雪の降る寒い夜だった。香子は六十八度目の鐘の音を数えながら本日何組目かの客人を出迎えて部屋に通し、火鉢の支度を整えるとまた次の客の出迎えへ立った。
 日が昇る前に朝食を取ったきり一度も座る暇もなく入れ代わり立ち代わり訪れる客人の応対を行うのだから気が沈んでいる暇もない。いつも通りの筒井の年越し。今日は十兵衛とは一度も顔を合わせていない、そんな日は初めてかも知れなかった。
 玄関へ向かう途中総司とすれ違った。初めて見る顔を四人ほど連れていた。脇に避けて頭を下げながらちらと見、どうやら洋装の中年男性は新聞社の澤山社長で、初老の和装が件の連盟の佐々木会長だろうか、その後に続く二十歳程度の男が二名、こちらはどうやら佐々木の弟子か何からしい、控え目に後についている。
 どう見ても十兵衛が負けるはずがないと一目で知ると、胸中に沸いたのは安堵と失望がないまぜになった奇妙な感情だった。
「――我々が支援する以上、西の名人にこそ連盟の頂点として君臨して頂かなければ」
 談笑交じりにゆっくりと通り過ぎる間に、澤山とおぼしき洋装の男が総司に向けて言う。
「今回の祭を記事にして頂ければ、東の方々の誤解も解けることでしょう」
 総司の相槌に和装の腕が僅かに震えたようにも見えた。


 年明けから数刻も経ってからようやく息をつけるようになり、香子が居間で夜食の握り飯を食べていると、寝間着姿の順慶がふらりと姿を見せた。ご苦労だったなとねぎらいの言葉を掛けながら腰を下ろすと、そのままじっと香子の方を眺めている。
 流石に香子はむず痒くなり、口の中の握り飯を無理やりに飲み込んだ。
「こんな夜中にどうしたのさじいちゃん、そんなに見られちゃ食べ辛いよ」
 冗談めかして言うと、祖父は穏やかに笑いながら、
「良いことだな、お前は多少色気を持った方が良い。でなけりゃいずれ十兵衛に捨てられちまうぞ」
そう返した。
「あの人は、どこかに縛られるものじゃなかったんだよ」
 既に結論が出てしまったことを伝えると、順慶はまんじりともせず、しばらく思案するような間をおくと一つ大きく息を吐き、そうか、と何かに納得したように呟いた。
「どうやら正夢になるらしい」
「何がさ」
「大したことではないが……夢を見てな。お前のツラを眺めておきたくなった」
「縁起でもない、やめてよ。まだまだ先は長いだろう」
「どうかな、もう長すぎるほどに生きた。記憶は無いが江戸の生まれだ、そろそろ退場の頃合いだろうよ」
「やめておくれよ、じいちゃんがいなくなったら筒井の一家は御終いさ。まだまだ生きてて貰わないと」
 当てつけるように言うと、順慶は困ったように笑った。珍しい、と香子は思った。祖父がそんな笑い方をすることはついぞ見た事が無かった。どのような荒事でもその身その腕一つで乗り越えてきた、何事も一喝で退けるが如き気勢が、この時の祖父にはまるで感じられなかった。
「ガキの時分には、江戸の名残のちょんまげ頭が残っていてよ、俺の親父もそうしていたが、俺は内心バカな親父だと思っていたのかも知れねえ。周りが変わって行く様に気付けていない親父を、どうにかしてやりたいと思っていたのかも知れねえ」
「何さ、突然」
「世間は変わる。今は当たり前のこともいずれは妙なことだと笑われる。時代とでも言うのかね、因果なもんだ。それが幸福とは限らんが、不幸であるとも限らんのだろう」
 訝し気な香子にもう一度、珍しいはずの苦笑を漏らしてから、
「総司が上手くやれるかどうかは知らんが、家や周りの連中を支えてやれるのは俺やお前の考えではない」
順慶は言い切った。
 正に鳩が豆鉄砲、といった表情になった香子を優しいまなざしで眺めながら、
