対局室。
 ――後8九飛――
 一見単発の王手に見える飛車打ちを見てから、一〇分ほどの間があったろうか。見落としていた一手を悟った竹中は、やがて文字通り固まった。
 対する響は落ち着いた所作でペットボトルの水をコップに注ぐと三度に分けて飲み干し、扇子を開いて口元を覆った。
 7九金とは打てない。確かに飛車にアテた合駒ではあるが、先手が手持ちの金を使うと後手玉にかかった詰めろが解ける為9九飛成とすれば手詰まり。大駒を叩き切って寄せに出ている以上、ここで後手を詰ませられないならば先手はまず勝てない。であれば桂合か5八玉となるが、どちらに対しても4一香と埋め込むのが絶品。4一金の一手詰めを消しながら4五の銀が抜かれることを防ぎ、更には遠く4七の地点へ必殺の圧力が掛かる。
 8九飛の時点での残り時間は響の三十一分に対し竹中は一時間三十七分。
 しかし時間の差など最早意味を持たない。それほどまでに、4一香が見えている人間にとって、盤上の結論は決まっていた。
 ふと、竹中が乱暴に髪をかき上げた。苦痛に歪みながら、溢れ出て止まない殺意を隠しきれなくなった表情。紳士然とした普段の振る舞いとはほど遠い、素の、将棋指しに元来備わる純粋な粗暴を、野生を剥き出しにした姿であった。或いは、彼は既に自身の敗北を読み切り、一人脳内で敗着を探っている最中か知れない。
 響は、その姿を見ないように、意識を逸らす為にあてた、口元の扇子を離さなかった。
 見てしまえば気が緩む。
 彼に為した事が、自らの身にも起こらないとは言い切れないのだから、殺す時は徹底的に殺す。その意図を、安全勝ちを実現するだけの大差は、既についている。
 ここから詰みまでのやり取り、その全てを読み切るつもりで盤に沈む。