一二

       十二

     十二の一

 はいどうぞ、と渡された茶碗を受け取った響が重い表情で箸を取る、折は師走の月半ば、立花家の食卓は朝七時。
「昨日は勝ったのだろう。そんな顔をして、どうかしたのか?」
 新聞片手に尋ねる鑑連に、
「しかも相手は因縁の肝付校長と来たもんだ、ボッコボコにぶちのめして清々しただろ」
横から口を出す銀乃介は、昨夜は来ていなかったが、対局の日は早起きしてしっかり飯を食うのが基本と常々語っている彼のこと、勝負に備えてコンビニ弁当以外の朝食を食べに来たのだろう。
「対局終わってから会長に会ってさ……まあ、めんどくせえなって」
 昨日の対局はB級二組順位戦七回戦。放送協会杯での一件よりも遙か以前から腹に溜め込んでいた肝付七段が相手の一局は、相手が序盤で犯したミスをネチネチと咎めてやり、二度とつまらないことを言えなくなるまでぶちのめしてやるという殺意も相まって、手数にして六二手という早い終局は午後六時の夕食休憩を迎えることも無い完勝――であったにも関わらず暗い顔をしているのはどういう事かと問われたならば、原因は局後ばったり出くわした連盟会長の存在に他ならない。
「そりゃ問題発言だ」
 口で言いながらも銀乃介にさほど驚いた様子が見えないのは、響の言わんとするところを察した故であろう。
「嫌いじゃないんだけどさ……実際あの人みたいにソロバン弾ける人なんて他にいないんだろうし、将棋への姿勢に関しては文句なく尊敬できるし、強かったし」
 二年に一度、連盟の会員である棋士達の投票によって改選される会長職は、既に五期目を数える松永久秀永世二冠御年六十五歳。十年前A級を陥落した際に、『一期でも名人を張った人間が棋界の頂点から外れる事は名人の権威に傷がつく』と、かねてから公言していた通り引退した棋士である。現役通算成績は圧巻の一〇〇〇勝超え、A級在位二十六期中名人は一期、獲得タイトル二十二期の永世二冠。中でも最盛期の三十三年前には長らく二階堂と六角の間を行き来していた名人位を奪取しての三冠制覇を成し遂げており、両雄が圧倒的であった棋界において、頂点に割って入ることのできた数少ない存在であった。
「ただなんていうか……雰囲気が苦手っていうか、そういう感じ」
 松永と話をしていると、何気ない日常会話ですら、痛くも無い腹を探られているような不気味さがついて回る。銀乃介や小寺のように真性のバカというタイプではなく、竹中のような生粋の紳士という訳でも無い、将棋指しというよりも政治家と言った方がしっくりくるタイプ。盤駒で向き合うのならともかく日常生活まで要らぬ読み合いはしたくないと、響は松永が苦手だった。
「合う合わないはどうしようもないだろ。酒の付き合い程度ならただの面白いジジイでも、政治絡みじゃ俺も関わりたくねーし」
 という銀乃介の言葉を聞いて、鑑連は、
「それも若さの証明だ、今のうちに味わっておけ」
新聞に目をやりながら、自身の若かりし頃を懐かしんでいるらしい口調。
「年取ると慣れるもん?」
「いや、年を取ると政治をやっている人間が現役時代を知っている層に変わるからな」
 片手の新聞を放さないまま、空いている手で味噌汁の碗に手を伸ばそうとするも、隣に座る立花の母にぴしゃりと叩き落とされていた。
「どういう意味さ」
 しぶしぶ新聞をたたむ姿へ更に問うと、
「盤上で勝てると解っていれば萎縮する必要も無いだろう」
溜める事も無く、頂きますと両手を合わせながら、いかにも自明といった風に答える。
 一寸の間を置いて、今度は響にもその真意が理解でき、この親にしてこの娘かと、不遜の代名詞のような存在、慈乃の方を見てみれば、味噌汁の碗を持ったままうつらうつらと舟をこぐ間抜けがいた。
 そのうちひっくり返すのではないかと眺めていると、
「――で、何の話だったんだよ」
銀乃介に呼び戻され、
「別に……新人王の表彰式のことと、話題が出来て有難いみたいな話と、あとは記念対局の話。相手が二階堂先生に変わったってのと、日程は王竜が決まるまで待ってくれるとさ」
嘘は吐かず、しかし陰鬱な気分の原因、即ち祖父の件に関するやりとりに関しては隠して答える。
「あのおまんこじいさんまだ将棋指せるのか。ボケて駒の動かし方まで忘れてそうだが」
「老いても枯れても二十一世ってことだろ」
「にしても、とことん師匠と縁がないな。こんだけ勝ってりゃ一回位どっかで当たりそうなもんだが」
「今はまだ良いよ、どっちみち名人戦以外じゃあの人の勘定に入らないだろうし」
 と、無自覚に言う響もまた、立花の不遜に染まっているのかも知れない。
「順位戦B級二組が何ほざいてんだか」
「朝っぱらから絡むにしても、タイトル戦くらい経験してからにしてくれって」
 普段と変わらぬじゃれ合いも、今朝は一味違っている。
「ちと調子に乗りすぎだな……ま、今日はワカラセてやるよ」
 言って食後の茶をすすり、煙草を吸いに席を立った銀乃介の背中へ向けられる、響の瞳は既に覚悟を定めたものに変わっていた。

 放送協会杯三回戦は本日夕方からの収録。対局相手の両者が同じ釜の飯を食らう、奇妙な食卓で、
「ウギャッ!」
と、案の定味噌汁をぶちまけた、慈乃の叫び声が耳を突き抜けたのは直後の事である。