九の四

「とにかく、棋王の八強戦もすぐだ。気合を入れ直さなければな」
 世界棋王戦――韓国の有名企業が主催する、碁の国際戦では大規模なもので、十一月の初めに準々決勝が行われる――で八強まで残っている日本代表は鑑連一人、しかし一次で全滅ということも珍しくない日本碁界の現状からすれば立派に健闘していると言える。
「響も丁度王竜戦の第二局がある頃だ、お互い勝って祝杯といこうじゃないか」
「こっちが一日・二日で、そっちは三日だっけ?」
「うむ、よく調べてくれてある……が、若造は自分のことに集中していれば良い」
「そう言う割に、おじさんはこっちのことも全部把握してるじゃん」
「生意気を言うな、貴様達と私では格が違うわ」
 へーへーと適当に聞き流しながら、いつの間にか三人の手元は清酒に変わっている。
「おっちゃんが国際戦に苦手意識持ってるのは解ったけど、今までも、苦手な相手とかはいただろ。そういう相手にはどうやってきたんだ?」
 と、銀乃介は何故か響の方を見ながら言う。
「そうだな、苦手意識を植え付けられた相手というのは、確かに厄介だ」
 返す鑑連もまた響を見ている。
「まあ……聞いてやっても良いけど」
 露骨なお節介ではあるが、鑑連の助言の的確さは身を以て知っている響には断る理由も無い。言葉尻ではつれない態度をしてみせながら、知られぬように腹に力を入れ直し、酒に揺れる頭を醒ました。
「今から二十八年も前になるか、私が初めて本因坊に挑戦した時のこと――」
「――ちょ、国際戦の話じゃないのかよ」
 ずっこけそうになる銀乃介に、
「黙って聞け」
ぴしゃりと言う。
「当時十八歳だった私はリーグ入り最年少の新星として注目を集めてな、飛ぶ鳥を落とす勢いとは正にあのことだったろう、リーグでも破竹の勢いで連勝を重ねてあれよあれよという間に挑戦を決めたのだ」
 ふふん、と誇らしげに酒を煽りながら。
 以降二十八年間、十年前に一度全てのタイトルリーグを陥落した時期を除けば、取ったり取られたりを繰り返しながら今に至って延々居座り続けている――ということまでは響も知識として聞いたことがある。将棋で言うところの六角のような存在だ。
「最年少タイトル挑戦だとよ。どこぞの誰かみてえな話だな、おい」
 銀乃介に言われ、響の脳裏に譲り受けた羽織が浮かんだ。
「そしてまあ、初戦だ。相手は変わり者で有名な人でな……まあ、そもそも常識人の方が少ない世界なんだが……神のお告げがあったとかナントカで、初手に天元を打たれた」
 碁に関してはさして知識も無い響が戸惑っていると、
「タイトル戦で鬼殺しやってきた、みたいなもんだ」
と、銀乃介の喩えが耳打ちされ、なるほどそれは有り得ないことだと納得する。
「内容がひどかった。相手の好手と言うよりも、こちらがミスを連続して負けたんだ……そうなれば、その後も散々でな、それまでは連勝記録が付くほど絶好調だったのに、他の予選でもボロボロ負けるようになってしまって、タイトル戦もストレートでカド番だ」
 言葉を止め、その資質を験すかのように響の瞳を覗き込む。
 響は動じずに睨み返す。
 そうして十秒も固まっていただろうか、やがて鑑連は満足げに大きく頷き、続けた。
「腹をくくってな。四局目、私の黒番で、初手天元をやり返したんだよ。その後は知っての通りだ」
 つまりカド番からの四連勝で史上最年少本因坊誕生、ということになる。
「正直なところを言えば、天元は今でも扱いが難しいし、当時の棋譜を見返しても最善手を打てていたとは思えない。それでも当時の私には初手天元が必要だった。あそこでやり返していなければ、今の私は無かっただろう」
 神妙な面持ちで鑑連の一言一句に頷く銀乃介に対し、響は呆れたような顔で、
「それ、要は地力でゴリ押しして勝ったっていう話だよね? 余計なハンデまで背負って」
と身も蓋もないまとめ方。期待が大きかった分ガックリきたというのが本当の所だった。
「まあ、そうとも言うか……ふむ、だがしかし、勝負事なんてものはある程度まで行ってしまえば案外単純で、結局は意地が折れた時に負けるんじゃないか?」
 鑑連は静かに言うと杯を置き、
「腹をくくるなんてことは、幾ら他人に言われても、追い込まれなければそうはできないからな。結局は、自分で悩むしかない」
「解ってる……そこまで頼るつもりはないよ」
「まあ、お前の対局には間に合わないが、答え合わせのつもりで私の棋王戦を見ることだ……苦手な相手に意地で勝つという意味を教えてやる」
不敵な笑みを見せながら言った。