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 昭和十四年、梅雨の時期。
 その日は近年一番の大雨のおかげで近所の川が氾濫を起こしかけており、家の男衆は皆そちらに出払っているから、家はひどく静かだった。
 これ幸いと香子が居間で少年倶楽部を広げていると、女中のお富が、そんなものを読んでいたら総司親分に叱られる、と言った。
「総司親分が買ってきてくだすった本があるだろう、そっちを読みなよ」
「少女倶楽部はつまらないのよ、内容がいちいち面倒くさいの。それよりこれ、この漫画、お富も一緒に読もう、面白いから」
「大体、こんな高い物どうしたのさ」
「爺ちゃんが買ってくれたの、オトウサマには内緒でね」
「大親分にも困ったもんだ」
「どこがさ。困ったのはオトウサマの方だろ。算盤弾けても啖呵を切れない男なんかこの家には必要ないって、みんな腹では思ってるよ」
「アンタなんて事を、自分の親に向かって」
「私が言わなきゃ誰も言えないじゃないのさ。オトウサマが番頭役に着いてから、訳の解らない稼業に手を出して、インテリの坊やが出入りするようになって、皆戸惑ってる。この家を、筒井の一家を本当に考えてくれているのは皆爺ちゃんの代からの人間なのに、オトウサマはそういう人に失礼なことばかりする。仁義を知らないのさ、あの人は――」
「香子!」
 お富の声色がはっきりと変わり、それまで饒舌に話していた香子は雷に打たれたように固まった。
「口が過ぎるよ」
 男衆すら黙らせるお富の雷は、決して多くを語らない。その眼光で相手を射殺す。
「けど、お富だって――」
 言い淀みながらも続けようとする香子には、それなりの理由があった。
 若い頃に母を亡くし、以来母代わりとして香子を育ててきてくれたお富に対し、総司が侮辱的な言葉――曰く『物の数え方すら解らない馬鹿女』――を吐いた、つい先日のことを怒っているのだ。
「――だっても何もない。総司親分はアンタの父親だ、父親に対してそんなふざけた口を叩く子供のことを許しちまったら、それこそ私の義理が立たないんだよ」
 こう言われてしまっては香子も続ける事は出来ず、むっつりと黙り込んだ。
「大体、アレは総司親分の言う通りさ。これからの時代、幾ら女でも、字は書けない計算も出来ないじゃダメさ……香子は私みたいになっちゃいけないよ。来年からは女学校にも行かせて貰えるって話だろう」
 お富の威勢の良い声の裏側に潜む悔しさに気付けないほど、香子という少女は愚かではない。読んでいた雑誌を片付けると、戸棚の奥に仕舞っておいた少女向けの雑誌を静かに開いた。

 家が騒がしくなったのはそれから一刻ばかり経った頃だった。玄関口から聞こえる喧噪の様子からすると、どうも男衆が帰って来ただけではない。お富を中心に女中たちも何やら騒がしくなっている。
 香子は読んでもいなかった雑誌を閉じると、そっと廊下に出た。
 玄関口では、男衆が輪になって何やら抱えてきたモノをおろしている最中だった。
「お嬢!」
 誰かが叫ぶと、十数名の男衆が一斉に頭を下げる。
「ご苦労さま。構わなくて良いよ……大騒ぎだけど、一体何を拾ってきたのさ」
 言いながら輪の中心をのぞき込むと、ずぶ濡れの人間、青年だ。息があるのか解らない。
 まさか土左衛門ではなかろうかと、流石に香子もギョッとする。
「どきな!」
 湯を張った桶を担いだお富が、香子を押しのけて青年の前に座った。襷をかけたその姿はさながら野戦病院の看護婦である。
「死んでるの?」
「バカな事言ってんじゃないよ、誰が死体にこんな真似をするかい。香子は客間に布団を敷いておいで」
 おっかなびっくり尋ねた香子の尻を叩きながら、お富は声を張り上げる。
「お嬢にそんな真似は、あっしらでやりやす」
「つまらない事気にしてないで、まだ川の事があるんだろう、動ける奴はそっちに戻りな。それと一人は医者だ、薮田の先生ならここの勝手も解ってる……ほら何してる、さっさと動くんだよ!」
 男衆も戸惑っていたが、尻を叩かれた香子が客間へ駆け出すと、慌ただしく動き出した。