十三の三

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 棋士控室。
 昼食休憩が明けて暫くの後、銀乃介と幸田が室内に戻ってきたのとほぼ同時に、竹中は再開後の一手を指した。
「2四歩、まあ順当だな」
 モニター前に陣取っている慈乃の脇から、銀乃介が画面を覗き込んで言うと、
「臭い……呑んでるでしょ」
露骨な表情で、鼻をつまみながらであった。
「相変わらず鼻良いな、警察犬でも目指してみろよ」
 と、今度は周りの棋士が驚いた表情になる。
「ってか、マジで呑んでんのか? 流石にマズイって」
「バレやしませんよ、こんなの解るのコイツくらいですもん。実際臭わないでしょ?」
 周りにいるのは上でも三十代という若手層、話せば解る気心の知れている相手なだけに銀乃介も隠そうとはしていない。
「いや、確かに気付かなかったけど……お前一応副立会なんだからさ」
「そうそう。俺等はともかく、石田先生とかに知れたら」
 しかし本局正立会人・石田佐吉九段の名前を出されると、流石に泣き所か、
「まあ、そこら辺はさ、皆さんよろしく頼みますってことで」
引きつり笑いで頭を下げた。と、突然尻に鋭い痛みが走り、
「後で師匠に叱って貰いますから、今日はこの辺りで勘弁してあげて下さい」
振り向けば、綺麗なだけに恐ろしい笑顔を浮かべた姉弟子である。
「で、局面どう見てるの」
 声のトーンを一段落として問いながら、なおも尻を抓り続ける千代に、
「お触り一回一万な」
脂汗を流しながらジョークを飛ばすと、
「あんまりふざけた事吹いてると、本当に石田先生に言いつけるよ」
目が笑っていない、これ以上はやめておいた方が良いだろう。迫力に押され継ぎ盤の後手を持たされる。
「同歩だったら傑作だけどな……なんて冗談は置いとくにしても、3五歩叩かれるくらいでもマジで死んだようなモンだし……苦し紛れに5五角でも打っとくか」
「それ、4六香で余計苦しくならない?」
 打たせたはずの合駒が玉の脇腹へ直射するのだからやっていられない。
「7七桂成同桂4五歩、で5六歩に3三角と引っ込む……ようじゃ、確かになあ」
「アンタの結論としては後手苦しいと」
「誰だってそう言うだろ、この局面じゃ」
「ま、それが普通だよね」
 二人でああでもないこうでもないと盤の駒を動かしていると、モニターにしがみついている慈乃が、
「5五角!」
叫ぶように告げた。
「破れかぶれ、って感じかなコリャ」
 とある棋士がぽつりと呟くと、
「破れかぶれはひどいけど、まあ、勝負手の類に見えるね」
「本人も良くないと思ってることは確かだろうな」
大抵の棋士は同意を示した。
「でも、打つならここしかありませんでした。4六桂が生じたらこの手も消えてた」
 いつもと変わらず、どうにかこうにか響を持とうとするのは慈乃一人だ。
「まあイモバナがそう言うのは解ってるけど、実際これは後手苦しいよ」
 周りも慣れたもので、柳のように受け流す。
「アネバナはどう見る」
 話を振られた千代は至って冷静に、
「さっきまで丁度検討してましたけど、この角が活きてこなくて。七対三の先手持ちです」
ウラギリモノ、と言いたげな慈乃の強烈な視線が向けられるが、こういう時の妹の扱い方に関しては誰よりも慣れている。空気を扱うかの如く、最早視界にすら入れない。
「島津も同じ結論か」
 巡り巡って、最後に水を向けられたのは銀乃介。
「そっすね、先手優勢だと思います」
 彼が軽い調子に真剣な表情で同意を示すと、控室の空気はまとまりかけたが、しかし、
「ただ――」
その声は続いた。
「――アイツなら、きっとこの角を活かす。手順は知らないが、活きるから打った角だ」
「何故?」
「アイツの何が一番怖いって、こういう、土俵際で出す、刺し違え覚悟の一撃なんすよ」
 まさか酔っているはずもないが、酒のせいか口が軽い。本人がそう感じるほどに、言葉は滑らかに流れ出ていた。
「穴熊小僧みたいに扱われてますけど、正直、大人しく穴熊に籠もって単純な速度計算に終始してくれてるのは、むしろ有難いことですよ……こと『勝負』っていう領域に思考を絞った時のアイツは、得体の知れない何かが憑いてるって、そういうレベルですから」
 普段は底に秘めている、浅井響という将棋指しに対する、銀乃介の本音の評価だった。
「それって、竹中先生がこのシリーズで浅井の本性目覚めさせちゃったってことか?」
「かも知れません」
 銀乃介の言葉からしばらくの沈黙の後に、今まではネコ被ってあの強さだったのか、と誰かがぼやくと、控室にいた多くの棋士は呆れたように笑った。
 それは、動物が腹を見せることにも似た、無条件の賞賛であったろう。
「純粋な棋力で比べれば、まだ俺の方が上ですけどね」
 浅井響を上と認めた彼等と距離を取る為であったろうか、銀乃介は静かに言った。