げてきた支えが崩れ去っていく。いくら文字を書く練習をしたって、そんなのはただの塵だった。ゴミだった。塵も積もれば山となるだなんて、誰が言ったんだ。風が吹けば、そんなもの全て無くなってしまうじゃないか。
 努力とは、量ではなく質なのだ。
 そんなこと、今更気付いてどうするんだ。どうしようもない。どうしようもない僕だから、今まで気付けなかった。
「……あー。社会、出たくねー」
「アホじゃないの」
 後ろを振り向くと、彼女が立っていた。
 力強さを携えて。
 僕には無い、何かを持って。
 僕はそれに縋った。欲しくて欲しくて、堪らなくて。
 だから、こう返事しよう。
 全てを受け入れ、認め、抗って、拒んで。こう返事しよう。
「……はい、アホです」
「よくできました」
 彼女はそう言って、朗らかに笑った。

     

 僕の目を夕日が焼ききろうとする。オレンジ色の射光によって照らされた雲は、幻想的で、魅惑的で。どこか不安を僕に感じさせた。
 僕と彼女は中庭にあるベンチに二人で腰掛けていた。ただ何をするでもない。彼女が座ろうとしたから僕も座った。おそらく彼女も僕が座ろうとしたから座ったのだろう。本質的には何も変わらない。ただ僕たちはそこにいるだけだった。
 ボーっとするのにもさっそく飽きたのか、彼女がフーっと溜め息をつく。僕はそれを横目で見る。あの時と同じような、どこも見ていない無機質な目。眼球が眼球足りえてない、まるで鉱物のような質感。水分を含まず、カラカラに乾いているような、そんな目玉が、僕がいる場所へと視線を向ける。
 そしてぴったりとくっついていた、薄桃色をした艷やかな唇がすこしだけ穴をあける。
「……なに?」
「…………いいや。なんでもないよ」
「そう」
 ただ君の目を見ていただけさ。そんなこと言えるはずもない。そんなこと言ったらまるで彼氏彼女の関係じゃないか。そして多分、そう言ってしまったら彼女は「気持ち悪いわね」と罵倒するだろう。嫌悪感を顔に塗りたくった、そんな彼女の表情が目に見える。
 さきほど、僕を励まして(励ましたのか?)快活に笑い飛ばした彼女はどこにもいない。ベンチに腰掛けるなり、この状態に陥った。ちなみに座ってから五分と経っていない。
 もしかして、彼女もまた僕と同じような感覚を持っているのだろうか。
 暇が憎むほどに嫌いという、生き急いでいるとしか、死に急いでいるとしか思えない。そんな感覚。
「ねえ」
「なに?」
「もしかして、君って暇嫌い?」
 気になったのなら、聞いてみよう。これくらいならば手紙を書く必要は無い。いくら口下手と言っても日常会話くらいしなきゃね。僕が言った質問の内容が普段の日常会話で飛び出すのか、それについては甚だ疑問だけど。
 そして彼女は僕の質問を耳に入れてから、僕から視線をそらし、少しだけ俯いた。
「暇が嫌い?」
「うん。さっきから明らかに不機嫌だから、そうなのかなあって」
「……そうね。そうかもしれない。無駄な時間っていうのは、ちょっと耐え切れないものがあるわね」
「ふうん。やっぱり」
「やっぱりってなによ?」
「僕もそうだから。暇、嫌いなんだ」無駄だから。
「あらそう。ま、私たち同類だものね」
「そうだね」
 別に嬉しくともなんとも……とは言い切れないかな。今まで分かり合える人、ほとんどいなかったから。
 この感覚を人に話す度に、変人扱いされてきたしなあ。僕に対し、暇こそが人類に許された休息なんだ! と鼻息荒く宗教じみたことを言う人もいた。そしてそれでも確証も無しに、彼女に問いかけてしまったということは、いかに僕が学習能力が無いか、ということを如実に語っていた。
 だからこそ、言い切れないのだろう。むしろちょっと嬉しいくらいだ。口には出さないけどね。
「あら。すごく嬉しそうな顔。今まで共感されたこと、あまり無かったのね」
 口には出さなくても、顔には出ていたようである。目は口ほどにものを言うというが、僕の場合は顔かな。…………どっちにしろ同じことなんだけどね。
「……まあね」
「あなた、すぐに感情が顔に出るのね。見てて飽きないわ」
 そう言ってクスクスと笑う。本当に愉快そうに。
「そりゃどうも」
「その癖、口には出さないんだから、不思議なものだわ」
「相手に感情を伝えるのが苦手なんだよ。口下手だから」
「ああ、だから手紙」
 そういうこと。僕はそう言って前を向く。
 彼女は僕にアホじゃないの、と言った。僕もそれを受け入れて、アホですと返事をした。
 そこにはどれだけの意味があるのだろう。そこには如何ほどの意味が偏在しているのだろう。
 おそらく、なんにもない。からっぽだ。だって言葉なんだもの。
 そう、ただの言葉。
 確かに僕は何もかもを受け入れた。そして何もかもを拒んだ。
 それは気持ちの問題だ。言葉なんて、そんな軽いもので済ましたくはない。
 腕を失ったこと。失ったことを諦めること。失ったことを認めないこと。失ったことを受け入れること。失ったことを拒むこと。どれもこれも、僕の中では等しく存在している。
 じゃあ、僕はそれをどうすればいい? ただそのまま置いておくだけ? 今まで生きてきて、培ってきた価値観で保護していくだけ?
 多分、そんなことをしたら僕は瓦解してしまう。どうしようもなく、弾けてしまう。
 だから求めた。彼女の持っているものを。
 腕を失い、毅然と生きてきた彼女が何に気付いたのか。僕はそれが知りたかった。
 だから手紙を書いた。使った。渡した。
 彼女はどう返事をしてくれるだろう。正直、怖くもあり、楽しみでもあった。
 彼女へと視線を戻す。彼女はもう僕の方を向いてはいなかった。痩せ気味といえる、細い首が淡く橙色に光っている。長く伸びた黒髪は、陽光を吸収して妖しく黒光りしている。
 僕の手がほとんど無意識に、彼女の髪へと伸びていく。僕自身、その手を止めようとは思わなかった。ただ吸い込まれていくのを、じっと見つめていた。
 指が髪にかかる。そしてスッと五本の指で髪を梳いて、人差し指に絡ませる。柔らかく、まるで砂を触っているような、そんな透明感。僕の指は彼女の髪を弄り倒していく。
 彼女はちらりと僕の方を向いたけど、何も言わなかった。視線も前へと動いていく。なので僕は遠慮なしに髪の毛を弄ぶ。
 髪フェチと言いながら、全く女性の髪に触ったことのない僕は少しだけ、いやかなり興奮していた。でもそこまで無遠慮なことはしない。ただ指と手のひらだけで楽しんでいた。
 この時間がいつまでも続けばいいなあ、と思った。でも時は無常に残酷に、容赦なく過ぎていく。
 そのマイペースさは、見習いたいものだ。
 まあ、それも単なる嘯きなんだけれども。
 
