四の二

 雀荘から立花家までは自転車で三十分といったところか、さすがに間に合うはずもないと無理に急ぐことはせず、茜空の眩しい時刻をのんびりこいで到着する頃には程良く暮れた薄闇に花映える紫色の空だった。
「悪かったわね、急になっちゃって」
 門を開けて出迎えた千代が呆れた風に教えてくれた。
「別に良いけど、珍しいじゃん」
「私も朝から色々忙しかったから、ギンに連絡任せちゃったのよ。そしたら直前になって忘れてたとか言い出して」
「そんなことだろうと思ったよ……んで、俺に電話する前に散々怒ったんだろ?」
「あら、良く解ったわね」
「ふて腐れたガキみたいな電話だったからさ」
「それはごめんなさい、響にしわ寄せいっちゃったのね」
 口元を押さえて上品に笑いながら、自然とそういう仕草が出てくる辺りが育ちの良さなのだろうか。
「花見ながら父さんと指してるから、面倒ついでにフォローしてあげてくれない?」
「本因坊からの刺客か、そりゃ見物だ」
「父さんの将棋に囲碁の看板背負わせたんじゃ、算砂もあの世で泣いてるわね」
「ともかく行ってみるよ、フォローの方は約束できないけど」
 立花家は元より文化人の血筋らしく、現家長の鑑連(あきつら)は碁打ちとして全盛期にはその頂点を極め、現在も大きなタイトルにも絡みながら第一線で息の長い活躍をしている。碁打ちとは何かと因縁深い将棋指しとしては負けられない戦いのはずだが、相手が鑑連では話も別だろうと、顔を出してみれば案の定、どちらも猪口を片手に姿勢を崩して談笑しながら指しており、鑑連の脇からは慈乃が公然と助言している。
「響ちゃん遅いよ」
 やはりというか、真っ先に声を上げたのは慈乃だった。
「おじさんこんちわ。あと、遅れたのは銀のせいだから」
「いらっしゃい。響がいないと慈乃がうるさくてたまらなかったよ」
 碁打ちとしては勝負の鬼とまで言われる人物も家の中では柔和な父親であり、響も古くから良く面倒を見て貰った。将棋の世界に深入りするようになってからというもの肉親とは何となく距離を感じるようになっていたが、そんな響にとって立花家の空気は心底から落ち着けるものだった。
「おばさんはどこいるの? 挨拶してこないと」
「わざわざ構わんでも良いさ、そのうちここに顔を出す。それよりこの局面をどう見るか一つ御指導願いたい、慈乃の言うことは感覚的すぎてどうも解らん」
「私は間違ったこと言ってないもん、お父さんが将棋下手なだけじゃん」
 やり合い始めた親子はひとまず放置し銀乃介を一睨みしてみると、よう、と何の負い目も感じていないような表情で返された。
「何か言うことあるんじゃないのか?」
「まあまあ、細かいこと気にしてないでまずは呑めや、駆けつけ三杯ってな」
「未成年だっつーの」
「そりゃいいや、この機会に慣れておけ。なあ、おやっさんもそう思うだろ?」
 話を振られた鑑連は、
「吐くのも経験だからなあ、無理は良くないが、慣れておくのも大事なことだ」
と、ニヤリを浮かべ良すぎる程の段取りで用意してあったらしいお猪口を一つ取り出すと響へ差し出した。
「まあまあ一献、昇級祝いさ」
 徳利を手に持ち受けろと言う。
「呑ませる気だったでしょ」
「女所帯だからね、男の子と呑むのが夢だったんだ」
 そう言われてしまっては断る訳にもいかず、腹を決め、頂きますと盃を受けた。

「十二日の神座位トーナメントからだよね?」
 縁側から足を垂らし夜闇に舞う花を眺めていると、隣に現れた慈乃はオレンジジュースのコップを持っていた。響は、ちびりちびりやる分にはひどく酔う事もなさそうだと結局酒を呑み続けている。祖父も父も酒飲みだから遺伝かも知れない。
「だな」
「大阪だよね、いつ行くの?」
「十一日の学校終わってから入れば良いだろ……土産欲しけりゃメール入れとけ」
 七大タイトルの一つ神座位は一次二次の予選を勝ち抜いた八名にシード棋士八名を加えたトーナメントで正式な挑戦者を決定する。響は一次予選から勝ち上がりトーナメントに駒を進めていた。
「小寺先生でしょ、強いよねえ」
