一〇

     十

      十の一

 ゲームチャンプも真っ青な十六連打の呼び鈴で叩き起こされると、ボロアパートの慣れた部屋はまるで大地震でもあった直後のように荒れていた。棋書や漫画を詰め込んだ本棚は真横に倒れその中身が、壁に投げつけたコップの破片が、他にも諸々、狭い室内に踏み場無く散乱している。
 脳が覚醒してくるにしたがって、昨夜、王竜戦第二局を終え深夜東京に帰ってきてからの、癇癪を堪えきれなかった自身の醜態が思い出されると、いよいよもって最悪の寝覚めとなった。
「響ちゃん、起きてる?」
 立花家用の合鍵で乗り込んできた慈乃をベッドに寝転がったまま仏頂面で迎える。
 室内の荒れ模様に言葉をなくし、唖然として立ち尽くす慈乃の背後から千代が現れ、
「これはまた、久しぶりに荒れたこと」
こちらは至って冷静な対応。
「久しぶりっていつの話だよ」
「ほら、奨励会の頃、小六の夏休みの時。大頓死やらかして、ウチで大暴れした事あったでしょう。父さんが珍しく響のこと叱ったじゃない」
「いい加減忘れろよ……そんな昔の話」
「何言ってんの、ついこの前の話でしょう。中身だって何も成長してない癖に」
 言い捨てながら、錯乱したガラスの破片を拾い上げ、テキパキとゴミ袋へまとめていく。
「で、今日はどうするの。このまま部屋で拗ねてる?」
「行くよ……っつーか拗ねてねえよ」
 これ以上ダラダラしていては余計に笑われるだけとベッドから起き上がる。
 本日土曜日は鑑連の世界棋王戦トーナメントの八強戦、響は立花姉妹と共に、市ヶ谷で行われる解説会へ向かう予定となっていた。


