十二の三

 ただいマルゼンスキー、と夕餉の仕度をしていた立花の母に声を掛けると、
「響ちゃんは?」
別方向から、呪い殺してきそうな視線を向ける慈乃が現れ、やれやれ、と銀乃介は溜息を吐いた。面倒臭くなることは目に見えている。
「んだよ、物騒なツラしやがって。おかえリンドシェーバーぐらいで返せっつーの」
 朝日杯レコードのマル外コンビで華麗に決まると思ったのだが、
「響ちゃんは?」
競馬のケの字も知らない慈乃は当然取り合ってくれず、飲み屋で語らう競馬仲間が恋しくなる。
「知るかよ、アパートで泣いてんじゃねーか。んなことより酒だ酒、響の涙で酒がウマイってな……ってことで今日は俺が勝ったから。おっちゃんは?」
「碁の勉強してるんじゃないかしら、呼べば来るわよ。今日はお疲れ様でした」
「おばちゃん喜ばす為なら苦になりませんよってね、へっへ」
「あら上手言って、今晩の肴は頑張っちゃうか」
「全くいい女だね、おっちゃんが羨ましいぜ。んじゃ、先に始めてっから」
 冷蔵庫からビールをひょいひょいと取り出すと、なおも突き刺すように睨んでくる慈乃のことは忘れたふりをして立ち去った。


 書院造の離れは月の光を楽しみたいと蛍光灯の明かりは点けず、淡い電気灯籠を頼りに猪口を舐めつつ碁盤を囲む。
 床の間を背にしているのは現役本因坊、下座の将棋指しがパチリと黒を打つと、
「ここ、手抜けないぞ」
と盤上離れた一点を指した扇子が蝶の優雅さで宙をくるりと舞ったかと思えば、軽やかに銀乃介の頭を叩いた。
「おっと、こりゃ失礼」
 待ったを言うことも無く、打ったばかりの石を動かす。呑みながらの手遊びだけあって堅い空気ではない。
「考え事か?」
 足を崩し、脇息にもたれた姿勢の鑑連は、問いながら白を打つと、明かり障子を透かす月明かりを眺めているかのようだった。
「ん、まあ……潮時かな、って感じのことをさ」
 呟くように銀乃介が言う。鑑連は手元の扇子を遊びながら、その表情にはさしたる変化も見えない。
「地力で言えば今期も昇級ほぼ確定、それ以前にタイトル獲るか知れねえ。俺が昇級してすれ違ったとしても、ここまで来ればシード貰う棋戦が大半だ、となりゃ数も増える」
 小考の後にパチリ、碁盤に黒が置かれた。
「仮に関係が変わるとしても、お前達ならそうつまらんことにはなるまい」
 言葉と共に返す白は一息程度の短い間での着手。
「まあ、俺らはな。最初から、お互いが殴り合いの相手のつもりで付き合ってるし、北斗三兄弟みてーな関係よ」
 さりげなく三男の存在を忘れながらパチリ。
「そういう認識が出来ているなら尚更だな……どのみち飯を食いに来れば会うんだ、無理に意識する方が却っておかしなことになる。外食ばかりでは良い将棋も指せんぞ」
 パチリ。
「ま、そりゃそうなんだけどよ。響がどうこうってよりも、慈乃がさ」
 うーん、と一つうめいてから、パチリと置いても言葉は続き、
「アイツ、プロにならない方が良かったんじゃねえかな」
それまで止まることなく返していた鑑連の手が、ふと止まった。
「根本的な所で将棋に飽きてるっつーか……『やり込みすぎて後はラスボス虐めるくらいしかやることがなくなった冒険の書』っつーか……まあ、それに近い感覚なんじゃねえかって。気付いたのは最近だけどさ」
 暫く、雑に握った碁石を胡桃のように掌で擦ってから、
「本来なら、その楽しさは、私が教えてやらなければならなかったんだろうな」
と、打ちながらの静かな言葉は、
「おっちゃん責めるつもりで言ったんじゃねーさ……ま、響はあの性格だからよ、慈乃があのままじゃそのうち取り返しの着かないことが起きんじゃないかと、ちっと思っただけのこと……っと、ここでこういうのはどうだい」
しかしその真意を悟られる事はなかった。気付いてくれた方が楽だったろうか、それとも気付かれずに安堵したのだろうか。それすらも定かではなかった。
「お前も、強くなったんだな」
「お、やっぱりいい手だったか。こりゃ本格的に二界制覇も狙ってみるかな」
 調子の良い笑顔を見せる銀乃介に後ろめたさを感じたのか、鑑連はその表情を隠すように勢いよく猪口を傾けた。


