二


 転がり込んだ棋客の青年も、一家の食卓にすっかり馴染む程度に時が経つ頃には、既に数度の盆を経てその並々ならぬ棋力を周囲に認められており、皆からも十兵衛、十兵衛と気さくに呼ばれるようになっていた。香子は惚れた男を取られたと騒ぐようなこともなく一家の風景に溶け込んだその様をいつまでも続いてほしいものと願っていたのだが、香子の父、即ち一家の跡取りである総司はそうでなかった。
「盆のあがりがまた減ったぞ。全くとんだものを拾ってしまった」
 今日もまた、朝食の席で顔を合わせるなりあからさまな視線を十兵衛に当てつけながらそうぼやき、彼はこれから一週間はこのことを一家で吹聴して回るのだろう。そうして却って昔気質の者が多い一家の不評を買うのである。
「結果が解り切っているのだ、勝つ方に乗るに決まっている。全くとんだものを拾ってしまった」
「しかし若、あがりを気にして配当を下げたら筒井の名前に傷がつきます。それをしないのは、若の度量の大きさってもんですよ」
 気の回る者が助け舟を出そうにも、むっつりとした顔を崩さない。周りが言わなければすぐにでも配当を下げてやりたいのだろう。香子はそんな父の内心を見透かしたように、
「オトウサマ、それなら十兵衛を負かす強い将棋指しを連れてくればよいのです。うちの全財産で相手に乗れば、今までのアガリなんて御釣りが来ますわ」
わざとらしいお嬢様言葉でピシャリというと、満面の笑みを見せながらそそくさと食卓を去って行った。


 家に帰るなり十兵衛を探し回る香子をお富が背後から呼び止めた。
「ちょいと香子、あんた総司親分に何言ったのさ」
「別に何も言ってないさ。オトウサマが好きなお金儲けの方法を教えてあげただけだよ」
 香子は事も無げに答えるとすぐさま十兵衛を探しにまた廊下を歩き始め、お富はその後を着いていく。
「総司親分の様子が変なんだよ、朝は怒鳴り散らすくらい不機嫌だったのに、ふっと昼前に部屋に籠もって、いきなり外に出て行って、さっき帰ってきたら気味悪いくらいに笑顔と来たもんだ」
 お富の歯に布着せぬ物言いに思わず吹き出しながら、
「あの人の笑顔なんて気味が悪いや、でも大したことじゃないでしょ」
「いや、今回ばかりは本当に妙だよ。さっき部屋の掃除に入ったんだけど、どうも一人で籠っていた時に、古い新聞を漁っていたようなんだ」
「新聞っていつのさ」
「三年前の」
「きっとあれさ、思い出せなくて気になる事でもあったんだろ。それで思い出せなかったことが解ってスッキリしたから笑顔になった、そんなところさ」
「うーん、そうかも知れないけどさあ……見ていた記事、どうも将棋に関する記事だったようなんだよ」
 将棋という言葉に反応したように、香子の足が止まった。
「あんた、親分を焚き付けるような事をいったんじゃないのかい。どうもあれはよからぬことを考えている雰囲気だよ」
 お富はいつになく深刻な表情で告げた。
 しかし香子は、一寸考える風でもなく、
「まあ、大したことは出来やしないさ」
その言葉を流した。
「何さ、随分貫禄があるじゃないか」
「そりゃあ、本人が負けたこと無いって言ってたし、実際に見たからね」
 仮に総司が今朝の発言を真に受けて、新聞に載るような強い将棋指しを探してきたとしても、十兵衛が負けるようなことは有り得ないと思ったからこその言葉だった。それほどに、これまでの盆で見た十兵衛は神がかっていた。
 最初の相手はこれまで筒井の盆で看板を張っていた指し手であり、通算の勝率で言えば七割を超える程。これまでの強さを知る常連達は全く勝負にならぬだろうとハナから決め込んでおり、十兵衛の配当をうんと上げたにも関わらず誰一人として乗る者が出なかった。お陰で香子は大勝したのだったが、その次の盆で同じ相手とまた組むと、今度は十兵衛が申し出た二枚落ちの手合でやはり乗り手は少数、しかし十兵衛はこれもあっさりと勝ち、そこでようやく十兵衛の強さが周囲に知られ、次の盆も次の盆も、当然のごとく十兵衛は勝って行った。最近の盆では相手に乗るものなど一人もいなくなっており、催しをしらけさせないようにと多面指しなども企画したし、それでも駄目ならと十兵衛だけが目隠しの上駒落ち将棋で五人指し……等々趣向を凝らしたのだが、一度として負けないのである。
 誰とやろうと、何をやろうと、十兵衛は一つの将棋として負けなかった。
「あれにはきっと、将棋の神様か何かが憑いているのさ」
 そう口に出すだけで、香子には盤に向かう十兵衛の玲瓏とした背姿が朧に浮かぶ。
「ませた子だよ」
 からかうようなお富の眼差しに気が付き、香子はそそくさと立ち去った。