 一回戦であたる相手は小寺孝高(よしたか)左近・棋将位。プロ十四年目通算タイトル獲得は六期のA級棋士、繊細な読みで慎重な手筋を見せるかと思えば行けると信じた所ではとことんまで押しまくり混戦をものにする緩急激しい居飛車党。先日の棋将位挑戦ではタイトル保持者の六角を三タテで下しての奪取など勢いに乗っており、棋界では六角天下を終わらせる新世代の一人と目されている。神座位ではシード権を与えられており挑戦者決定トーナメントから参加、響には格上も格上の相手だ。
「格上とやるのが初めてって訳じゃない、何とでもしてみせるさ」
「おお、頼もしい。銀ちゃんより先にタイトル獲っちゃいそうだね」
 はしゃぐ慈乃の声が届いたのだろう、
「あんまり響のこと調子のせてんなよバカ慈乃」
と面白く無さそうな声の銀乃介は二次予選で敗退していた。
「俺が先に獲ったら敬語使えよな」
「クソガキが、ボロクソに負けて泣いてこい」
 ただの嫉妬ではなく、それは銀乃介自身の経験、予選と本選の空気の違いを身に染みて叩き込まれたからこそ出た発言だったろう。
 銀乃介はタイトルの本戦に三度出場したことがあるが、挑戦権獲得までは至れていない。予選までは相手が格上であっても油断や時の運で勝てることもある、しかし本戦となれば全員がタイトルを意識してくるのだからそのようなことは有り得ない。完全に実力だけがモノを言う勝負になる。
 響も余裕を見せてはいるが格上相手の実力勝負など初めてのこと、考えれば考えるだけ頭が痛くなる思いであり、そして痛くなる分だけ胸の鼓動が高鳴るのもまた事実だった。
「負けねえよ」
 呟きが漏れるほどに勝ち気を崩さないのはタイトルの為ばかりでなく、むしろその目的からすればタイトルなどおまけ程度に過ぎない。
 トーナメントの別山、決勝でなければ当たらない位置には、前回四傑のシード枠として六角源太の名が載っている。六角源太は名人戦以外の対局など数に数えないだろうが、響はたとえどのような形でもこの怪物棋士と盤を挟んでみたかった。
 師弟という関係にも関わらず、響と源太は盤を挟んだ事がない。指導はおろか模擬戦も、ただの一度も無い。形として残っている棋譜から源太の強さは十二分に明らかだったが、直に感じなければ信じられないと考えることは自然ではないか。六角源太と一局を交えたいという、響の心中で滾る熱には、未だ遠い名人戦を待つだけのゆとりなど無い。
「いいなあ、私も応援行こっかな」
「何言ってんだ平日だぞ、普通に学校行け」
「えー、いいじゃん」
「良くねえよ。入学早々そんなふざけた理由で抜けようとすんな、クラスで浮くぞ」
「ちぇっ、けち」
「大体お前自分のリーグ戦始まるだろ、他人構ってないでそっちに集中しろよ。初戦まで一週間切ってんだぞ」
 リーグ初戦は六日後の土曜日のはずだった。
「相手大友さんだろ、対策は?」
 大友義鎮三段は今回でリーグ八回目となる人物で、響もリーグ時代に一度当たっている。
「棋譜のコピー取ったよ」
 自信満々にそう答えるのだから、響でなければ愛想を尽かすだろう。
「ちゃんと作戦考えてるか? 居飛車も振り飛車もまとまったレベルで指せる人だぞ」
「確かにどっちも指してたけど、どっちもつまらない棋譜ばっかりだったもん」
 天才とは恐ろしいもので、こういう事も平然と口にする。
「お前、絶対に余所でそういうこと口に出すなよ、本当に」
「でも、大友さんの場合どっちも指せるっていうかどっちも形だけって感じだよ。居飛車でも銀ちゃんみたいに怖くないし、振っても響ちゃんみたいにネチネチしてないし、急戦でも持久戦でも基本的に読みが浅いし」
「油断し過ぎだ」
「だって勝てるもん」
「ここまで言って負けたら承知しねえかんな、本当に、負けたらマジで縁切るからな」
 半ば言い争いのようになりながら、響としてはここまで適当な態度で対局に臨むことが信じられないし、慈乃は慈乃で真剣に棋譜を検討した末の結論を述べているつもりだからかみ合うはずもなかった。
「だって、本当だもん」
 小さく震えるような声の慈乃に、ようやく響は言い過ぎたと気が付いた。このままでは下手をしたら泣き出すかも知れない。
「一々ウジウジすんなよ、面倒くせえな……高校入ってそんなんやってたらマジでいじめられるぞ、周り知らない奴ばっかなんだから」
「響ちゃんがいるもん」
「あのな――」
