十三の六

 その夜、関係者打ち上げの席をこっそりと抜け出した銀乃介は、幸田と二人昼の料理屋へ戻ってきていた。本格的に呑めなかった心残りを晴らそうというばかりでは無く、気の置けない相手と二人、静かに呑みたい方が大きかった。
 今頃、響も早々に引き上げているはずだ。本来ならば主役が逃げ出すなど許されるはずもないが、局後インタビューやら何やらと報道陣の前で散々働かせた負い目があり、今回ばかりは周りも強く言えないだろう。
 手元の猪口を一息に空け、煙草に火を点けると、国営放送にチャンネルを合わせていた店内テレビでは、九時のニュースが始まった。
 煙を吐き出しながら、ぼんやりと眺めていると、突然、ヘッドラインに見慣れた人物が映り込んだ。フラッシュに囲まれた和服の青年――響の姿。
『天才高校生棋士、初タイトル戴冠』
 本日の特集らしい。
「まさか一棋戦の結果で一般ニュースが特集組むとはね」
「そりゃ放送協会さんは映像持ってるし、今回は民放だって扱うだろ。ウチの系列なんてゴールデンにドキュメントの特番流すって話だし、旭日さんやら東日さんは今回の成功を順位戦PRに繋げる為に社外チーム作るって。ウチからも人出してくれって話がきてる」
「順位戦絡みで読日に声かけんの?」
「まあ、通年のリーグ戦だからな。ペナントレースやJリーグと同じ感覚で将棋を捉えて貰う、棋界全体を盛り上げるには、順位戦を柱に広報活動打ち出すのがベストだろうって話さ。連盟側から出た企画らしいぜ、で、今回の結果見て各棋戦の主催者も頷いたと」
 順位戦・名人戦は、現在旭日・東日両新聞社の共催という形であり、読日新聞は関わりがない。にも関わらずチームに参加するよう打診を受けているということは、一連の響の活躍によって生まれた熱に、新聞社同士の縄張り意識をある程度忘れておくだけの価値を見出しているのだろう。
「ウチとしては王竜戦の格を認めさせたいところだが、やっぱり名人って称号は大きくてさ、まるきり外されても良いこと無いし……ただ、きっかけはウチの棋戦だから、主導権取るなら今しかないって、上は案外乗り気なんだよ、これが」
 へえ、と気のない返事をしながら、テレビ画面へ視線を戻すと、丁度特集が始まった所だった。スタジオには七枚の大盤が用意され、七局全ての投了図が作られている。普段は経済問題などを難しい顔で語っているキャスターが、実は将棋が趣味なんです、といつになく緩んだ表情で大盤を撫でながら、いや今回のシリーズは実に名局揃いで、敗れたとは言え竹中名人も流石という他は無い内容のものばかりでした云々。などと、明らかに仕事を忘れた口調で語り始めるのだから、微笑ましいやら、後で上司に怒られるのではないかと会ったこともない彼を心配するやら、見ている側が大変である。
「今回の浅井は本当に凄いよ。人気取りだろうけど、文科省の役人が公教育に将棋の時間を導入するかって、本気で検討してるらしい」
「まさか国まで動かすか……冗談にしか聞こえねえや」
「正確には、連盟が以前から持ちかけてた話が今回の騒動で笑い話じゃなくなってきた、ってことだ」
 語っている自身もスケールの大きさに呆れてしまう、そんな、苦笑すら感じさせる幸田の表情に、銀乃介はそれがまごう事なき事実であることを知った。
 響は、響の将棋は、自身の将棋よりも遙か高いところで、次元の違う評価を受けている。そう感じると、今まで、兄貴分として接してきた過去が、音を立てて崩れ去っていくようだった。
「この間までランドセル背負って、例会で負けりゃ大泣きして帰って来たのが……いつの間に、だ」
 完全に追い抜かれたのだ。改めてそう感じた。
 愚痴をこぼした訳でも無いが、空気が重くなっていたのだろうか、
「焦るな、って言う方が、今は無理なんだろうけどよ――」
銀乃介の空いた猪口に片手で注ぎながら、幸田が言う。
「――らしくないぜ。剛毅剛直の鬼島津はどこいった、そんな姿、同期が泣くぞ」
 同期という言葉に、一時だが、意識は響から離れる。
「同期、か……最後に残ったマサチカも辞めて、結局俺以外プロ出なかったな」
 鎌田政近は、今年で確か二十二歳になるはずだった。
 まだ二十二歳、三段リーグはまだ五期目、しかし、一人また一人と同期が辞めて行く中で見切りを付けたのだろう。今年度前期リーグ終了時、三ヶ月前に辞めていった、最後の一人だった。
