○

 境内に用意された休憩室には、宿泊しているホテルに前もって注文した食事が運び込まれているのだが、響は自分が何を注文したのか覚えていない。だから、もしかしたら注文していたのかも知れないと、その可能性は捨てきれなかったが、しかし流石にこんなものは頼まないはずだ。
 休憩室に入った瞬間から、食卓の上に鎮座するセンチ単位の分厚いステーキを見て、響は言葉を失っていた。普段であれば喜んで食すのだろうが、体力が磨り減っている現状で胃に押し込むのは相当な重労働である。
「えっと……俺が頼んだんですっけ?」
 料理を運んで来たホテルの女性職員に尋ねると、まだ二十代だろうか、学生の雰囲気が抜けきっていないその女性は、申し訳なさそうな顔で首を振った。
「こちらにお任せ頂いた形だったのですが……その、シェフが、地元の和牛を是非食べて頂きたいと。開催が決まって以来ずっと張り切っていたので」
 周りは止めたんですが、とでも言いたそうにしている瞳が辛い。
「やはり対局中の食事でステーキは……お辛い、ですよね?」
「いえ、そんなことは。若いので、平気です」
 気を取り直して、極力軽く答えた。元はと言えばハッキリ注文しなかった自分が悪いのだから、用意して貰った料理に気に食わない顔を見せるなどという態度は絶対に取りたくない。
「本当にご無理はなさらないで下さい。何でしたら、今からでも別のものを――」
「――いえ。本当においしそうなので、見たらステーキの気分になりました」
 席に着き、頂きますと手を合わせフォークとナイフを手に取る。注意を払って用意してくれたのだろう、ホテルから運ばれてきたはずなのにまだ湯気があがっている。
 肉を一口大に切り分けている最中、ふと思い浮かび尋ねると、
「あれ……昨日は何を頂いたんですっけ?」
「サンドウィッチでした。昨日はシェフも納得してくれたので」
なるほど、やはり昨日は無難な食事を取っていたらしい。昼食の記憶が無いほど消耗していたのも事実だろうが、流石にこんなステーキを食べていれば忘れることもないだろう。
「ディナーで満足して頂こうと思っていたようですが、昨日の夜は浅井七段も竹中名人も、やはり対局でお疲れだったようで、ホテルのレストランにはお見えにならなかったので。もうこんな機会は無いかも知れませんから、焦ってしまったのだと思います」
 言われてみれば、昨日の夕食は外に出たくないからと部屋でコンビニのおにぎりか何かを食べたような気がする。責任を感じる必要も無いのだろうが、話を聞いてしまうと申し訳なさのようなものを感じずにはいられない。
「本当に将棋が好きなシェフで……家でも、ずっと将棋ばかりなんです」
 切り分けたステーキを一つ口に放り込みながら――疲労のせいか舌がぼやけてしまっているが、間違いなく旨い。対局中ではなくプライベートで食べたかったと心底悔やまれる――目で問うと、父でして、という短い答えと共に、グラスに水を注いでくれた。
「私、妊娠しているんです」
「へえ、それはおめでたい」
「まだまだ先なんですけどね。今から孫に将棋教えるってはしゃいじゃってます」
 それからふと、世間話の笑顔の中に真剣な表情を覗かせて、
「将棋って、どうやったら強くなるんでしょうか?」
どうせ覚えさせるなら強くしたいのだろうか、祖父を除けば誰一人として将棋を知らない家庭で育った響にしてみれば意外な反応である。
「うーん……本人が面白いと思えるかどうかが大前提ですけど、とりあえず実力つけたいって話なら詰め将棋ですかね。一日一問でも、やればかなり違いますよ」
 普及イベントなどでも定番の質問だけに、答え慣れていた。
「浅井七段も、そうして強くなられたんですか?」
「自分の場合は、少し環境が特殊だったので……参考にならないと思います。ただ、詰め将棋は今でも、習慣ですから」
 そうして、軽い会話をしながらの食事を終えると、休憩時刻はまだ三十分も残っているだろうか。食器と共に下がろうとする彼女が、おずおずと申し訳なさそうに筆ペンと白扇を取り出して、
「あの……もしよろしければ、一筆お願いしてもよろしいでしょうか?」
こころなし震えた声だった。
「休憩中ですし、問題無いですけど……字は、本当に汚くて。良いですか?」
「そんな、是非お願いします」
「……お父さんへのプレゼントで?」
 こくりと頷く姿が、これから母親になるというのに妙にかわいらしい。昼食を懇切丁寧に世話してくれた相手の頼みを断るはずもなく、白扇と筆を受け取って、
『絶品』
と、見栄を張って形を整えようなどとは考えず、思うままに感謝の念を込めて走らせた。
「有難うございます、絶対に喜びます」
 はしゃいでいる彼女に、
「出来れば、料理のお礼に無理矢理押しつけられたってことにしておいて下さい。その方が喜んでくれる気がするので」
軽く注意を――彼女の父が本物の将棋ファンであれば、娘の純粋な行動にも責任を感じてしまうかも知れない――添えておく。
 部屋の表まで見送りに出ると、
「あの……最後に」
「はあ、何でしょう」
「子どもの名前を、是非浅井七段の名前から頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
とんでもない事を言われ、これはさすがに返事を躊躇う。今まで様々頼まれごとをされた経験はあるが、名前をくれと言われたのは初めてだった。響という一文字を持った名前などいくらでもあるだろうし、断る方がおかしいのかも知れないが、気軽に「はいどうぞ」と言えるものでもない。
「お話伺っていたら本当にファンになってしまって……名前の響きもとても素敵ですし」
「まあ……響ですからね」
 断じてギャグで言っている訳ではない。
「旦那さんとよく相談して、その上で決めて下さい。俺の方は構いませんから」
 響の返事を許可と受け取ったのか、
「本当に頑張って下さい、応援してます」
別れの言葉はすっかり破顔していた。
 本当は名を譲れるほど出来た人間では無い、休憩中とは言え対局の最中に非常識な人間がいたものだ――そう思わなかった訳ではない。
 しかし、妙に気合いが入ったこともまた事実。
「乞食と知って謙虚になったか」
 他者の応援を素直に受け入れられるようになった自らの精神、その成長に、小さな感動すら覚えながら、一つぼやき、残りの時間は畳の上で寝転んで休む。

        ○