『十分ほどの考慮の後、浅井はなんと5七桂と指した。無論全く検討されていなかった手である。
 二十分後に迫った生放送のリハーサルを行っていた解説会場がざわめく。
 対局者に気を遣ってだろう、解説陣すらも無言になり、考えにくい一手だと受け止めていることはその表情からありありと伝わる。
「これ、浅井七段のポカですよね?」
 客席から、ノートパソコンを膝の上にのせた中年男性だった。
「ソフトの評価値、一気に逆転しましたよ。候補手にも上がってない、明らかにポカだ」
 わざわざ解説会にソフトを持ち込む神経は理解できないが、誰も言い返す事が出来ない。それほどまでに常識外の手だった。
「まあ……確かに筋は悪いっちゅうか、ちょお浮かびにくい手なのは確かやけど」
 あの小寺二冠ですらも反応に困っている。
「考えられるのは、飛角交換を牽制しているらしいことですかね。6九に桂が効いてますから、こうなると先手はおいそれと飛車を切れないんです」
 千代五段がフォローするが、成れる歩の頭を押さえる形、しかも角道を遮って得る見返りとしてはあまりに疑問だ。
「ソフトでは後手有利だったのに、一気に互角か先手やや良しまで戻ったんですよ?」
 勝ち誇ったような顔でソフト、ソフトと、一々カチンと来る物言いをする。これが良い年をした大人のすることなのだろうか、ゆとりよりもよっぽど狂っている。更に、
「タイトル戦に出てくるトップがこんな手指すようじゃ、プロなんてもうソフトに敵わないんじゃないですか?」
最早どうあっても引き返せない暴言まで吐いた。ファンサービスで控え室から顔を出してくれているプロ達の表情が一瞬で強張ったのが解る。立場がある以上、客に対して手酷い真似を出来ないのも仕方ないだろうが、
「ソフトソフトって、ソフトなのは手前のナニの硬度だけだってんだインポジジイ」
「良い年こいた男が、ソフトがねえと将棋も指せねえのか」
と考えていたのは私だけらしい、優等生が増えた現代棋界では珍しい、島津・加藤のキレ易い二人組がキッチリとぶちギレていた。
「俺たちみたいな一般人は真っ当に労働して社会に貢献してるんだ、アンタ達は将棋しか指せないんだから、ソフトより弱けりゃ批判されて当然だろ」
 言われてカチンと来たのか、なおも言い返すソフト厨。将棋の形勢に口を出す前にお前の人生をさっさと投了した方が良い、と助言してくれる伴侶か友人はいないのだろうか。四十は超えているのだろうに、ひどく哀れである。
 と、慈乃四段が口を開いた。
「そのパソコン、使えないから棄てた方が良いですよ。これが一番正しいもん」
 これまで無言を貫いていた彼女の、女子高生らしいといえばそうかも知れないが、裏を返せばプロらしさのまるでない、軽い物言いである。
「何言ってんだ。百歩譲ってこの手が好手だったとしても、まともな検討もしてないのにそんな断言出来るはずがないだろう」
 しぶとく粘るソフト厨、他の棋士達よりも与し易しと踏んだのか、慈乃四段に集中砲火を浴びせる。一方生放送の開始時刻までは既に十分を切っており、このままではマズイと会場中が事態の深刻さを意識し始めた。
 その時島津七段が声を張り上げ、
「そこのソフト厨。もしこの手が浅井の敗着になったらコイツの財布から十万くれてやるってよ。だから結果が出るまで暫く黙ってろ……お前も、断言した以上それで良いな?」
とんでもない事を言い出した。
「別に、それで良いよ」
 当事者の慈乃四段もまた、あっさりと受け入れている辺り、やはりただの女子高生では無いようだ。
「決まりだ。そんじゃ、ちゃっちゃと準備始めましょ」
 唖然とした表情の千代五段のことなど視界に入っていない風に、島津七段は淡々と場を仕切っていった。(続く)』


 ――先7九玉――