 中学二年生で入会した銀乃介にとって、同期は殆どが年下だったが、その彼等は、既に様々な理由で奨励会を去っている。二十四歳プロ六年目、奨励会入会ははや十年前。周りから仲間が消えるには自然な時期かも知れないが、しかし、やはり早すぎる。
「お前の代は少し早い気もするけど、大抵そんなもんだ。珍しいことでもない」
 或いは、と幸田は思う。銀乃介の世代は悲劇ではなかったろうか。同期である銀乃介の尋常ではない昇段速度、背後から彼等を抜き去った化け物の如き浅井響、そして、女性である立花姉妹に先を越された屈辱。旧来的な常識で育ってきた彼等がプライドを保つには、奨励会という場所はあまりにも厳しい世界へと変貌していたのではないだろうか。過渡期に起こりがちな悲劇。早すぎるようにも見える退会の背景には、様々な要因が潜んでいるように思われた。
「政近、この前の同期会来なかったけど、大丈夫なんかな」
「大学に入り直して家業を継ぐってさ。電気工事の会社で、大卒絡みの資格が必要らしい。今は受験勉強もあるだろうけど、そのうち顔出すさ。大丈夫、俺とは普通に話せてた」
「そうですかい」
 それは良かった、と続くべき言葉が小さくなったのは、どうして辞めたと詰め寄りたい感情を堪えているせいだろう。同期の決断を認めようとする人間的な部分と、まだやれるはずだと引き留めたい将棋指しとしての部分、その対立は幸田にも理解出来る気がした。彼もまた、棋界から去っていく同期を幾人も見送ってきたのだから。
「幸田さんの同期、どうなりました?」
「プロはC1の甘利とC2の岩城。二段まで行った遠藤が理研の将棋部に拾われたけど、他は普通の社会人……そんでもまあ、自営の家多かったから、全員と連絡付くのは有難いな」
「今時、弟子取る時に親の職業確認する人もいるくらいだから。昔とは違うさ」
 近頃では弟子を取る条件として、親が農家か自営業者であること、という条件をつける棋士もいる。師匠として弟子の将来に出来る限りの責任を持つことを考えれば、行き着く所はそこなのだろう。
「そいや、お前の家も自営業っちゃ自営業か」
「家の話はナシ。少なくとも、俺が棋士として認められるまでは」
「しょうもねえ」
 しんみりした空気を変えようと、幸田は茶化したつもであったが、銀乃介は却って表情を硬くした。自ら語ることが無い為殆どの人間が知らぬ事だが、一部上場、業界最大手にして老舗も老舗、大東亜製鉄の直系創業一族は三人兄弟の長男坊である。本来ならば将棋指しなどになるはずもなく、日本経済の中枢としての役割を期待される出自であったろう。どこをどう間違えてこの世界に転がり込んだのかは知らないが、こういった素の反応からしても、結局、根の所はお坊ちゃまなのである。
「それでも、年始くらいは顔見せるんだろう」
「まあ、な……オヤジに小言貰ってくるさ。響に先越されてちゃ、説教されても当然だ」
 そうして話題は振り出しに戻った。弟分に、響に、追い越された。
 酒の席である。面倒臭いと言いたげな、投げやりな態度を隠さず、幸田は突っぱねる。
「力さえありゃあとはタイミングだろ。今期持ち玉いくつ残ってんだ?」
 乱暴な物言いに眉を寄せながら、しかし湿っぽくなり過ぎていた自身に気付くにも良い薬であったのか、銀乃介は普段の軽い調子を取りもどすように、指折り数えるような仕草を見せながら、
「年明けてからは放送協会杯の準々決勝、棋天と旭日杯は本戦、左近リーグは白組」
つらつらと読み上げていく。
 戦績を聞いて、幸田は呆れた息を吐いた。要は全ての棋戦で順調に勝ち残っている、という訳だ。
「ついでに順位戦も残り全勝なら文句なし昇級……なんだ、俺も結構勝ってるな」
 比較対象が浅井響では銀乃介の態度も仕方ないのかも知れないが、レーティングで十指に入る成績の男がこれでは、他の棋士の立場が無いだろう。
「だったらよ、ウダウダ言ってねえで、全部勝て。放送協会杯と旭日杯優勝して、棋天と左近で挑戦者になって、順位戦でA級昇って、ついでだ、王竜も二組優勝して表から上に行け、この際挑戦者になって浅井からぶんどっちまえ。来年の今頃は三冠だ」
 言い切ると、手元の酒を一息で流し込み、猪口をずいと突き出す。
 浅井響という化け物を相手に、棋会が互角以上に渡り合う為に、その独走を許さない為には、誰が立ち塞がらなければならないのか。大将格を誰が務めるのか。幸田は銀乃介に自覚して欲しかった。
