外伝 棋客十兵衛

 十兵衛の妻である香子は、孫の響がふらりと部屋に現れた時、告げられるより先に事態を察した。何となく予感があった。前日の夜、普段は口を開かない事も多い十兵衛が、明日響と将棋を指すと呟いた時からであった。
 香子は静かに、救急車の呼び方が解るかと尋ねた。響は小さく首を縦に振った。
「それじゃあ、救急車を呼びなさい。それと、お父さんにも電話で知らせてあげなさい」
 小さな孫の頭を撫でるようにして送り出してから、香子は穏やかな足取りで離れへ向かった。
 開け放たれた扉から覗く仄暗い室内、将棋盤に向いたまま動かない一人の影は、息をしていないことが信じがたかった。将棋盤に向かう十兵衛の姿は日常となんら変わらないものに見えた。
 香子は静かに近づき、かつてよくしていたように、十兵衛の左後方から盤を覗き込んだ。そうして暫く、妙な違和感を抱きながら盤面を眺めていたのだが、その正体に気が付くと、
「あら、負けてる」
思わず漏れたその言葉には今日一番の驚きが籠っていた。十兵衛の玉が詰んでいるのだ。
「あなたが負けたの、初めて見たわ」
 恐らく香子には、亡骸に向けて話しかけているという意識すらなかっただろう。純粋な驚きから漏れた独り言に違いなかった。
 あまりの衝撃から、反応するはずもない亡骸をただ眺めているだけになると、孫のためにわざと負けてあげたのだろうかと、あるはずの無い考えが頭をよぎり、打ち消すよりも先に苦笑した。
「十兵衛さんに限って、そんな事有り得ないのにね」
 死してなお将棋盤の前から動こうとしない、いつかの光景と重なる十兵衛の姿に、半世紀以上昔の出来事への、思い出し笑いだった。