「十兵衛は文字が読めん、知っていたか?」
そんな話を切り出す。
「出された家で散々な扱われ方をしていたんだろうな、ここらの小僧でも知ってるようなことも、アイツは知らん」
「それは、オトウサマやちょんまげのこととどう関係があるの?」
 辺りは深夜。年越しも一段落し明日の催しに向けて身体を休めている時間帯の家は久方ぶりに耳鳴りがしそうな静けさだった。
「まあ聞け……将棋は家の旦那が指しているのを見て覚えたそうだ、四つの頃だと言っていた。文字が読めずとも符号が読めれば棋書は読めるからと、旦那が留守の間に詰将棋の本などを盗み見ていたそうだ。そう何度も機会が無いから必死に覚えたと。
 家が潰れてからは大道棋で稼げることを知って、却って楽になったと言っていた。そうして縁日を荒らしまわっていたら博徒連中に目をつけられて棋客になり、勝ち過ぎて追われる生活が始まったってことだな。
 十年以上だ。誰だってあるガキの時分の経験を何一つせずに、アイツはその間、生きるために将棋を指し続けてきた。だからアイツには将棋しか無い、それ以外興味も無い……だから、あれだけ強いのだ」
 ぽつり、ぽつりと、時間をかけて語る順慶の言葉とともに冷え切った冬の空気が次第に香子の体温を奪っていく。垂れてきた髪をかき上げようと指を這わせると、頬に触れたのは氷のような感覚だった。
「生が道を極める事に直結している人間なんざ、きっとこの先の時代じゃあ出てこないんだろうよ。出てこられないだろうよ。それはきっと幸せなことなのだろうが、つまらんことだとも俺は思う。思っちまうのさ。俺はもう、ちょんまげ結ってた親父と同じになっちまった」
「そうじゃないさ、爺ちゃんは正しい。そう思う事は悪くない、私だってそう思う」
「良い悪いで世間が動くかよ。香具師稼業はもう終いだ、そういう時代が来ている」
「じいちゃん、冗談だと言っておくれよ」
 短いやり取りの間に身を乗り出していた香子を、その瞳を捉えながら、順慶はわずかに口角を上げた。今度は苦笑ではなかった。江戸の末に生まれた筒井一家の大親分に相応しい、不敵な笑みだった。
「お前はきっと最後の筒井だ、だからそれで良い。不幸な人生になるかも知れんが、そう生きたいヤツを引き留めるほど俺の頭は文明的には出来てねえ」
 そうしてすっと立ち上がり、背を向けると、
「十兵衛を支えてやれ。なんもかんも変わっていく時代に、でけえ仇花咲かせて見せろ」
そう残して、伝えるべきことは全て伝えたという事か、何事も無かったかのように去り際は静かだった。






 三十畳はあろうかという広間のような寺の御堂に盤を構え、観客が入れ代わり立ち代わりする中で対局は行われる。最も耳目を集める催しであるだけに境内は御堂に入りきれなかった人々に溢れ、火を焚き出店の品々を楽しみながら、枯れ枝で地に描いた盤に伝わる指し手を示していく。
「7八金打で先手投了だ、また十兵衛が勝ったぞ!」
 連絡役の男が怒鳴るように叫ぶと、境内にどよめきが起こった。
「一体誰だい、今日の相手は本物の連盟棋士だと言ったヤツはよ。十兵衛の連勝じゃねえかい。こいつはどうしたことだ、まるで相手になっちゃいないぞ」
「いや、確かに普段の盆より苦労していると見えるぜ。何せ平手だ、平手の十兵衛なんざとんと見ていない。それによく見ろ、手番が違えばこの局面は先手の勝ちだぜ」
「馬鹿野郎、この一手が埋まるようなら俺だって十兵衛に勝てらあ。この一手が埋まらねえから将棋ってのは面白いのよ」
「しかし連盟棋士に連勝するたあ、流石十兵衛大したもんだ。ひょっとして、名人よりも強いんじゃあねえのかい」
