四の三

 入学式など本来なら響の学年は無関係なはずであるからとその日は一日家で対小寺戦へ向けた作戦の洗い直しと棋譜の再検討でもするつもりだったが、朝一番で家へ押し寄せて来た慈乃に予定は脆くも崩れ去った。
 家族はどうしたと尋ねれば勝負師一家の業というものか、鑑連が対局で遠征し母はその世話に付き添わなければならず、千代に関してはタイトルの予選が被さっているから出られないだろうと既に把握していたが、家族総出で家を空けるのならせめて前もって連絡をしておけと思う。
「響ちゃんなら今日は空いてるから大丈夫だってみんな言ってたよ?」
 なるほど響が断らない事を織り込んでのことらしい。親しく付き合いすぎるのも考えものだろうかとまで思ってしまう。
「でもまあ、良いか」
 無人の教室ならば家でやるのと同じ事、案外気分転換になってはかどるかも知れないと、通学用鞄にコピーした棋譜を押し込んで制服に着替える。
「流石に式典までは付き合えないけど、付き添いくらいならしてやるよ。教室で待ってるから終わったらメールしろ」
「ごめんね、ありがとう」
「別に……行き詰まってたし、気分転換だよ」
 正面から礼を言われると照れ臭く、一歩先で踏みしめる通い慣れた川沿いの道は桜の色に染め上げられ、水上をたゆたう花の流れの優雅さにこのような棋譜を一度は描いてみたいものと、うちに思うと7六歩が声に出た。
「8四歩」
 間を置かず背から届いた声に更に重ねて2六歩――


 一年を過ごした教室も進級を終えれば白紙に戻り何事も無かったかのように新しい学生を迎え入れようとしている。窓際の席を一つ借り、校庭で咲き誇る開校来の百年桜を眺めてみれば、一人で家に籠もっていたときのいきづまりの感覚も花と同じく散らされたかと、対局へ向けて明るい兆しも見えてくるようで、感謝すべきはこちらかも知れないと、昼飯でも奢ってやろうかと考えていると、丁度式も終わったらしく連絡が来た。
 待ち合わせをした昇降口へ向かうと新入生の大群の中で一人キョドキョドと不安そうにしている姿が目に入り、これから大丈夫だろうかという不安も湧いたが、クラスが定まれば気の合う人間も見つかるだろうと余計な心配はしないことにする。
 それでもあの状況で長く放っておくのも酷と、手刀を切り切り人混みを掻き分け慈乃の手を取ると、化粧臭い保護者の集団を避けるようにして校門を出た。
「飯行くか、入学祝いに奢ってやるよ。何食いたい?」
「響ちゃんの食べたいので良いよ」
「俺もなあ、別に何でも良いんだけど」
 頭の中に詰まった店の情報を引っかき回していると、駅前で新しくオープンしたロシア料理の店が浮かんだ。確かランチもやっているはずだ。
「じゃ、ロシア料理食うか」
「ボルシチとかだっけ」
「俺もそれしか知らねえや」
 ロシア料理って何だろうなどと語り合いながら歩き出す。