 直に日付も変わろうかという時刻になれば碁を打ちながらの晩酌もお開きとなり、半ば私室と化している部屋へ戻ろうとしていた銀乃介に、背後から恨みの籠もった視線が突き刺さった。
「いい加減諦めろって、俺睨んでも出た結果は変わらねえぞ」
 これ以上無視したら枕元まで着いて来られそうだと、観念して振り返れば、当事者でもないのにふて腐れた表情を隠さない慈乃が居る。
「フグみてえなツラしてんじゃねえよ、元からひでえのが余計に見れたもんじゃねえ」
 軽くからかったつもりが、
「銀ちゃんに言われたくない!」
思わず耳を押さえてしまいそうな程のキンキン声で怒鳴り返される。
「時間考えろバカ、近所迷惑だろブス、ブスブスブス」
「ブスブスうっさい、ハゲ、変態セクハラオヤジの癖に、ハゲハゲハゲ」
 一応声のトーンは収まったが、言葉の中身はひどいものだ。
「ハゲてねーから、お前の目腐ってんじゃねーの? ハゲってのは吉川さんみたいな人のことを言うんだよブス」
「吉川先生はハゲてないよ。ちょっと散らしてるだけだよ、ハゲてないよ」
 吉川八段もよもやこんな馬鹿げた話で槍玉に挙げられるとは思うまい、B級一組の苦労人は薄毛が気になる三十代である。
「お前の気遣いは却って人を傷つけるからな、吉川さんの前でそういうこと言うなよ……んじゃ俺は寝っから、おやすみ」
 話を適当にすり替えてやり過ごそうとしたのだが、
「響ちゃん泣かせたのに、何で笑ってられるの」
馬鹿げた内容を大真面目な声色で言われると、折角の酔いも醒めてしまう。
 特大の溜息を吐いてから、
「仮に情けなんぞかけてみろ、泣くどころか絶縁されるぞ……お前も、付き合い長いんだから、いい加減少しは理解してやれよ」
言っているうちに、どうしてコレが響に惚れたのかと考えていた。一から十まで、まるで正反対の性質だというのに。
「解らないよ。響ちゃんとは友達なんだから、将棋は仕事だから仕方ないけど、わざわざそんな風に喜ばなくても良いじゃん」
 このすっとぼけた義憤も、心底から感じているのだろう。それが慈乃だ。
 銀乃介は、諦観と言った方が良いだろう、最早怒りすら沸いてこない。
「ま、好きに言ってりゃ良いけどな……とにかく、俺はもう寝る。そんなに響が心配なら明日ツラ見に行ってやれよ、鬱陶しがられて叩き出されるのがオチだろうが」
 これ以上相手をするつもりもないと、今度こそ背を向けて部屋の戸に手をかける。
 このまま慈乃が変われないのなら、本当に潮時なのだろう――それは以前から内に秘めていた、ひどく冷めた感覚だった。いざその時が来ても躊躇うことなど無いと思っていた。渡り鳥のように、笑って次の飯場を探せば良いだけのことだと、そう信じていた。
「銀ちゃんなんてハゲれば良いんだ、ハゲ、ハゲろ」
 しかしいざその時が眼前に近付いても、相変わらず間抜けな事を言い続けている、この人間としてあまりに欠落した妹弟子を見ていると、何か一つでも教えてやりたいと、勝負師としては外れた感情が湧いてくる。
 戸に掛けていた手を外し、一つ息を置いてから振り返ると、
「将棋に関しちゃお前ももう四段だ、偉そうに教えてやれることもねえけど、人生の先輩として、一つだけ教えといてやる」
「何急に、大人ぶって」
「愛ってヤツにはな、ガチの殴り合いってのが必要なんだよ。男の世界ってヤツにしか、愛は存在しねえのさ」
「何言ってんの、意味わかんない」
「その時が来たら、アイツを信じて、殺すつもりで指せってことだ……お前が本気ならな」
言い終えると、今度こそ部屋に入って布団を被る。

「どうして俺は甘いかね」
 舌打ち混じりに漏らした言葉など、翌朝の銀乃介はきっと忘れているだろう。