先手が垂らした歩先に角を打ち馬作りを見せると、後手は2六への馬は作らせないという角打ち。8筋へ成る手は今度こそ5四歩を取られてしまうため先手は同角成、後手は同歩とすると左銀の活用が狭まるため同銀と引く。必然の進行が多いように思えるが、先手は5四歩を垂らした時点でこれに近しい図が見えていたのだろうか――寒さに震えることも忘れた勘太が盤に沈んでいると、ふと頭を叩かれた。
「何すんだ!」
 そう怒鳴り返すも相手は呆れた顔で御堂を指すばかり、勘太に観戦の順番が回ってきたということらしい。
「どうもアイツは、将棋が強くても周りのことが見えてねえ」
 陰口から逃れるように、勘太は足早に御堂へと向かう。

 御堂に揺らめく行燈の灯りは観衆の熱気と相まり燃え盛る炎のようだった。立ち合いとして、対局者と聴衆を隔てるように控える筒井の若衆は彫り物の像のように動かず、その向こうに座する二人はじっと盤を眺めながら、時折独り言のようにぼやくが、それは勘太には届かない。ただ僅かに口元が動いていると解るだけだ。
 御堂の奥深くに鎮座する明王が二人の盤を睥睨する。
 普段の盆と違い聴衆に会話は無い。ただただ、この光景に魅せられて、話すことを忘れてしまったのだろう。
 美しい。
 気が付けば勘太は局面のことなど忘れ、ただそればかりを思っていた。

              ※

十兵衛の背中越しに覗き込んだ盤面の意味は香子には解らない。どちらが優勢であるかも、あとどれくらいで勝負が終わるのかも、何一つとして解らないままに、十兵衛の背を眺めている。それは何もない時間だった。風に舞う桜の花弁を前にして動けなくなる時のような、そんな呆然とした感覚に似ていた。
「――我々と来い、十兵衛」
 独り言のように佐々木が言った。手元の扇子をいじりながら視線は盤に向けたまま動かさず、しかし声色は確かだった。
「お前の才は後世に残るべきものだ、つまらん野良将棋で消えて良いものではない」
 それが心底からの誘いか、それとも十兵衛を揺さぶる為だけのものなのか、香子には解らない。
「――その為に負けろと仰るか」
「お前では新聞社は金を出すまい、他の連中を食わせてやれん」
 十兵衛の表情は憤怒であろうか、嘲笑であろうか、それともいつもと変わらぬのものであろうか、その表情は伺えず、ただ静かな背中が見えるのみ。
 やがて十兵衛は静かに右の腕を駒台へ動かすと、二つの白い指先に駒を挟んで持ち上げた。その流れるような動作は、彼が行う他のどの動作よりも洗練されていた。
「私は、もう二度と、自分を殺したくないのです」
 ―― 先1八角 ――