 国内囲碁の総本山は市ヶ谷にある棋院東京本館。将棋会館よりも一回りは大きい建物は、千駄ヶ谷のねぐらとは少々趣を異にする気品、所謂高級感のようなものが漂っている。
「何か……碁と将棋ってお隣さんって感じだけど、やっぱ違うよな」
「そうかしら、気にしすぎなんじゃないの?」
 千駄ヶ谷の連盟囲碁部では発足以来最強格とまで謳われ、息抜きの碁会所通いも最低で週イチは絶やさないというだけあって、千代はこの界隈にも慣れており、先導するように前を行くその足取りは、ひょっとすれば千駄ヶ谷よりもと疑われるほどに、蝶が舞うかのような軽やかさである。
「お姉ちゃん、今でも四分の一くらいは碁打ちだもんね」
 そう言った慈乃はどこか緊張した面持ちで、響と同じくよその家へお邪魔するといった様子。
 一階のエントランス、碁に関する展示物を横目で眺めながら、大盤解説が行われる予定の二階へと上がる。普段は一般対局場として開放しているのだというスペースでは多数のアマチュア愛棋家が碁を楽しんでおり、二階までは一般開放という辺りは同じか、などと巡らせながら、響は慈乃と二人で売店コーナーに並べられたグッズを眺めていた。千代は知人への挨拶に場を離れている。
「――これおじさんの本じゃん……碁も楽しそうだし、一冊くらい買ってみっかな」
「わざわざ買わなくても本人と打てば良いのに」
「流石にド素人が遊び感覚で指導頼むのは気が引ける相手だって。ある程度打てるようになってからならともかく」
「そんなこと気にしなくても絶対喜ぶよ、本格的に碁を打たせたいってよく言ってるし」
「本格的となると、将棋だけで手一杯だしな。将棋に役立つなら幾らでも勉強するけど」
「大体この本ならうちにあるし、買うなら他のにしなよ……ほら、江戸時代フェアやってるんだって。算砂の碁とかもあるよ」
「へえ。将棋の方は並べたことあるな」
「一世との?」
「二世とのも。江戸は遊び感覚で一通り並べたから」
「算砂とお父さん、どっちが強いと思う?」
「あー……序盤分でおじさんが勝つんじゃないかな」
「算砂が今の定跡覚えたら?」
「うーん、そりゃ算砂だろうけど……正直算砂は、功績は立派でも、強いとは思えないんだよな。江戸だと三代宗看とか宗英とか、それに宗歩辺りは今の考え方を覚えたら面白いかも――」
 江戸時代フェアに引き摺られて話を進めていると、
「貴方、浅井響ですね」
背後から突然腕を掴まれた。
 振り返れば、慈乃に対する視線で丁度良いような、響よりも一回り小さい背丈。華奢な体躯で整った顔立ちをしており、透き通るような肌に咲いた桃色の唇、呼ばれた声も男のそれと聞こえなかったものだから、響はてっきり女の子かと勘違いをしていたが、中学生程度だろうか、年のせいで着られてしまっているスーツ姿、美しい少年だった。
 綺麗な薔薇には何とやらということか、響を射貫く視線は敵意に満ちている。
「そうだけど、君は?」
 穏やかな口調で応えながら、さり気なく腕を振り払う。
「うちの一世に言い掛かりをつける気ですか」
「一世……ああ、聞いていたのか。まあ将棋の話だから」
 相手が子どもということもあり、気を悪くしたのならすまなかった程度に一言謝るべきかとも考えたが、元より難癖をつけられているとしか考えられない話の流れ、しかも非礼を取ってきたのはあちらが先である。
 敢えて受け流すような答え方をしてやると、
「ここは市ヶ谷です……貧乏臭い将棋の話なんて、千駄ヶ谷のボロ屋敷でやって下さい」
ピクリ、とこめかみが引きつるのを感じた。
「大体、そちらの一世はその弱い将棋でも互角だったって言うじゃないですか。所詮その程度、学のない人間の遊び事なんだ……まあ、将棋は上座の器ではないってことですよね」
 ハッハッハ、と声を張り上げて勝ち誇る。この高笑いには流石に堪える義理も尽きた。
「七対一ついてりゃ当時は駒落ちで良い手合いだろうし、平で指してることが既にお情けなんだけどね。しかしまあ、アレを互角扱いとは……碁ってのは随分甘い世界だことで」
「響ちゃん、やめて」
「甘いだと。甘いと言ったんですか、貴方は!」
「ジンバブエドルみたいな段位に慣れてるせいで感覚までイカレてんじゃないの?」
「響ちゃんってば」
「言わせておけば、取り消して下さい」
「手前が売ってきた喧嘩だろう。後からガタガタ垂れるなよ、このカマ野郎」
「カ……カマじゃない! 僕は男だ!」
「知ってるさ。昔大岡に掘らせたケツを今は政治屋と成金豚に耕して貰ってんだろ?」
「何てことを、やはり将棋指しの品性は畜生にも劣る」
 往来でぎゃあぎゃあと言葉の殴り合いをしていれば人目につかないはずもなく、
「アンタ達何やってんの!」
間もなく、騒ぎを聞きつけて急いだのだろう、息を切らして戻ってきた千代から特大の雷が落ちた。
 条件反射で全身がビクリと固まった響に対して、
「うわっ、千代ちゃん」
先ほどまでの威勢はどこへやら、謎の美少年もまたすっかり怯えた表情である。
「待て千代、場所を変えるぞ」
 鰐皮の踵で床を鳴らしながら、悠然と現れた壮年の紳士は、言葉選びこそ妙ではないが、その声はいかにも演歌が似合いそうな厳めしい重低音。オールバックでガッチリと固めた髪型に黒のスーツという出で立ちもまた尋常ならざる雰囲気を醸し出しており、この上仮にサングラスでもかけていようものならまず職務質問に引っかからない方が不思議というもの。
 しかし、どこかで見覚えのある顔である。果たして誰だったろうか。
 響が記憶を探っていると、青ざめた表情の少年が、高橋先生、と今にも死にそうな声で呟いた。