十の三


 丁寧な解説にあやかりながら、次の一手が伝わる合間にどこからか引っ張り出した将棋盤で六枚落ちの三面指し、兄弟子達の相手をしていると、
「おい、打ったぞ。14の十一」
その一言に場の全員がざわめいた。左辺下段の局地戦から中央へ繋げていこうかという所、突如右辺中段へと転戦し相手の石の中に放り込むような一手。碁に詳しく無い響でも首を傾げるほどである。
「この石……危なくないんですか?」
 じっと盤を睨む山中少年の迫力に思わず敬語になりながら尋ねる。
 しばらくの沈黙の後で、解りません、という返答だった。
「先生の打った手ですから、何か意味があると」
 間を置かずに、相手は鑑連の石を包囲し右辺の戦いを有利に進める一手。
「相手にしてみりゃここしかないもんなあ」
「しかし、先生の次が読めない」
「いずれにせよ始まるな……ヒビキ、今のうちにお茶買ってきてくれ」
 二人同時に返事をすれば、笑いが起こるのも自然である。

 兄弟子達の好みを把握している山中少年が自販機のボタンを押し、響は脇で出てきた品を抱えて待つ。
「碁打ちにとって、碁の負けは死だ」
 ふと、山中少年が呟いた。
「入門して最初に教わった事です。まずはそのことを実感できるようになれ、と」
 言葉を換えればどの業界でも言われていそうな教えであるが、勝負の世界において頂点を極めた存在が口にしたという前提がつけば、言葉に込められた重みというものがまるで異なってくる。
 立花鑑連が口にしたのだから、碁打ちが碁で負けたなら、勝負師が勝負に負けたなら、それは死なのである。
「そこまで突き詰めてしまえば逆に手が縮こまる、先生も一種の喩えとして口にしているだけだと……以前はそう思っていたんです」
 目の前の少年が、もしもありのままの中学二年生であるならば、珍妙な言い回しとして聞き流していただろう。
 以前は、と少年は言った。
「今は違う?」
「本気で覚悟した上で乗り越えなければ先生の所まで辿り着けない。プロになって、院生だった頃のように勝ちが当然でなくなって、ようやく気付きました」
 一局一局に生きるか死ぬかで臨みながら、その上で恐怖を押さえ込む。負けに慣れるのではなく、より重いものを勝負に賭け続ける。
「頭で理解できたからといって、乗り越えられるものでもありませんけど」
 しかし二人は既に降りることの出来ない戦場に立っている。乗り越えられなければそこにもやはり死しかないのだ。
 行くも死、退くも死。ならば観念して死を受け入れる以外に道は無し。
「気違ひになりて死狂ひするまでなり、か」
 かつて鑑連に読まされた本の一節を思い出し、ふと呟くと、
「生きる為にこそ死に狂う、正しい狂気……過激に見えてその実は真っ当ですよね」
当然のように、或いはその表情には喜色も覗けるだろうか、山中少年が言う。
「やっぱり読まされた?」
「先生が定めた立花門下必読書ですから。やっぱり、浅井七段も立派な同門なんですね」
 知らぬ間に薫陶を受けていた事実に苦笑しながら、
「浅井で良いよ。響じゃ呼びづらいだろうけど、段位で呼ばれるのはどうも慣れないから」
「じゃあ、浅井くんで。僕も山中で良いですよ、年下ですし」
「山中くん、かな……知らない人に聞かれて碁将棋に上下があると誤解されても厄介だ」
今朝の出会いも既に笑い話となっていた。

 使い走りを終えて検討部屋に戻ると、室内は先程までの和やかさとは一転、張り詰めた空気に皮膚が震えた。
「動きましたか?」
 買ってきた飲み物を兄弟子達に手渡しながら兄弟子の輪に入っていく、山中少年の後に続く。
 覗き込んだ盤面は、買い出しに出る前と様変わりしており、右辺中段の攻防などそっちのけで、上部から中央へと石が伸び合う空中戦の様相を呈している。
「あの後の先生の手が13の十一で、以下――」
 兄弟子の説明は、流石に響に配慮する余裕も無いのだろう、専門家の検討そのもので、ただただ打ち手をなぞるのみである。
 ついて行けなくなった響を察した山中少年が、
「つまり、捨石です。受けなければ右辺を荒らされますので、相手は受けざるを得ませんでしたが、先生の本筋は右辺を荒らす事でなく今の流れ。攻防によって右辺に奇妙な安定が生まれた、この一瞬の隙をついて中央と上部を繋げ全体を支配すること」
かみ砕いた解説をくれた。
「巧く行ったなら、有利なんでしょうか?」
 山中少年は首を振り、
「如何せん構想が大きすぎます……腕一本差し出して首を獲りにいくことと同じですから。大勝か中押し負けか。蜘蛛の糸を手繰るような手筋、一手でも最善手を外せば終わりです」
悪手を打たない、ではなく、最善手を外してはならない。この二つには天と地ほどの差があるのだが、その喩えが的確であることは、兄弟子達の無言の肯定が示していた。