「それもすぐに解ることさ。噂じゃあ関西名人の佐々木金治郎も来ているって話だ、弟子がこれだけ負かされて出てこないような臆病者じゃあねえだろうよ」
 思い思いに言い合うその表情は一様に笑顔であり、或いは連盟所属の棋士を軒並みなぎ倒していく十兵衛をおらが村の英雄のように捉えてのかも知れない。
 職業棋士が在野の真剣師に敗れる――その重みに、無邪気な彼らは気付いていないのだ。


 陶器の割れる派手な音とともにびしゃりと、筒井家客間の障子を血飛沫が染めた。廊下を歩いていたお富が異常に気付き大慌てで男衆を呼び立てると、立ち入った客間では備えてあった伊万里の大皿が破片となって散らばり、その脇で二名の男即ち佐々木の弟子たちが顔を抑えてうずくまっている。
「このバカ共が、どうしてくれるか!」
 うずくまりながらも許しを請い続ける弟子たちをなおも足蹴にしながら、佐々木は怒りを隠そうとしない。やがて騒動は広まり、総司と連れ立って澤山も姿を見せた。
 香子は男衆の背に隠れるように様子を眺めていたが、この異常時に眉一つ動かさず貼りつけたような冷たい表情を崩さない澤山を見て、この男に常識が通用しないであろうことを、この男は目的の為ならば他者を害することを厭わないであろうことを悟った。あの日十兵衛を狙ったのは或いはこの男の差し金かも知れない。
「これ、これ、佐々木先生。どうされましたか」
 犬でもあやすような物言いは意図的なものだろうか、澤山はうずくまる二人の弟子など視界に入れることすらせず、冷めきった声色で言う。
「これは澤山社長、お見苦しい所を」
「こんな事をして何になりますか、全く無益だ。おやめなさい」
「しかしこやつらは、負けたのです。よりにもよって耳目を集める公開の場で、連盟棋士が真剣ふぜいに!」
 澤山は不機嫌を隠そうともしない、大きなため息をこれ見よがしについてみせると、
「あなたが勝てばよろしい」
佐々木を鋭く睨みながら、冷え切った、良く通る声で言った。
「聞けば東では西の連中は真剣にも勝てないと笑われているそうだね。そんな連中が棋士を名乗ったのでは出資してくださる方に申し訳が立たないと、旭日新聞さんと手を組んで言っているそうではないか」
「東の戯言など――」
「――戯言ではない!」
 怒鳴りつける澤山、すくんだのは佐々木。この構図こそ二人の力関係そのものであろう。
「我々は棋譜を買う為に君たちに金を出す。誰しもが知る名人の称号を管理し、新時代の実力主義を象徴する争奪戦を執り行うことで、その結果を読者に独占提供する権利を得る。そのことで他社ではなく我々の新聞を手に取る人間を増やす……お分かり頂けますね?」
 佐々木は肩を震わせて沈黙し、やがて静かに膝を畳むと、地に頭を擦り付けた。初老にもなろうという男が若輩に土下座をする構図のグロテスクさに、香子はそっと目を伏せる。
「佐々木さん、我々は貴方こそが名人にふさわしいと考えている。貴方を頂点とした関西将棋連盟こそが、日本の将棋の中心となるべきだと確信している。だから応援している。しかしこれは慈善事業ではない。これ以上の失態を重ねるなら、我々は将棋から手を引きます……在野の真剣師に負けた人間の棋譜など、金を払う価値は無いのです」
 札束で頬を叩かれた男は勝負師であるはずだった。地に伏した、犬のような名人がそこにいた。
「捨てられたくないのなら名人としての責任を取り給え……幸いにしてここには筒井さんという強力な応援もいる。貴方が勝ちさえすれば、それで良い」
 そう言うと澤山はしゃがみ込み、なおも頭を下げる佐々木の耳元で一言呟いてから場を去っていった。
 佐々木は一瞬青ざめたようにも見えたが、やがて無表情のままに立ち上がると、総司へ向けて、私が指そう、と言った。