 祖父の部屋で見つけた十兵衛は、盤に向いてはいるものの、やはり違う。幸せそうな、作り物ではない笑顔を見せてはいるが、あの背姿ではない。そう香子は思う。
「暮らしには慣れたか」
 祖父もまた楽しいのであろう、その表情は崩れてはいないが、最初の頃と比べると情がこもっている。たとえば孫と同じような感覚で十兵衛を捉えているのだろう。
「本当に有難いことです。この家の方は、皆親切です」
「そうか。気に入ったならここで暮らして行けばよい。香子を貰え」
 真顔で言う祖父に、
「お嬢が聞いていますよ」
困ったような十兵衛。あれだけ引っ付きまわっても、他人に言われると恥ずかしいのは人の常か、自分の頬が赤いのを、香子は感じる。
「見れば解る」
 その言葉は十兵衛に答えたものか、それとも十兵衛を促すものか、香子には解らない。


 冬の日は短く祖父との将棋が終わり二人で話すわずかな時間は既に夜、先ほどの祖父の発言からいつものような言葉は紡げず、何をするでもなく庭を眺めるようになる。年越しの準備に陽が落ちても灯りを点してせわしなく蔵をひっくり返す若衆を見ながらふと、あそこで十兵衛が指揮を執る姿を思い浮かべる。それは香子にとって幸せな夢想だった。だからだろう、自然と香子は背中を押された。
「大親分が言っていたことはさ、十兵衛さえ良ければ、わたしはうれしい」
 言ってから、ああしまったと後悔するような女では、香子は無い。まだ女学校にも上がる前の身ではあるが筒井の女である。口にした事はたとえ何であっても責任を取るという覚悟は備わっている。
「十兵衛……さん。十兵衛さんが貰ってくれるなら、わたしは、きちんとした女性になります」
 いつぞや見た少女雑誌に教わるようなものではなく、感じたままを口に出したのだった。込めた覚悟が本物であるからだろうか、不思議と頬が赤らむことは無かった。やはり祖父の血筋が濃いのだろうと香子は思った。
「餅をつくのですか」
 十兵衛が言った。蔵からは臼と杵が引っ張りだされていた。
「正月の振る舞い餅です。盆も開きますから、十兵衛さんも忙しいですよ」
 香子が答えてから暫く、十兵衛は有難うございますと言った。
「一家に加えて頂けるなら、私は本当に幸せ者です」
 ふと香子は十兵衛の表情を見た。月明りに照らされた、穏やかな、普通の男の顔である。





 筒井が取り仕切る地区の年越しは、晦日から三が日の間を絶えず賑やかに過ごしながら一年の安寧を願うもので、この間には各地から芸人が呼ばれるなど、まさしく地区をあげての盛大なものだった。町からの見物客も大勢訪れ、辺境の片田舎と言って差し支えないこの地区が年で最も賑やかになる日でもある。
 自然一家の中にも団結力が強まり、誰も彼もが家中を騒がしく駆け回るこの師走の空気が、香子は好きだった。
「――お客様については前年もお越し頂いた貴族院の酒井子爵と梅田財閥本店の岡原局長、そしてお二人にご紹介頂いた日日新聞社の澤山社長は私が直接対応する。その他の旦那様方は皆に任せるので抜かりのないように頼む」
 皆を広間に集め、当日の来客について説明する総司もこの日ばかりは気が入っている。
「あら、人が増えたね」
 広間の外れに正座して聞いていたお富が呟いた。来客用の食事は彼女が取り仕切ることとなる。政治家や大手企業などを来賓として招き、地域に金を回すよう接待をする場ともなったのは総司の意向であったが、いかんせん始まってまだ数年といったものでありお富には苦労が多い。
「新聞社さんは初めてだけど、食べさせてやって見返りはあるのかね」
 お富の隣に座る香子は、相槌を打ちながらふと考える。子爵や財閥の局長などは確かに普請の際にも世話になったとかいう話を大人がしていたが、新聞社を食わせても見返りがあるようには思えない。
「――それと、澤山社長はお知り合いを何人か連れていらっしゃる。お富、承知しておくのだぞ」
 お富は深々と頭を下げた。


