一三

     十三の一

 王竜戦第七局観戦記。読日新聞文化部・幸田成行記
『――弱冠十六歳の神童による初タイトル獲得なるかと、一般メディアまで騒がせていた影響だろう。本日二日目を迎えた王竜戦最終局であるが、現地ではちょっとした〈事件〉があった。
 一言でまとめると、客が多すぎたのだ。

 主催側の私を含め、連盟職員は当然将棋絡みのイベントしか経験していないスタッフであるから、一般的な大規模イベントの見積もりなど経験がなく、増えたとしてもこの程度だろう、という甘い感覚が抜けていなかった。
 それがまずかった。
 当初確保していた旅館の大ホールは、五百人を収容できる巨大な施設であり、一般的な解説会では決して採用しないレベルの規模である。いくら我々が慣れていないと言っても、流石にいつもの数倍程度の客足は予想していたし、備えもしたつもりだった。
 これで十分だ、と考えていたのである。
 ところが、直前になって、我々の楽観ぶりを心配した旅館側のスタッフが教えてくれたことには、諸々の予兆からするにまるで規模が足りていないというのだ。
 現実を知らされてからは正に修羅場である。
 方々土下座して回り、地元行政の協力を得て急遽予備会場を用意。千人以上収容できるという地区最大の文化ホールを第二会場として、更に第三会場として近隣中学校の体育館を確保できたのは良かったが、当然準備が終わらない。結局、多くの行政職の方々を巻き添えにして突貫作業でセッティング、第二・第三会場分の解説は前日深夜に予定の空いている棋士を片っ端から叩き起こして用意したという無茶苦茶ぶり。
 こうして、第一・第二・第三まで合わせて実に二〇〇〇人以上を収容できる態勢をどうにかこうにかでっちあげ当日を迎えた訳だが、にも関わらず、全ての会場で立ち見が発生しているのだからお手上げである。

 今回の解説会、正確な数字はまだ明らかになっていないが、間違いなくケタ一つは動員記録を塗り替えることになるだろう。
 将棋の解説会に、ウン千という単位の人間が押し寄せているのである。主催側の人間が書くには不適切なことか知れないが、こんな日が来るとは想像すらしていなかったというのが、偽らざる私の本音だ。
 或いは、今後は解説会の運営を抜本的に見直す必要すらあるのかも知れない。
 浅井響という一人の天才は、盤上のみならず、盤外までをも支配しようとしている。


 竹中の振り歩先で行われた振り駒は表が五枚。戦型は後手番の浅井が一手損角換わりからの腰掛け銀を採用し激しい戦いとなっている。控室の検討では初日から一貫して先手の竹中が指し易いという見方で変わらず、こうなると、詰め掛けた〈新規ファン〉達からは退屈そうな表情が見て取れる。
 彼等が見たいのは名勝負でなく、話題の天才少年がタイトルを獲得する瞬間なのだろう。複雑な思いが無いと書けば嘘になるが、しかし、人が集まったこと自体は喜ぶべきだ。

「アッサリ馬作られた挙げ句香車一本丸損じゃね、そりゃ先手に楽な展開ですよ」
 本局では副立会として現地入りしている島津が、渋い顔で、仕方ないじゃないか、と誰に向けるでもない愚痴をぼやいた。午前中の解説会で疲れてしまったのだろう。第一会場には熱心な浅井の追っかけ、即ち普段の界隈では見かけない人種が特に多い。
 ――随分とお疲れですね。
「いや……そういうんじゃないっすけど」
 開き直って暴言を吐き出さない辺り、島津もこの状況を有難いとは感じているらしい。
「どうも、慣れない感覚でね」
 村にまで喩えられる独特の世界に外部から人が入ってくるのだから、最初のうちは難しくても当然だろう。
 ――野球もサッカーも、どこかを贔屓するから興行として成立するのでしょう。将棋もああなれるかも知れないと考えれば、良い傾向ではないでしょうか?
「ま、仮にそんな世の中になったら、アイツがこんな風に応援されることも有り得ないだろうけど」
 ――と言うと?
「本人が根っからのヒール気質ですもん。基本陰気だし、サービスするタイプじゃないし」
 当然のように言ってのける姿を見て、島津の渋い表情には弟分の苦戦も影響しているのだろうと、彼等の仲の深さに苦笑してしまう。本当に、不思議な関係である。

