十四の五

 年明け五日。千駄ヶ谷では指し初め式が行われており、出番を終えた銀乃介は羽織袴の出で立ちで連盟地下のスタジオに入っていた。隣には少しばかり不機嫌な風な、晴れ着姿の千代が立っている。
「少しは機嫌直せよ、折角良いモン着てんだから」
「うるさいわね……大体、アンタが考え無しに変な話引き受けて来るから悪いんでしょ」
 銀乃介が実家から帰ってきて以来、正確には例の棋戦への参加を依頼してからであるが、千代の機嫌は悪かった。彼女にしてみれば、弟弟子のあまりの必死さに不承不承引き受けてやったのであり、多少イジめてやってもバチは当たるまいということである。
「その件はマジで感謝してるよ。今度なんか買ってやるからさ」
「いらないわよ」
「ほら、この前欲しいって言ってた児島さんの駒、アレ買ってやるよ」
「アンタさあ、将棋の駒プレゼントされて機嫌直す女なんていると思ってるの?」
「欲しがってたじゃねーか」
「それでも、駒は自分で買うから要らない。本当に機嫌直して欲しかったら、もっと気の利いた物にしなさいよ」
 口悪く言ってみせてはいるものの、実際にはそう怒っている訳ではないと伝わってくる。とは言え、実際に銀乃介の財布は寂しい事になるだろうが。
「わーったよ、一日付き合ってやる。いつが良い?」
「じゃ、明日。当然全部アンタ持ちだから、今月は馬券買えると思わない事ね」
「手加減しろよ」
「エスコート次第かな」
 言い合っているうちに、今日の仕事相手である、インターネットサービス企業の職員が機材のセッティングを始めていた。指し初め式のイベントに取り込む形で行われることとなった、新人王戦記念対局を、自社動画サイトを通じて生中継するらしい。
「よくこんな最新メディアを引っ張り込めたもんだな」
「前々から、会長が独自のルートで口説いてたらしいわよ。今日のケースが巧くいったらタイトル戦の一日生中継とかも企画するって」
「ふん。あのジジイ、よー色々と考えるこった」
 浮かんだ松永の顔に吐き捨てたのだったが、
「どうかしたの? ギンが会長のことそんな風に言うなんて」
他ならぬ目の前の相手には、悟られてはならないことだ。
「別に、大したこっちゃねえよ……ちと小便」
 昨日今日の関係ではなく、ごまかしきる事など出来るはずもない。適当な理由付けて場を離れようとしたのだが、その時だった。
「やあやあ、今日はよろしくお願いします」
 景気の良い挨拶でスタジオに現れたのは松永その人であり、銀乃介と千代のいる一角をみとめた一瞬、彼の表情が確かに変わったのを、銀乃介は見逃さなかった。
 ひょっとすれば、松永は千代に例の棋戦のことを打診するつもりかも知れず、とすれば二人きりで話をさせるわけにはいかない。あくまで千代は、間抜けな弟弟子が必死に頭を下げたから、出場するのでなくてはならない。
 近付いてくる松永を千代の手前で引き留めると、
「便所、付き合って下さい」
老いを感じさせる細腕を荒く掴みながら、耳元で伝えた。



 最寄りの便所に入り、用を足すフリもなく、壁に寄りかかりながら。
「お誘いは有難いがね、どうせなら立花君に付き合いたかったよ」
「どっちの意味でだ、そりゃ」
「さあ、両方かな」
 飄々と、しらばくれる風でも無しに、松永は応じる。
「どんな味なんだい?」
「何が」
「お小水さ、立花君の」
「スカトロジジイが」
「何だ、まだ小便も飲ませて貰ってないのか。飲ませるのも良いが、偶には飲んでやるのも悪くないぞ」
 別段とシモの話が嫌いなタチではなく、いつもならば笑ってやるところだが、そういう気分でもない。
「例の棋戦の話なら、千代はもう納得してる。アンタは何も言うな」
 相手は松永である、それだけ言えば全て通じた。
「ならばそういう事に。君のご実家が満足してくれるなら過程は問わんよ」
「厭味な言い方をしやがる」
「厭味、厭味ときたか。天才と家柄の両方を腐るほどに与えられた君ならではの言葉だな」
「生憎、その手の煽りは聞き飽きててな」
 穏やかな雰囲気が却って不思議なほどであった。ふらりと入り込んだ部外者が何事も無く脇で用を足して出て行けるような、静かなやりとりだった。
「とにかく、千代に余計な事は言うな。アイツは自力一つで俺達と同じ土俵に立ってんだ、周りにガタガタ言われる筋合いなんざねえはずだ」
 銀乃介が何気なく呟いた言葉に、松永は一呼吸の間を置いて、
「まさかとは思うが、まだ抱いていないのか?」
そう言った。滲んでいるのは、嘲りというより呆れに近い色だろうか。
「知ったことか」
 突き放す銀乃介にそれ以上構うことはせず、松永は一人続ける。
「今回の件、立花君の為にも受けて正解だったと、私は思うがね」
「この期に及んで言い訳がましいぜ、見損なわせるなよジイさん」
「例の棋戦に貢献してくれれば、年に数億の金を引っ張ってくる存在だ、口を出してやる理由も出来る」
「何に口を出すってんだ。わざわざ庇ってやるような立場じゃねえだろう」
