『「6四玉……えっ、6四玉ですか?」
 指し手を聞いた千代五段が珍しく狼狽している。無理もない、指し間違いでないのかと誰しもが疑った。
 この局面、浅井は引いて6三の歩を払わずに6四玉と躱したのである。
「こりゃもう、狂気の沙汰やな。命知らずとしか言いようがないわ」
 小寺二冠は呆れたように言う。
「そういや、扇子なんて書いてあったん? やっと開いたやろ」
 第一戦から、恐らくは忘れていたのだろうが、浅井は一度も扇子を開かなかった。浅井の扇子に何が書かれているのか、というのが一つの関心事だったのである。
「常住死身……また、えらいけったいな字面やな。どういう意味なんやろ」
 常住死身。三島由紀夫が愛したことでも知られる葉隠の一節、同書の基本精神を表している言葉である。葉隠、大和魂というと、近頃では前大戦の敗北からか、戦争や特攻に結びつけて、偏狭なナショナリズムを代表する言葉として扱われてしまいがちだが、本来はそのような卑小な内容ではない。
 肥前の山本常朝が葉隠の内容を口述したのは十八世紀初頭、将棋で言うと四世五代宗桂や五世二代宗印の頃。時は正に江戸太平のど真ん中であり、当時の武士達は勇ましく合戦に出ることもなく、死の恐怖から完全に解放されてのびのび暮らしていた。ところがそれが良くなかった。簡単に言うと平和ボケして生活がたるんでしまったのである。生の実感が薄れてしまったのである。どことなく現代の世相と被るではないか。現代を生きる人間ならば共感するだろうが、過ぎた飽食こそは人間の精神を殺す。常朝は、人間が人間でなくなってしまうこの文明病・精神の危機に、敢えて死という劇薬を持ち出すことで人間の生を取り戻そうとしたのである。
「私がくれてやったんですよ」
 開いたか、やっと開いたか、と、本因坊は嬉しそうである。浅井の着物は立花鑑連氏が初めて本因坊を獲得した二十八年前に着ていた物であるということは、既に御存知の方も多いだろうが、扇子もその時に使っていた物だと言う。
 ――何故、常住死身なのですか?
「私は、臆病なんですよ。碁しか打てない人間ですから、碁に負けるのが本当に怖くて、ひどい時は盤に向かうのが怖いなんてこともありましてね」
 ――葉隠は、臆病な人間の為にこそあるとも言いますよね。
「死なば諸共、ではダメなんです、既に死んでいなければ。そうして初めて他の一切から離れて碁だけと向き合う事ができる……ただ、今の響には、もう必要ありませんね」
 ――様になっていると思いますが。
「言葉なんてものは飾りですよ、無くて良いなら無い方が良いんです」
 王手飛車の局面にあっておかしな話だが、本因坊の話を聞いていると浅井の勝利を疑えなくなってしまう自分がいる。
 浅井の雰囲気に引き摺られるかのように、異様な空気が漂い始めた解説会場に更にもう一報、浅井の出血に関して。鼻血自体は前例のあることなのだが、今回の場合は量が尋常でなく、放っておくと到底止まりそうに無いという情報である。記録係が声を掛けようにも両対局者極限まで集中しており耳に入らない為、立会人が権限を行使してまずは双方の持ち時間を止めた上で止血するという結論が出た。
「浅井血塗れの局ってか……ホンマに死人出たら困るし、ちょっくら行って来ますわ」
 普段ならば小寺流の冗談として聞き流す所だが、至って真剣な声色だけに会場から笑いが起きることも無い。(続く)』

