二十(更新分)

 千代が女王戦番勝負に関する打ち合わせで千駄ヶ谷に訪れた、その帰り際のことだった。事務職員から調整が入っていた神座戦二次予選の手合が四月の下旬に決まったことを告げられた。女王戦の番勝負が本来予定されていた日付と重なったため、対局相手の木下元吉九段との調整をして貰っていたところだった。
「ありがとうございます、ご迷惑をおかけしました」
 千代が頭を下げると事務職員は恐縮したように勢いよく首を振る。
「いえ、立花先生には本当に無理をして頂いていますので」
 本来ならばこちらが頭を下げなければいけないと、その職員の表情が本当に申し訳なさそうになっていくことが却って辛い。
「本来ならばもっと早くお伝え出来る予定だったのですが」
「木下先生にも都合がありますから、仕方ありませんよ」
 目の前の関係を壊さない方便だった。木下が日程の調整を渋ったことなど自分に対する当てつけ以外の何物でもないと千代も察している。
 銀乃介との結婚発表以来、木下からの誘いはパタリと止んだ。島津銀乃介と木下元吉の対局成績は銀乃介の五戦五勝、対局数自体は少ないが圧倒的な成績だ。それらしき関係で止まっていた頃ならばいざ知らず、結婚したとなれば自分より成績が上の相手の妻に声を掛けようとは思えないのもこの世界では自然だ。
 ならばせめてこのくらいは、ということかも知れない。
「では、失礼します」
 頭を下げて事務室を出るとようやくほっとした。木下の件に関しては銀乃介も知らないはずだが、こうして助けられた以上一言くらいは礼を言っても良いのかも知れない。
「夕飯、たまには作ってあげるかな」
 不意に口を出た言葉がいかにも家庭の女のようで、千代はふと笑った。






 女王戦第三局は京都御所の飛香舎にて開催される。
 関係者は東京駅に集まってから現地入りする予定となっており、千代が集合場所に到着したのは時刻の十分前だったが、松永会長と付き添いの職員を除いた全員が既に待機していた。
 松永達の到着を待つ僅かな間だったが、意識することもなく滝川との距離が開いていたのは周囲がそう動いたからだろう。周囲のそうした気遣いを悟れる程度には、千代は余裕があった。
 本戦からの参加となった女王戦トーナメントでは、棋士として参加する立花千代・慈乃両名は半香の手合割、即ちハンディキャップを課せられることとなった。松永の鶴の一声で決められたという手合割はもしかすると女流への配慮でなく両名が負けた時の言い訳を与えてくれたものかも知れない。本来棋士と女流の棋力差は半香程度で埋まるはずがない。
 そうした状況下で千代は順調に勝ち進み、最も注意すべき相手であった二名の奨励会員も余裕を持って下した。残るは決勝番勝負のみ、相手は意図的に別山に配置された慈乃で決まりのはずだったが、想定外の事態は起こる。
 慈乃が準決勝で負けたのだ。圧倒的勝勢での七手詰の見落とし、みっともないと笑われそうな思い出王手に自分から詰まされに行くという、世紀に残る大頓死だった。
 終局後のインタビューで『気が抜けていました』と間抜けな笑いを晒しながら答えた妹は、当然と言うべきだろうか、片思い中の某男子高校生王竜位にマジギレで折檻され近頃とんと大人しくなったという余談もある。
 しかし千代は知っている。【慈乃に意図しない負けは存在し得ない】ことを。
 考えられるのは単純にやる気が無かったか、或いは、姉である自分と番勝負をしたくなかったかの二択だろう。ともあれ、決勝番勝負の場に勝ち上がってきたのは滝川女流二冠であり、こうして呉越同舟の仲となった訳だ。
 携帯をいじると銀乃介からメールが入っており、明日は現地に来るとあった。大盤解説かと尋ねると実家から呼ばれたのだという。島津家全員が関係者として現地に来るそうだ。余裕があれば局後に挨拶に行くつもりでいた方が良いだろう。
「遅れてすまなかったね」
 約束時刻と寸刻違わないタイミングで、調子の良い声を響かせた松永が到着した。会長である自分が早く行き過ぎるのも遅く行くのも良くないという配慮から、タイトル戦では恒例の光景らしい。
「では、京都観光へ参るとしましょうか。何せ御所なんて棋界初の栄誉だよ、大東亜製鉄さんにも、両対局者にも感謝、感謝、大感謝」
 松永を先頭に一行は新幹線に乗り込んだ。

