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 8七銀が伝わると、控室に集った棋士たちの多くは呆気に取られた表情を浮かべた。
「銀……銀打ったん?」
「ブレーキ踏んで被害抑えるよりアクセルベタ踏みで突っ切ろう、みたいな感覚か」
「そりゃ解るけど、いきなりここで入れるのか」
「この状況で後手から一気に加速して終盤入りだもん、先手も驚いたんじゃないの」
 この手が高く評価されている訳ではない、あくまでも苦し紛れとしか見ていない。万に一つの勝ちを拾いに行ったのだろうが、万に一つのある相手ではないと、竹中重治という将棋指しへの信頼が、彼等の姿勢を変えさせなかった。
「うへ、ホントにねじ込んだよ」
「だから言ったじゃん。響ちゃんなら見落とすはずないもん」
 銀乃介はやや驚いたように、慈乃は当然であるように言い合う。
「6九玉に、4五銀と香車を消すか」
 ねじ込んだ銀を同歩と取るのは同歩成、飛車先のと金は作らせまい。先手は躱す一手である。後手もまた、いつまでも香車を素通しにはしておけない。6九玉と4五銀の交換は必然であるように見える。
「2三歩成、同銀に……飛車か馬か、どちらを切るか。最短は飛車切りからだろうが」
 終盤へ突入した局面へ次第に沈んでいく銀乃介の脇で、
「飛車を切れなきゃ話にならない、けど、切るのは香車で後手の勝ち」
慈乃は、誰にも悟られることのない、小さな声で呟いた。

 ――先6九玉、後4五銀、先2三歩成――
「おー、一気に勝ちに行った」
「竹中先生じゃなくてもここはそうするさ、決める時は一気に決めた方が良い」
「よく見りゃ先手も絶対安泰って玉形じゃないしな、厳しく迫れるなら行くべきだ」
 ――後同銀――
「どっち切るかな」
「飛車じゃないか。そっちの方が明確だし」
 言い合いながら、手元の継ぎ盤を常人には理解出来ない速度で動かし続ける。
「馬から切るのは2二歩くらいでも堪えてそうだし、飛車からだな」
 より慎重に読みを確認したのだろう、控室の意見が飛車切りでまとまってから数分後に竹中は飛車を切った。
 ――先同飛成、同金、同馬――
「これが4一金までの詰めろ。3二歩でどうにか……なるのかねえ」
「先手が俺なら後手勝ちかもな」
「良いこと聞いた、お前相手の時は頭金まで粘ってやろ」
「こりゃ下手したら中継始まる前に決着かな。会長がぼやくぞー、放送協会に頭下げるの俺なんだから、って」
「その時は浅井に頑張って貰うことになるのかな」
「奪取失敗直後の人間引っ張り出しはしないだろ、竹中先生への勝者インタビューだよ」
 竹中が指したという信頼が控室の検討を緩ませていた。あとは先手の華麗な寄せを見るばかりだと、いつの間にか誰しもがそう考えていた。
 しかし、
「後手、8九飛だ」
飛び出したのは全く別の手であった。

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