 響に対する初心者向けの説明を終えてから、再度専門的な検討を始めた輪から離れると、部屋の隅では、呆けたような顔をした慈乃が体育座りをしており、検討の内容にはまるで興味がなさそうにしている。
「聞いてなくて良いのか? 俺よりも詳しいんだから、少しは解るだろ」
 買ってきた慈乃用のりんごジュースを手渡しながら、その隣に腰を下ろす。
「お父さんなら大丈夫だと思う。凄く強いから、間違えないよ」
「お前ってさ……割とガチな部分でファザコンだよな」
「やだよ、違うよ、あんなの。気持ち悪いこと言わないでよ」
 もう少し解り易く愛情を示してやっても良いだろうに、実の親子となると難しい部分もあるのだろうか。そう考えていると、
「お父さんの碁は好きだけど」
流石に言い過ぎたとでも反省したのか、多少しおらしくなって付け加えた。しかしこちらの方が本音だろう、肩の力が抜けた自然体である。
「素直じゃん」
「だって……本当なんだもん」
 今更恥ずかしくなったのか、頬が薄く染まっている。しかし放っておけばもうしばらくは喋るだろう。兄と妹とも言って良いような間柄、慈乃にファザコンの気があることなどとうの昔から把握している。
「お父さんくらいの人なら、立場にとらわれて無難な手に走ってもおかしくないのに、小さく縮こまらないで自分の構想を打ち続けてる。それが最善であると信じれば、躊躇わない。困難な道こそが一局の勝ちに繋がるって、信じているから」
 勝負に拘るからこそ辛い指し回しをするという思想とは異なるが、勝負に拘るからこそ困難な攻めを押し通すという思想もまた正統であろう。
 鑑連は意地で勝つと言った。ならば今日の勝負手もまた伊達や見栄で打ったのではなく、心底から勝ちに向かっていればこその手なのだ。
「おじさんでも、負けは、怖いんだよな」
「誰よりも碁が好きだから、誰よりも勝負に臆病なんだって、昔お母さんが言ってた……負けた夜は、碁盤の前から動かないこと、今でもあるよ」
 あの、碁に関しては誰よりも自信に溢れているように見える男が、その実勝負に対しては誰よりも臆病なのだという。しかし立花の母から出た言葉なら疑う術もないだろう。
 立花鑑連という男は、常に誰よりも大きな恐怖を抱えながら、それを乗り越えて勝負に臨んでいるのだ。
 恐怖を知った上で、自らへの言い訳や逃避を許さず、正面から闘い、乗り越える。その葛藤を想像し、彼の精神の偉大さに、響は自らの小ささを思い知った。
「きっと、そういう人だから勝ち続けられるんじゃないかな……プロになって、何千局も打ち続けているのに、未だに全身全霊を込めて、一局一局に生きるか死ぬかで臨み続けているんだから。生半可な覚悟で超えられる人じゃないよ」
 慈乃はそう言うと、だから、と続けた。
「だから、もしも碁の神様がどこかに存在するのなら、世界で一番打ちたい相手は、絶対にお父さんだと思う」
 最早照れる事すら忘れている。それだけ本気で語っているのだろう。
「最大級の褒め言葉だ、本人に直接言ってやれ」
「やだよ、調子乗るもん……ちなみにね、将棋の場合は、きっと響ちゃんだよ」
「どういう基準か知らんけど……今はまだ、神様相手じゃ二枚落ちでも指せる気しないな」
 弱音とも取れる言葉だが、返した響の表情は晴れ晴れとしている。
 鑑連ほどの人間ですら未だに闘いながら臨んでいるのだ。どうして自分のような若造が何の恐怖も抱かずに臨めよう。
「二つ二つの場にて、早く死ぬかたに片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわつて進むなり……なるほど、なるほど」
 生きるか死ぬかの勝負に臨むなら、ハナから自らの命など無いものと思わねばならない。
 即ち、恐怖に負け縮こまった手で恥を晒すようでは、それは二つの死となるだけであるから、予め一つの死を自らに与えておくことで身を活かすという考え。盤前に座する前に一度一度と改めて死んでおけば、玉のやりとりをしている勝負の最中に邪念が湧いてくることもないということ。
 棋士たるものが一度盤に向くならば、ただ気違いとなって死狂いするだけだ――鑑連はそのことを伝えたかったのだろう。
「何、急に……どうしちゃったの?」
「どうやら俺も立派に立花門下だったらしい、ってことだ」
 これからは先生と呼ぶべきだろうかなどと浮かぶと、碁盤を前に寝転んで、だらしなく腹を掻きながらジャンプを読みふける、どうしようもない中年親父の姿が浮かび苦笑した。