 6四玉とした響の一手に、竹中は最後の持ち時間を使っている。恐らく読み上げまでは使うだろう。即詰みがなければ指せないはずの手。本当にここで飛車を取れるのか、竹中からすれば限界まで読まなければならない局面。
 突然、
「失礼する」
対局室に入ってきた小寺が、
「双方持ち時間を一度止めた上で、まずは浅井七段の血を止めることを優先したい」
言うが、両対局者共に最早外の声など耳に入っておらず盤上から目を外さない。
 焦れた小寺は溜息を一つ吐き、
「立会人権限や、止めるで」
と、盤に近付こうとしたその時。
「黙りなさい」
 静かに、しかしこの上なく明瞭な声で、竹中は言った。
「立会人困らせんな、血止めてからでええやろうが。鼻血で死ぬなんぞ笑い話にもならん」
「勝負に不純物が混じる。対局者として立会人の申し出を断る」
「アホ抜かせ。ただの鼻血やったらほっとくが、医者に診せろっちゅう上の判断や」
 竹中は言葉だけを向けながら、視線は盤上を向いている。小寺の言葉は全て右から左へ流れているだろう、止める気など毛頭無いのだ。
「こちらからもお断りします」
 盤から、向かいの竹中から、視線を外さない響が言う。
「四本足と盤の裏、貴方も棋士なら御存知でしょう。邪魔をしないで頂きたい」
 蛇口を開け放したような勢いで流れ出る血は既に顔半分を深紅に染めており、羽織袴は燃えるようになりながら、なおもその眼光は揺るがない。
「イチビんのも大概にせえよオドレら。立会人の決定や、従わんかい」
 どうあっても引き下がりそうにない小寺に、響は無言で胸元を開き、さらしを解く。
「弁えてないのはアンタだろ」
 現れた十文字、抜き身の刃を手に取ると、
「神が来ようと仏が来ようと、これは俺達二人だけの将棋だ」
振り下ろし、畳に深く突き刺した。

『両対局者が中断を拒否したという情報が入る。立会人の小寺二冠は終局近しということで解説会場には戻らず、このまま最後まで対局室に居る事になった。
 解説会場のモニターには、上半身を露出した浅井が、腹に仕込んでいた小刀を畳に突き立てた事がはっきりと伝わる映像が映っている。
「いやしかし、気合で勝てって話はしたけど、ここまでやるか」
 空気の重い解説会場で、小寺二冠に代わってマイクを握った島津七段が愉快そうに言う。場の空気を変えようとしているのではなく、単純に愉快なのだろう。
「お客さんたち、得したね。今ここにいるアンタ達は将棋史の生き証人だ」
 島津七段に呼応するように、
「いやあ、本当に良い勝負だ。私も将棋がもう少し強ければ良かったんだが」
客席の本因坊も、やはりどこか嬉しそうである。この会場において明るい顔をしているのはこの二人と、同じくプロ棋士の職にある中でも特に数名だけであろう。本因坊研の男達はどこか正気ではないのかも知れない。
「竹中名人は時間を使ってますが、読み抜けがないかの確認ですね。7六の飛車を取った時に即詰みが無いかっていうこと。即詰みさえ無ければ、後手玉は自分から詰めろをかけられに行きましたから、ぶっちゃけ実戦詰め将棋です」
 簡単にまとめるが、検討陣はまだ即詰みを見つけられていない。最も考えられるのは5七に打った桂の効いている6九に飛車を打つ、6九飛、8八玉、7九銀というところからのものだが、これは不詰みという結論でまとまっている。
 しかしこの異様な雰囲気、自ら死地に飛び込んだ浅井の様子を見ても、とても竹中勝勢とは言えない。
「ま、こんなん詰みが見えてるとしたら対局者だけでしょう」
 島津七段はあっけらかんと言ってのけた。(続く)』


「七、八、九……竹中先生持ち時間を使い切りました。これより一分将棋でお願いします」
 持ち時間を使い切り秒読みが始まる。記録係の声が震えているのは幻聴ではない。
 竹中は顔色一つ変えず、ただじっと盤を睨んでいる。
「三十秒」
 半分が過ぎ、
「四十秒」
三分の二が過ぎてもなお動かないのは、最後の十秒まで考えると決めているからであろう。不詰みであれば指し間違える事も無いという自負あればこその行為。最早この勝負両者共に文字通り必死のものとなり、つまらない動揺が沸く余地など無い。
「五十秒、一、二、三――」
 最後の十秒も半ばにさしかかった頃、竹中の手がふわりと浮かび盤上7六の飛車をつまんだ。ゆっくりとした動作で駒台に乗せ、動かした角の駒音も乱れない。
 ――先7六角――
 不詰みだ。盤上の先手角が静かに言う。