 そうして話をしていると、会場内から微笑ましい歓声が届いた。将棋の解説会とは少々方向性が異なる、さながら動物園の珍獣に向けるような、そんな類のモノである。
 ――立花の妹さんか。
「大方、モニターに向かって念力でも送ってるんでしょ」
 ――ウケてるじゃん。
「ちんころこまいのがピーチクパーチク、やかましいだけっすよ」
 ――折角来てくれたご新規さんだ、どんな形でも楽しんで帰って貰わないと。
「知りゃしませんね、俺は一足先に飯行きます……幸田さんもどうすか、ついでに一杯」
 至って平然とした口調で、猪口を傾ける仕草まで付けているが、島津は本局の副立会人。当然手当も付いており、バリバリ勤務中の身だ。
 ――お前、自分の立場忘れてないよな?
 ついでに言うならスポンサー側の人間である私の立場も考えて頂きたい……のだが、
「俺とアンタの仲じゃない、堅いことは言いっこ無しってね」
 ――どうなっても知らんぞ。
将棋記者にとって最も重要な仕事は、棋士とのコミュニケーションである。であれば折角のお誘いを無碍には出来ぬ……と、モノは書きよう、私も記者の端くれだ。
「大体、他人の対局なんて酒でも入ってないと読む気になれねえもん」
 これもプロ棋士という人種の不思議な所で、他人の対局を解説するような際には、中途半端に素面でいるより少しくらい酔っている方が読みも冴えるのだ、と島津は言う。
「自分の時を十とか十二とすると、外から眺める時は精々一か二しか見えない。ところがどっこい、酒が入ると四か五は見えるようになる」
 ――どんな理屈だ、呑みたいだけじゃねえか。
「嘘偽りのない真実ですって」
 ――お前も、少しは地に足付けてくれよ。
 この男の適当ぶりには呆れてしまうが、ともかく、我々は連れ立って昼食へ向かった。』



 ホテルレストランの関係者席では酒も舐められぬと、年の瀬の雪化粧美しい越後の冷気に吐く息を白く染めながら、ぶらりぶらりと行くうちに適当に見つけた、路地裏の小綺麗な料理屋へ二人は足を踏み入れた。
 まずは一言、
「喫煙席で」
 腰を落ち着けるや否やのタイミングでおしぼりを運んで来たアルバイトの店員は、普段は大学生でもしているのだろう、軽い雰囲気の女だったが、つまみになりそうな小品を幾つか選ぶ僅かな間に、今日はホテルで将棋のタイトル戦をやっているのだと、さりげなく言った。それは、たとえば、人気ロックバンドのライブに向けるような、ささやかな熱を感じさせる声だった。
「――後手番一手損角換わりって言ってね、後手番でも主導権を取れる作戦なんですって。後手番の上に手損するんだけど、普通の角換わりと違って飛車先の歩を保留した形だから、右の桂馬を跳ねた時に活用の幅が広いんですって」
 なるほど、彼女は午前中のテレビ中継を見ていたのだろう。自分がざっくりと解説した内容をそのまま語られるとは思わなかったと、銀乃介は苦笑する。
「そんなに良い戦法だと思わないけどね、どうなんだか」
 極めて個人的なことだが、銀乃介は一手損角換わりを好まない。勝てるならそれで良いという考えも敢えて否定はしないが、わざわざ自分から手損するというのはやはり納得し難く、何よりもまた、二手目8四歩と突いても問題無く勝てるという自負に根ざした、彼自身の暴君の如き棋風がある。――一手損角換わりのようなセカセカと動き回る手は指す必要が無い。何故なら自分は王者であるから――果たしてそんなことまで思っているのかどうかは定かでないが、プロ棋界における〈矢倉・正調角換わりの後手番守護神〉という立ち位置こそが、彼という存在、その思想を端的に表していることは確かである。
「へえ、お客さん詳しいんだ……でも、浅井さんは得意らしいですよ。ちょくちょく採用してるって、だからきっと良い戦法なんですよ」
「そういうもんかねえ。お姉さんは後手持ちなの?」
 灰皿を手元に引き寄せ、マッチを擦りながら問う。
「モチとか、そういうのは良く解らないけど、将棋のプロって、何年やってもタイトル戦に出られないような人もいるんですって。っていうか、九割はそういう人なんですって。それなのに、浅井クン、まだ高校生なのに、凄いじゃないですか」
 目の前で煙草を咥える男に何より重い一撃を突き刺した事など、気付いてすらいないのだろう。
「それに将棋盤の前だとあんなに迫力あるのに、インタビューとかだと結構天然っぽいし、こういうのなんて言うんだろう……ギャップ萌え? みたいな?」
 きゃあきゃあ、という表現が似合いそうな具合に、女は語る。
「あ、お姉さん、取り敢えずビール。瓶のコップ二つでお願い」
 まるで見計らったかのように割って入った、幸田の表情をちらりとやりながら、
「すぐ空けるから、燗つけといて、地酒のオススメお任せで……と、ふろふき大根ひとつずつ、あと芋煮」
銀乃介は煙を吐いて注文する。
「おい、ホントに呑みすぎんなよ?」
「少しあったまりたいだけっすよ」
 気を遣われたのだろうかと、そんな思考に至ってしまった、自分自身にささくれだった。