 数十分ほど、そうしていただろうか。
 太陽が沈みかけ、辺りが少し暗くなってきた頃に僕は意識を取り戻した。髪から手を放すとすぐに、後悔の念が僕を襲ってきた。なんでもっと意識を保っておかないんだ、どれだけもったいないことをしていたんだ、と。甚だ見当違いじゃないかと思う。これだけ勝手に触っておきながら、咎められないとでも思ってたのだろうか。
 思ってたんだろうね。アホか。
「髪。そんなに好きなの?」
 立ち上がって、尻をはたいている彼女が僕に問いかける。特に嘘をつく必要もないので、正直に答えておこう。顔がこっちを向いていないのがちょっと怖いけど。
「うん。大好き」
「……あっそ」
 全く興味無さそうな返事が飛んできた。じゃあ聞くなと思う。わざわざ胸まで張って言った僕が馬鹿みたいじゃないか。まあ、みたいじゃなくてそのまま馬鹿なんだけど。
 暗いし、そろそろ帰るわ。と言って彼女はスタスタと歩いていってしまった。
 僕は別れの言葉も何も言わずに、その背中を見送る。
 その小さな背を見ていると、ふと小さな疑問が湧き出てきた。
 どうして彼女はここにいたんだろう。なぜ僕に声をかけたんだろう。
 そしてそれらの問いは、どう考えても答えが出ないということもわかっていた。
 でも、もしもその答えの一つが、僕を励ますためだとしたら。もしかして、そうなのだとしたら、僕は手放しで喜ぶだろう。現にあの時、声をかけてもらって僕はとても嬉しかった。言葉では言い表すことが出来ない、そんな嬉々とした感情が僕を取り巻いていくのを感じることが出来た。
「ま、どうなんだろうね」
 そう独りごちてベンチから立ち上がる。腰を伸ばし、軽く柔軟をして身体をほぐしていく。
 外はもう真っ暗だった。街からの光のせいで、ここからは星をみることは出来ない。無駄に都会なので、無駄に街は煌々としている。地上に落ちた星が精一杯輝いている。そんな格好をつけたキザったらしい、歯が浮くような台詞も自然と頭の中に湧いてくる。そんな光景だった。
「さて……僕もそろそろ帰るかな」
 僕はそう言ってから、足早に中庭を後にした。すっかり夕食の時間を忘れていたのだ。多分ナースさんに怒られるだろう。時間を守ってください、と粘着性を備えた罵りを僕にぶつけてくるに違いない。
 そうならない為に、僕は病室へと急いだ。
 
 結局間に合わず、怒られてしまった。ううむ、中庭を出た時点でアウトだったことに気付いていれば、無駄に急がなかったのに。
 彼女は知ってたんだろうな。言ってくれればいいのに、と自分勝手に憤る。
 そして夕食を終えた後、僕は暇つぶしの道具を何も買っていないことに今更ながら気がついた。
「あー……失敗した」
 それならば、と僕は布団を被った。今日は色々なことがあって、僕は正直疲弊している。だからもう寝てしまおうと思ったのだ。
 寝てしまえば、何もかも忘れることができる。睡眠とは現実逃避に最適なのだ。ただそれは、本当に逃避でしか、ないのだけれど。
 目をつぶり、睡眠を貪ろうとする。
 しかしその前に、僕にはすることがあった。
 それは昔からしていることだった。いつから行っていたのかは覚えていない。気づいたら、もうすでに習慣として身についていた。
 寝る前に一つ、祈ること。
「良い夢を見られますように」
 僕はそう呟き、祈ってから眠りについた。

       

表紙

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Neetsha