 前日行事は府内博物館見学に始まり観光案内を兼ねての検分を経て前夜祭へと繋がった。新幹線を降りてからノンストップで展開する怒涛のような流れに番勝負が始まった当初は戸惑いも覚えたが三度目ともなれば慣れている、すべての行事をつつがなく終え、千代は早々に宿の自室へと引き上げていた。
 荷物の整理をしていると携帯電話の充電器を忘れたことに気が付き、フロントに借りに行く途中、廊下を歩いている時のことだった。
 御所にほど近いホテルの中庭には桜があった。立派に花をつけていたろうがもう見頃は過ぎてしまっている。儚い花の散り際は宙を舞い桜端のうつくしい敷物となって月明かりのもとで一面に広がっていく。
 目を奪われていると歩いてきた滝川とすれ違った。前夜祭の会場からはほぼ同時に出ていたのでどこかに寄っていたのだろう、言葉を交わすでも無いが交差の瞬間に会釈をすると滝川は気付かない風に去って行った。
 プライドを傷つけたかも知れないと千代は思った。前夜に会った相手にまるで意識せずに会釈をするのは余裕と受け取られたかも知れない。実際、千代が余裕を見せるだけの差が両者にはあると言ってよかった。
 女王戦五番勝負は棋士同士であれば平手で、棋士対女流棋士であれば香落ちで行われる本戦トーナメントと同じ手合のものだが、番勝負ならではの規則が一つ盛り込まれている。即ち【二番手直りによる指し込み制】の導入。三勝先取の五番勝負において、三局目までに片方が二連勝していた場合、第三局・第四局の手合割を見直すというものだ。
 棋士対女流で女流側が二連勝していれば第三・第四局は平手、棋士対棋士の場合は半香、そして棋士対女流で棋士側が二連勝した場合は角落ち。
 前代未聞のタイトル戦における角落ち番勝負は明日の立花千代五段対滝川圭子女流二冠の一局で現実のものとなる。
 滝川圭子は紛れもなく女流棋界の頂点だった。経験を積んだ奨励会員が一部の女流棋戦に出場するようになった今でこそタイトル戦での敗退もそれなりに見受けられるようにはなったが、対女流棋士に限ってみれば今でも圧倒的な成績を誇っている。そしてその滝川が角落ちに指し込まれたという事実は女流棋界を根本から揺るがすものだ。
 女流には花としての価値しか無い――少なくとも無責任な観客は大駒を落とされたタイトル戦の棋譜を見てそう受け止めるだろう。
 千代に迷いは無かった。がむしゃらに頂点を目指すことは確かに諦めたが、勝負を前に情けを浮かべる程に鈍ってはいない。対局に臨む以上最善を尽くし勝利する、それ以外の選択肢は無い。
 だが、それでも。今までに積み重ねたものが無価値であったことを突き付けられるあの痛みを、千代もまた身を以て知る絶対的な才能への絶望を、他ならぬ自らに対して滝川が感じているのだろうと思うと、無間地獄の途方も無い虚しさに襲われる。