「……本当に、君は何も聞かされていないんだな」
「何を言っている」
「木下のことだ。理事の木下」
 木下元吉九段、二階堂とタイプは違うが女狂いで有名な棋士である。しかし実績に関しては折り紙付き。タイトルからは十年近く遠ざかっているものの、五〇代にしてなおB級一組を保ち続けている、紛れもなく棋界の頂点を知る一人だ。
 そして現在は、連盟の常任理事の一人でもある。
「棋天戦が終わった頃だ、結城が血相変えて執務室に怒鳴り込んで来てな。下らんデマだと追い返したら、次の日には市ヶ谷の筋まで引き連れてきたよ。万一にも立花鑑連の逆鱗に触れてみろ、冷戦どころでは済まなくなるぞ……と脅された」
「だから、何を言っている」
「多少特殊な研究会への誘いがあったそうだ。有り体に言うなら、最新情報をくれてやるから愛人になれ、と――木下本人も認めている。その上で、今後もやめる気は無い、とも」
 正直に言えば、予想の付かないことではなかった。というより、奨励会時代から、その手の目的で研究会に誘ってくるプロは何人かいたし、本人も適当にかわすのは慣れているはずだった。
「下らねえ、今更そんな戯言相手にするタマじゃねえよ」
 問題にもならない、と鼻で笑った銀乃介に、しかし松永は、なおも堅い表情を崩さない。
「相手は理事だ、盤外戦など幾らでも仕掛けられる……たとえば、立花君のスケジュールについて、疑問に思った事くらいあるだろう。雑誌の取材に地方での普及活動、明らかに過密なんだよ。同クラスの層に比べて、研究に割ける時間は半分以下のはずだ。
 忙しいだけならまだしも、そうした普及絡みの仕事でどうにか生計を立てているような、低層棋士からの恨みも買う……自分たちの稼ぎを奪う気か、とね。こちらの方は深刻だぞ、何せ木下はその連中をそっくりそのまま抱き込むからな。方法は簡単だ、理事として適切な仕事を与えるだけで良い。それだけで木下は手勢を増やし、立花君は更に孤立する」
 聞いていくうちに、銀乃介の胸中にふと思い起こされることがあった。
 昨年の十月頃だったか。千代が、奨励会時代から参加していた研究会に、突然行かなくなった。その研究会が解散した、ということではないのだ。ある日ぱったりと千代が行かなくなったのである。元々銀乃介は定期的な研究会に殆ど参加していないし、響や慈乃も同様だったため、特に気にかけることはなかったが、あれは何故だったのか。
「心当たりはあるようだな」
 表情に出ていたのだろう。松永の言葉は、耳を冷ややかに通り抜けた。
「もし仮に、連盟に所属する二棋士の間に問題が発生したとする、そしてどちらか一方が廃業しなければならないような事態に陥ったとする。そうした時、連盟の会長が何を基準に判断するか、君は解るか?」
「……さあな」
 一応の言葉は返すも、心はそこにない。話さなかった千代の態度への、木下のやり方への、そして、何も知らずにいた自身への怒りが、銀乃介の胸中で渦を巻いて濁流となっていた。
「この世界に残るべきはな、将棋が強い人間だ。もしも立花君がこれを問題として外部に訴えるつもりなら、私は迷い無く木下を擁護する……君も棋士なら、まさか狂っているとは言うまいね」
「ああ、そうだな。アンタが正しい」
 借りは全て盤上で返さなければならない。その信念を誰よりも強く持っている男だからこそ、躊躇いの間は生まれない。
「しかし、会長だからな、組織の運営を考える事もまた当然だ。仮に、一人の力で年に数億の金を稼いでくる棋士がいるとしたら、それは十分考慮に値する……と、これが今回の棋戦に彼女が参加するべき理由だよ」
「そうか……なら、好きにやりゃ良いさ」
 果たして松永は、本当に千代への嫌がらせを止める気があるのか、確かめる術は無いが、しかし仮に、その術があったとしても、銀乃介は敢えて確かめようとしただろうか。彼は既に、事の行く末よりも、胸中に渦巻くこの怒りを、盤上でその相手に叩き付ける事以外、考えられないのである。
 ふと、松永は呆れたような息を吐くと、
「その単純さが、将棋においても、強さに繋がっているのだろうがね……早く抱いてやれ、とだけ忠告させて貰うよ」
そう言った。
「君と彼女とでは才能のケタが違う、だからこそ、一局の勝ちに懸ける執念が違う。一度でも地獄を経験した人間は、泥を被る事を厭わんよ。君には解らん感覚だろうが」
 銀乃介の肩を気易く叩くと、
「誰の女か身体で教えてやれ。そうすれば、多少は角が取れるだろう」
「女流と指すことを拒否しない程度には、ってことか」
「そう単純なことは言ってない……なまじ幼い頃から一緒にいたからだろうな、君や浅井と張り合おうとする不相応を、彼女は認められずにいる」
そうして、間を置くように、私も会長なんぞをやるまでは知らなかったがね、と、珍しい自嘲を浮かべてから、
「棋士にも二種類いて、君たちは上、彼女は下、そういうことだ……下であるなら、生活のために指すことも恥ではないと、どこかで認めなければ、壊れるのは彼女だよ」
言い残して便所を去った。