 香子が事の次第を知ったのは十兵衛からだった。曰く、日日新聞は以前十兵衛が話していた将棋を生業とする団体のタニマチで、今回連れてくるお知り合いとやらは件の団体の関西の長だという。
「ってことは、十兵衛を追っていた連中じゃないか!」
 えらいことだと素っ頓狂な声を上げる香子に対して、十兵衛は至極冷静だった。
「ええ、まあ。そうですね、盆の相手として来てくれるのだそうです」
「そんなすっとぼけたことでどうするのさ、アンタ連中に追われて死にかけたんだろう」
 動揺して話し方が以前に戻っている香子も気にするそぶりは見せず、
「そのおかげで拾って頂けました」
十兵衛は静かに微笑んだ。
 諦めてしまったのだろうか、総司に切り捨てられた事を怒りすらせず諦めるしかないのだろうか。総司への憤怒よりも十兵衛の境遇に悲しさを感じた。
 しかしそれは違うのだと、香子はすぐに悟った。十兵衛は確かに微笑んでいたが、その目が燦然と輝いていたのである。
「やはり彼らは一等強いのです」
 自らを殺そうとした相手が再び迫りくる事実などまるで目に入らぬ程、強者とまみえる歓喜に支配されている。
 自らの生を差し出してでも、この男は将棋を指そうというのである。
 尋常ではない。香子は心底から思い、気が付けば背筋に冷たい汗をかいていた。そのようなことは初めてだった。筒井という家に生まれ、並の女とは違う育ちを自負してきた彼女の矜持めいたものは、一瞬で吹き飛ばされていた。
 そして同時に、どうしたことか、それまでよりも深く、冷静に、十兵衛という男に惚れている自分に気が付いた。
「私はきっと、筒井の御家に大きな、本当に大きなご迷惑をおかけします」
 そっと瞳を合わせながら静かに伝える十兵衛に、この男にならば殺されても悔いはないと思う。
「お嬢とこうしてお話出来るのも、今晩がきっと最後になるでしょう。ですから、本当に、今日までありがとうございました」
 静かに言い切る。
「私と話せなくなることに、悔いは無いのですか?」
 女々しいと思いとどまる余裕もなく、そんな言葉が口を出る。
 この生き方は変えられないと、十兵衛はまるで迷うことが無かった。


 小さく深呼吸をしてから、オトウサマ、と襖の向こうへ問いかける。入れ、と短く言われるのを待ってから、香子は静かに襖を開けた。
「十兵衛から全て聞きました」
「そうか。お前に言われてカッとしたが、お陰で良い考えが浮かんだ。礼は言わんがね」
 当てつける風でもなく、子供をあやすような言い方だった。自分の才覚を高く評価するからこそ、総司という男は他人を見くびる癖があった。
「十兵衛を差し出して権力に取り入るのですか」
「あの男にそんな価値などあるものか、私はただ、本物の興行を皆に見せてやりたいだけだよ。一度負ければ盆も多少はマシになる」
「しかしその方々、聞けば十兵衛を追っていた連中だそうではないですか」
「それも誤解だ。将棋連盟の方々は、確かに野良将棋で十兵衛に敗れたそうだが、それも遊びでのこと。あまりに喜んでいたようで、言いふらしても十兵衛の恥になるからと忠告しようとしたら、勝手に川に落ちたそうだよ。まったく、抜けた男だ」
 そのようなはずがないことはすぐに解る。そも十兵衛は勝ったの負けたのなどを言いふらすような男ではない、そうした口があるならばもっと楽に生きているはずだ。そして何より、相手にとっては本気の負けで無いというのならば、このような田舎まで追ってくるはずがないのだ。
「わざわざこんな所まで追いかけて来て、そのような言い訳が通じるものですか」
「口が過ぎるぞ。こちらが頼んで来て頂くのだ」
「何故わざわざ頼む必要がありますか。相手は十兵衛を殺そうとしたのですよ」
「言っただろう、それは誤解だ……そもなんだ、お前はこの忙しい時期にそんなくだらない問答をしに来たというのか」
 聞く耳を持たぬ総司を、香子は節穴だと思った。この目で筒井の男どもをまとめることはできないだろうと、直感的に祖父と父を秤にかけて悟ってしまった。
「十兵衛が、筒井に迷惑をかけると言っていました」
 それを聞く総司は初めて頬を緩め、
「なんだ、ヤツも案外小心だな。それに勘違いをしている、仮に賭けるとしてもあいつに賭ける訳がない」
牧歌的な、あまりにものどかな笑顔だった。総司という男は人をまとめるのでなく、例えば一般的なインテリの家に生まれていたのなら、もしかしたら優しい父だったのかも知れないと、香子の中に芽生えた感情は既に他人のそれだった。
「相手に乗るのだけは、おやめください。私が申し上げたことですが、おやめください」
 ついぞ聞いたことのない娘の冷え切った声に、総司の緩んだ顔は固まった。
「なんだ、なんだ。お前は随分とあの男を買っているようだが、そんなつまらん忠告を私にしに来たという訳か」
 娘が自分を見放したことを悟ると、徐々に沸き起こる怒りが総司の声を震わせていた。
しかし総司は怒鳴れなかった、怒れなかった。それこそが彼の本質であり、筒井の家に合わない根源でもあった。
「安心しろ、十兵衛などとは格が違う、本物の将棋指しの方をお呼びするのだ。賭けなどにはせんよ、立派な興行として行うのだ。お前も、あんな程度の低い男ばかり見ているから考えが低俗なのだ」
 最後は吐き捨てるように、まるで拗ねた子供のように。それきりそっぽを向いた総司を残して、香子は静かに部屋を出た。
 廊下を行く香子の目には自然と涙が浮かんでいた。