学校から帰ってきた香子が挨拶をしに祖父である順慶の部屋を訪ねると、正に例の客人と将棋を指しているところだった。
「香子、ただいま戻りました」
 順慶は短く、おう、と応えると、またすぐに将棋盤へと沈んでいく。対面に座る青年は香子にそっと頭を下げた。
 あの雨の日に拾った青年は、姓は浅井名を十兵衛というそうだ。聞けば年は一七とかで、東北の農家の出ということだが生まれてすぐに里子に出されたため生家については本人も確かな記憶を持っておらず、奉公に出された家もほどなく恐慌で一家離散の憂き目を見ると、以来、今の香子よりも一回り幼い頃から一〇年近く、流浪の棋客として過ごしてきたのだという。
「参った。やはり十兵衛殿は強い」
順慶が投了した直後、香子は待っていたと言わんばかりに十兵衛の手を取った。
「ねえ十兵衛、今日はメンコで勝負しよう」
 しかし十兵衛は取り繕う事もせず、
「今は大親分との将棋の時間です、お嬢」
香子の手を無造作に振り払った。
 大親分を前にしても一家の孫娘にぞんざいな態度で返せる。そういう肝の据わった所が、香子を惹きつけてやまないのだ。
「何さ、私がメンコをやろうって言っているんだよ」
「お嬢、俺は今、手前に出来る数少ない事で筒井の家に報いようとしているんです。堪忍してください」
 それを聞いた順慶は勢いよく膝を叩くと、
「その若さでよう言うた。十兵衛殿はまこと仁義というものを弁えた御仁ぞ」
いたく感激したように唸った。

 香子がやっとの思いで十兵衛を借り出せたのは小一時間も粘ってからのことであった。
 すっかり日も暮れてしまうと、香子は最早メンコという気分も失せてしまっていたから、夕食を待つ間に縁側から夕焼けを眺めていた。
「あれは何をしているんです」
 ふいに尋ねた十兵衛の指している方を見ると、若い衆が何人かで山車を引っ張り出していた。
「祭の準備さ。筒井の家は代々ここらの普請一切を取り仕切っているからね、香具師稼業こそ一家の魂なのさ」
「なら俺も手伝います。こんな風にぼんやり眺めていたんじゃ申し訳が立ちません」
「ダメさ。十兵衛の気持ちは嬉しいけれども、それはいけない。言ったろう、祭は筒井の魂なのさ、客人に触らせることは出来ないよ」
 香子がさらりと言ってのけると、十兵衛は珍しく目を伏せて、
「とんだ心得違いをしました、お許しを」
謝罪した。十兵衛が筒井の婿になるなら話は別だが、とでも続けようかと考えていた香子であったが、初めて見た、十兵衛の年相応に不慣れな対応に狼狽してしまい、ほおずきの様に頬が染まると、言葉は何も出なくなった。
 夕焼け時で助かった。そう思った。梅雨も明けたか、雲一つない茜空の下ならば、筒井の香子が不覚にも漏らした女らしさを綺麗に隠してくれるだろう。
「しかし一体、あの日何をしていたのさ。川から流れてくるなんて桃太郎じゃあるまいし」
 話を変えるように水を向けると、十兵衛は一寸の間を置いてから、下手を打ちました、と答えた。
「将棋で負けて追われたのかい」
「勝って追われる渡世もあります」
「相手は誰さ」
「お嬢は新聞を読めますか」
「人並みにはね」
「では、連盟の佐々木金治郎という名前は」
「佐々木、佐々木……どこかで見た気もするけれど。それに連盟ってのはなんだい」
「つい十年も前に出来た、将棋を稼業とする連中の団体ですよ。佐々木はそこの、関西の親玉です」
「するってえとその西の親玉が負けた腹いせに手を回したってえのかい」
「いや、佐々木は知らない事でしょう。面子に傷が付くことを恐れた……連盟自体というより、その周りの連中が勝手に動いたのだと」
「ひどい話だ……しかし、やけに慣れている風じゃないか。そんな目にあったのに淡々と話せるなんて」
「十年近く、このシノギを続けていますから。渡世の沙汰など得てしてこんなものですよ」
 幼い頃から様々な人種が出入りする家柄故であったろうか、香子はこの年にして人物の真贋や性根を見抜く眼力に長けていた。その眼を通してみても、目の前の十兵衛は一切の虚勢を感じさせず、ただあるがままを話しているようにしか感じられないのである。
 それは浅井十兵衛という青年がいかに過酷な半生を過ごして来たかという証明でもあり、また、外見の若さとは不釣り合いなその深みが、青年の不思議な魅力を醸し出している。
 香子がぼんやり見惚れていると、十兵衛は気付かぬふりをして続けた。
「先程、お嬢が帰ってくる少し前に、大親分から盆のお誘いを頂きました」
「棋客としてかい? そりゃあ確かに、是非受けておくれよ」
「私に務まるか不安で、迷っています」
 香具師稼業の筒井一家であるが、片田舎の一切を取り仕切る元締めともなると、刺激を求める人の常か、当然周囲からの要望で定期の盆を敷かない訳にはいかなかった。
 そうして、近所の寺を借りて開催している月に一度の盆では、のんびりゆったり見ても楽しめる催しの一つとして、将棋の外乗りも行っており、今までは都会に出向いて適当な指し手を見繕っていたのだが、確かに十兵衛が受けてくれるのならば手間が省ける。
「不義理と思われるでしょうが、俺は、将棋には嘘を吐けない性分です。ですから今までも胴元から好かれなくて」
 真剣な表情で打ち明ける十兵衛に、香子は思い切り吹き出して、笑い転げた。何を心配しているのかと思ったらそんなことか。
「そりゃあ十兵衛、無用な気苦労ってもんさ。さっきも言ったけど、筒井の稼業は香具師だ。盆はあくまで娯楽の為、それをシノギにしている訳じゃない。筒井の盆で一番大事なことはね、来て頂いたお客さん達、ここの地域の人達に楽しんで貰うことさ。その為にも胴元の都合で八百長を仕込むなんて真似、絶対にあっちゃあいけない。
 爺ちゃん……いや大親分にも聞いてごらん。絶対に、私と同じ事を言うから」
 香子が長く語り終えると、十兵衛が呆けた顔で見つめており、どうしたのかと尋ねると、
「お嬢は本当に、まだお若いのに、大した方だと思いまして」
 途切れ途切れになっている辺りが、言葉に込められている実感を滲ませていて香子にはむず痒い。
「及ばずながら指させて頂くと、大親分にはお答えします」
「受けてくれるのかい! そりゃあ良かった、何よりだよ。その時は、私もお小遣いを全部使って十兵衛に乗らせて貰うからね」
 応援のつもりで口にした約束だが、十兵衛の反応は薄く、
「そうですか」
と一言だった。香子は、気を害する、というのはまるで違うが、違和感、そう表現するのが適切であろう。十兵衛という人間からすると感謝の口上を返してくるものだと想像していたのだ。しかしそれは言うなれば、十兵衛が自らの勝利を疑ってすらいないからこそに違いなかった。
「本当に大丈夫なんだろうね」
 冗談のつもりで煽ってやると、十兵衛は何とも無い風に頷き、
「将棋の負けは、生来一度もありません故」
誰が聞いても真実と悟る、一分の虚勢も無い、平静のうちの言葉。香子の肌は粟立った。