『女王戦第三局観戦記 将棋報道記者連合会・幸田成行(読日)記
 さて、本棋戦の観戦記は七大タイトル棋戦主催新聞社に所属する記者の連合である我々【将記連】の回り番で担当させて頂いているが、今回の女王戦第三局は読日新聞社の幸田が担当させて頂くこととなった。
 まず初めに申し上げておきたいが、私は女王戦に関して複雑な思いを持っている。それはこの棋戦が、何より番勝負で採用された二番手直りによる指し込み制の採用が、敢えて直球な表現をすれば、スプラッタショーのようなものに感じられるからだ。現にこうしてタイトル戦の場での角落ちが現実のものとなってしまっている。
 そして率直に記せば、立花千代と滝川圭子の組み合わせが決まった時点でこうなることは見えていた。
 半香という手合割は、駒落ちという言葉がもたらすインパクトと比較して、実際の損得が非常に小さい。更に言えば全ての棋士は奨励会時代に例外なくこの手合割を本気で研究している。駒落ちとは言えども【本気で勝ちに行く時の棋士】にとってはハンデと呼べるものにならない、となれば地力の差から結果は明白だ。
 私は自らの考えに基づき、指し込み制の提案者である松永会長に本局前夜祭会場で取材を行った。
 そして松永会長はこの考えを肯定した。全くその通りである、と。
 ――何故そんなルールを提案したのですか?
「理由は興行的なものの他に二つある」
 ――具体的にお願いします。
「一つは、女流側が立花姉妹に対して示すべき誠意としてだ。奨励会を抜けた女性たちにぶら下がるんだ、この程度は最低限だろう」
 ――もう一つは?
「二つ目、会長としての本音ならこちらの方が圧倒的に大だな……私はね、今の女流棋界を壊したかったんだ。その為にも世間に女流の現実を知らしめる必要があった」
 衝撃的な言葉だった。しかし松永会長は真剣な目でそれを語った。
「立花千代が三段に昇段した頃から考えていたことだがね、女流制度はゼロから再編されなければならない。少なくとも、これまでと同じようにはしておけない。今のアレは本気で将棋を志している女性にとっては足枷にしかならん。
 この考えは間違っているだろうかと、女流の頭に、滝川本人に聞いたこともある。彼女は確かに頷いた、頷いた上でこの棋戦に臨んだ。
 立花慈乃との棋譜は当然君も見ただろう、あんなにみっともない王手をかける程に必死になって、彼女はここに這い上がった。滝川君の気迫が立花慈乃を負かしたんだ。彼女の真意を探るのにあの棋譜以上の言葉が必要かい?」
 ――つまり、滝川先生は敢えて斬られ役になる覚悟でこの番勝負に臨んでいると?
「あわよくば食ってやろうという考えがあったのかは解らない。が、相手との差に気付かないほど彼女も若くはないだろう」
 せめてその覚悟だけは汲んでやってくれと、去り際松永会長が私の肩を握ったその細腕には僅かな痛みすら覚える程の力が込められていた。【続】』

 食事を済ませた千代は慣れた和服を着込むと袴を着けてホテルを出た。対局開始よりもまだ一時間以上早い、八時前のことだ。それから御所をゆっくりと回るように散歩をして会場である飛香舎に入る頃には開始の二十分前になっていた。
 待ち構えていた山脈のような報道カメラに会釈をしてから上座に座り、目を閉じて滝川を待つ。
 ふと、鶯の声が聞こえたので瞼を開けて視界をやると、ほんの僅かな間もおかずに一斉にフラッシュが焚かれた。
 微笑むこともなく再び目を閉じる。一挙一動を監視されているようなこの状況にももう慣れた。
 浅井響という存在に加えて史上初の棋士同士の結婚があったばかりでの新棋戦、世論の関心は高かった。棋界の動向と併せて女王戦番勝負の結果は他のスポーツと同様の扱いで報道されるようになっている。主催の大東亜製鉄内部でも想像以上の宣伝効果だと言われているらしい、今後も末永い付き合いになるだろうとは前夜祭で挨拶をした銀乃介の弟の弁だ。
 対局五分前に姿を見せた滝川は心なし肌が蒼白く、表情が強張っているようにも見えた。盤を挟んで向き合うと千代は己の中に沸きそうになった憐憫の情に気付き、すぐにそれを戒めた。
 会釈をしてから駒箱を開け、盤上に零した駒から一枚の角を抜き取る。二本の指で挟む瞬間に、今日一番の、辺りが白むほどの光が溢れた。眩さの中滝川がその唇を噛み締めた刹那がファインダーに収まらなかったことを、せめてと千代は祈る。

『夕焼け時の温かな春風に藤の蔓が揺れている。本局の舞台である飛香舎はかの源氏物語は藤壺中宮の由来でもありその名の通り庭には見事な藤が植えられている。もう少し経てば見頃となるらしい、ゴールデンウィークの辺りがもっとも良いと言われているのでこれから予定を考える方は是非検討してみてはいかがだろうか。
 閑話休題。
 下手が中飛車に振る戦型となった本局だが、昼食休憩前の局面図は以下の通りだった。