一切の色を持たない無機質な文字の列だけに、盤を眺めるよりも正確に、そして冷徹に、ありのままの情報が伝わる。
 ――五十九手目、6三銀。
 響はこの一手に一時間を超える長考を支払わされた。つまり今ある時間的劣勢の原因となった一手であり、そして同時に、この銀の存在は今後盤上後手の形勢をじわりじわりと追い詰めていくに違いなかった。
 どこまでも忌々しい。
 と、言葉に出すような真似はしない、表情にも出さない。しかし、ただじっと五十九手目・6三銀の文字列を睨みつける。
 6三銀の打ち込みは、一つには5二歩成からの攻めを警戒させこちらの守り駒の連結を薄くする意図があるが、同時に、歩を払った5三金のアタリを避ける、7四銀不成という位置取りが大きい。目下の歩切れを解消しながら、将来的には7三銀成からこちらの飛車を追うことを見ている。
 現状8二に位置する後手の飛車は、敵陣8筋に圧力を加えながら、自陣二段目の強力な受けにも効いており、後手はこの自陣飛車一つで形勢の全てを支えていると言っても良いほどに、最大限に働いている。それは裏返せば、命綱とも言うべきこの飛車の位置取りを追われてしまえば、後手は盤上手のつけようがなくなる、ということ。
 6五桂に対し同銀同歩2四歩と来るか、或いは単に2四歩か。前者であれば7三銀成と飛車を追われる事が無くなるが、やはり本命は単に2四歩と突く手だろう。6三銀の打ち込みは2筋突破を目的とした一連の流れの核とも言うべき(即ち、3四銀を浮き駒にして2四歩に同歩と返せなくする、更に飛車を追って位置を悪くさせる)一手であり、指し手に一貫性を持たせるならば、ここは2四歩と突くべき局面である。
 何より相手はあの竹中、臆して攻め気を失うようなタイプではないのだから、優勢だと意識すればこそ主張を一貫させ、弛めることなく潰しにかかってくるだろう。
 形勢は芳しく無い、正直に言えば苦しい。
 しかし、だからこそ勝機がある――優勢な将棋で勝利する為には、『自然な手』を続けることこそが最も大切であるという全ての棋士の常識を、竹中もまた熟知しているのだから。
 そこまで考えると顔を上げ、気を落ち着かせる為に、深く、ゆっくりと息を吐いた。
「有難うございました」
 棋譜を記録係へ返しながら、今度は視線を向けて言う。と、見覚えのある顔、奨励会の同期だった。真柄直隆という、響よりも二つ年上だったように覚えている。
 しかし顔を知っている程度の関係でしかない、特別に話すこともなく、
「では私も外しますので、午後もよろしくお願いします」
身の回りの僅かな品を集めて席を立った。