 言いかけたところで麻雀部の罰ゲームを思い出し言葉が止まった。元よりこれ以上小言を続けた所で慈乃は聞く耳を持たないだろうし、ならば機嫌を損ねるだけの無駄な会話はここで打ち切って例の約束を済ませてしまおうと考えたのだ。
「そいや、制服ちゃんと用意してあるか?」
「それくらいちゃんとしてるよ。お姉ちゃんが一緒に行ってくれたもん。バカにしないで」
 結局千代に頼っているじゃないかと言いたいところを飲み込んで続ける。
「じゃ、一足先にちょっと着て見せてくれよ」
 写真は撮らなくて良いと言われたが、証拠が無くては報告するにも不自由だろうと携帯のカメラ機能を確認する。
「え……何で?」
「いや、見たいから」
 罰ゲームと本人に伝えることは禁止というルールまでしっかり守る、何のかんので響は律儀な性格をしていた。
「見たいの? 響ちゃん私の制服姿見たいの?」
 そして慈乃も、先ほどまで拗ねていたのはどうしたのか、すっかり忘れたように異常な喜びようだ。
「ああ、見たい」
「うん、いいよ、とくべつね。特別だからね。ちょっと待ってて、すぐ着替えてくる!」
 風を巻くように立ち上がりドタドタと廊下を鳴らして走り去った慈乃の後ろ姿を見送りながら、女は新しい服が手に入るととかく他人に見せたがるというのは本当らしいと、響は世間一般で語られている常識の意外な正確性に関心していた。
 テストのつもりで桜の木を撮影してみると、案外綺麗に撮れている。メールと通話以外の機能など殆ど使ったことのない響にはこれが結構な衝撃で、またこれならば十分証拠として提出できると目処も立った。
 十分と経たないうちに慈乃は着替えを済ませて戻ってきた。
「いや……着替えるの早いな」
 呆れから思わずそう漏らしてしまうほどだった。
「どう? ねえ、どう?」
「ああ、良いんじゃないの。普通に馴染んでる」
 学校にいる女子と同じような感覚で見る慈乃というのはどこか新鮮だ。
「じゃ、一枚撮らせろ」
「撮るの? 撮りたいの?」
「良いから撮らせろよ」
「とくべつだからね、特別だよ」
 と、慈乃は何故か裸足のまま庭先に降りていく。
「何で下降りんだよ、裸足じゃ足汚れるぞ」
「良いよ、どうせお風呂入るから。それより折角桜綺麗だし、ね、撮って」
「はいはい、解ったよ」
 元気がなくても困りはするがやかましすぎるのも困りものだ、などと心中呟きながらもはいチーズの掛け声は忘れず、パチリと鳴った電子のシャッター音、画面に映し出された慈乃と桜は庭の電気灯籠の灯りに程良く照らされ、どちらも満開といった具合。
「どんな感じ、綺麗に撮れた?」
 脇からのぞき込んでくる慈乃に携帯を渡してから、ふと口許に寄せた猪口が空と気付き、他の人間が揃っている庇間へ戻る。と、敷居を跨いだ瞬間から一斉に視線が集まり、千代が母と二人で微笑ましいものを眺めるような視線を向けてくるのに対し鑑連はどこか複雑そうな表情、銀乃介に至っては腹を抱えているという、てんでまとまりのない状況だった。
「何だよ、気持ち悪いな」
 酒の入った徳利を探し当て手酌をしながらぼやくと、鑑連が、
「響のことは信じているが、まだ高校生なのだから節度を守った付き合い方をするように」
と、いかにも堅い風に言うので、
「いや……そんなに神妙な顔して心配しなくても、潰れるほど呑まないって」
返すと、銀乃介が堪え切れんといった具合に声を上げて馬鹿笑いを始めた。
「響くんだから安心してるんだけどなあ、私は」
 と今度は母が言う。
「いい加減おやっさんも諦めろって、何年同じ事ぼやいてんだよ。もう宴会芸の域だぜ」
 銀乃介は笑いすぎて声が震えている。
「いや、マジで何言ってんの?」
「大丈夫、みんな本当のこと知った上で肴にしてるだけだから、相手にしないのが吉よ」
「だから肴って何だよ」
「まあ、何て言うか、将来そうなったら良いのにね……みたいなお話かな」
「はあ?」
「良いから、早く慈乃のところ行ってあげてよ。響が離れるとあの子うるさいんだから、戻ってこられたら静かに呑めなくなっちゃうでしょ」
「ひでえ言い草だな、仮にも妹だろ……っても、まあどうでもいいか」
 謎は解けないままだったがどうせ大した事では無いのだろうと納得し縁側へ戻った。