「なんだよ幸田さん、今日は珍しくヤルじゃない」
 片手で注ぐ銀乃介に、
「いつもなら手前が言ってる事だろう。チンカスみてえなこと気にしてんじゃねえや」
いかにもお前の口真似をしているんだ、という口調。
 ふと、煽りすぎた口調を落ち着かせるように、話を区切る間を置く。
 一呼吸の後、静かに酒を舐めながら、続けた。
「追い越されたのが事実だとしても、ここまで面倒見てきてやったんだろう。だったら、こんな所で浅井を一人にしてやるな。最後の最後まで、付き合ってやれ」
 俺がお前を見る目線で、お前が浅井を見てしまうのは堪えられない。本人ですら気付かぬうちに、幸田はそんなことを考えていた。
 お前と浅井は、まだ同じ土俵の上に立っているはずだ。お前は、こちら側に来てはいけない。こちら側の人間の気持ちなど、解ってはいけない。

 銀乃介が視線をテレビ画面に戻すと、いつの間にかニュース番組は終わりを迎えており、エンドロールが流れていた。例のキャスターが他の出演者達と笑顔でお別れの挨拶をしている。
『――今日は将棋の話題ということで私も興奮してしまいまして、少々お見苦しいところがあったかも知れませんがご容赦下さい』
『視聴者の方は、いつも冷静な吉田さんがあんな風になって驚かれたでしょうけど、彼は本当に将棋好きなんですよ。いつもマイ扇子を持っていて、それも将棋のなんですよね?』
『ええ。実は今日もね、いや、浅井新王竜の話題で特集組むだろうって予感があったので、今ここに持ってきてますよ』
 言いながら、取り出した扇子を慣れた所作でサッと開くと、銀乃介には見慣れた文字。
『これはですね、私の応援している方がイベントに出ていらしたので、北海道のイベントでしたけど、有給貰って行って来たんです。そうしたらお話するチャンスがあって、事情を話したら、特別にね。ええ、直筆ですよ、販売品じゃないんです』
 記憶を探るが、思い出せない。というのも、銀乃介は基本的に頼まれれば断らずにホイホイと書いてしまう為、誰に書いたのかなど一々覚えていないのだ。
 しかし間違いなく自身の書体。
 おかしな縁もあるものだと眺めていると、話題が将棋であるからか、例のキャスターはまたも口調が熱くなり、
『実に格好良い将棋を指す方でして……いや、浅井新王竜も確かに強いですが、私としては彼の方を応援したい。彼の方が強いと思うんですよ』
番組的には響を持ち上げて終わるところであるはずが、妙なことを言い始めた。当人以外は引き笑いを隠せていない、何とも微妙な空気のスタジオは絶賛全国放送中である。
「放送協会も最近はハッチャけるようになりましたね」
「後で怒られるんだろうな、彼。慰めの手紙送ってやれ」
 このキャスターの御陰で、突然酒が美味くなった気がした。幸田と二人言い合いながら、今日初めての自然な笑いが漏れていた。
『将棋を見始めたばかりの方は、是非島津銀乃介という名前をチェックしておいて下さい。いずれ名人になる方です……それでは本日はここでお別れとなります、おやすみなさい』
 終了間際のドタバタの中で、例のキャスターが何気なく漏らした一言。
 いずれは名人になる器だ。奨励会時代から、そう言われてきた。竹中・小寺の次は島津の一人勝ちで決まりだろう、そう言われていた――響がプロになるまでは。
 別番組の始まったテレビ画面から目を外すと、
「違うな」
静かに呟く。
「何がだよ」
「いや、さっきの幸田さんの話……惜しいけど、ちと違う」
 怪訝な表情の幸田に、今度は、一つのかげりもない、いつも通りの表情で返す。
 それは自身に言い聞かせるように。
「俺がアイツに付き合うんじゃない、アイツが俺に付き合うんですよ。最後の最後まで」
 あの日、例会でクソガキに声をかけたのは何の為であったのか。従順な後輩を作る為であったか、研究する上で役立つ人間を身内に引き込む為であったか――断じて否。単に己に相応しい相手を作り上げる為に、である。
 夢か現か朧気な、浮世に男児一生を得たからには、血吐き骨砕く刹那の恍惚を身に与え得る、宿敵をこそ求むべし。
 銀乃介にとって、名人になることは目的ではない。至上の宿敵と名人をかけて殴り合う、その過程こそが全てなのである。
「アイツがいて良かった」
 ともすれば忘れがちなその幸福を改めて思い出せば、何を落ち込むこともない。今宵は宿敵の出世した宴席なれば、これほど嬉しいこともない。