『その形』は現れた。
「宣言通りの中座飛車、だな」
 横歩取り8五飛車戦法。相掛かりなどでよく見る浮き飛車よりも更に一つ上段、飛車を五段目に構えさせるこの形は、その位置取りから別名を中座飛車とも呼ばれる。

         ※
《特別対局室》

 響は、8五に飛車を引いた指先をそのまま盆へ滑らせると、持ち込んだペットボトルのミネラルウォーターをコップに注いだ。
 舐めるように舌を湿らせながら、見つめる先には互いに時間を使わずに辿り着いた予定調和の局面。
 しかし響にとっても、二階堂の挑発にのせられて、それだけで8五飛を選んだ、という訳ではない。
 3三桂、8八角成、3三角でも8四飛など、横歩取りに様々な形があることは事実だが、8五飛戦法が『後手番戦法でありながら勝率五割を大きく超えている』現状では、選択に疑問が生じる余地すら無い。
 だからこそ、響は二階堂の挑発が解せなかった。
 現役プロがこぞって研究を重ねている戦型に、まだ誰も手を付けていない超ド級の鉱脈、効果的で画期的な新手が、無造作に転がっているかのような物言い。現役世代を過小評価しているのか、それとも、己の能力を過大評価しているのか。いずれにせよ、常識で考えれば、百人近くの研究がたった一人の編み出した新手に潰されるなど、そうそう有り得る事ではない。
「緊張しとるか?」
 ふいに、声を投げられる。
「どういう意味です?」
「阿呆め、〝伝説の名人と指せる栄誉に震えてはおらんか〟と問うている」
「失礼ながら、全く」
「愛想のねえガキだ。こんなところまで似ていやがる」
 つまらなそうに言い捨てた二階堂の、その何気ない言葉が、響の意識を引き寄せた。
「俺は、浅井十兵衛に似ていますか?」
 果たして、そう尋ねた声色が、今までのものと微妙な違いを持っていることを察したのだろうか、二階堂は顎に手をやると、ぼうぼうに伸びた髭を撫でるようにしながら、
「そうさな……ワシに勝てたら十兵衛との思い出話、一つ聞かせてやるとしようか」
煎茶を片手に縁側で、近所の子供を相手にするような物言いで呟き、更に一言、
「煙草、吸うぞ」
返事は待たずに火を点けた。