決定的な詰めろの香を打ち詰みの手順を二度頭の中で繰り返した所で千代はようやく息を吐いた。
 読み抜けは無い。同金或いは同玉としてくるのなら自陣を唯一攻めている二枚の桂馬を一つ一つ払ってやれば良い、焦らずに一手一手追い込めば万に一つの逆転も無い局面まで追い込めている。
 ここまでくれば滝川とも読みは一致しているだろう、もはや終局までの一本道に入っている。コップに水を注ぎ喉を潤しながら、視線を向けると、滝川はそれまでの苦悶の表情が嘘のように、晴れやかな表情に変わっていた。
 盤越しに重なった視線の目じりが柔らかく緩んだのを見て、千代は滝川の意思を悟った。千代と同じようにゆったりとした手つきでコップに水を注ぐと一息に飲み干す。一手違いを作ることも出来ない局面、7二銀と打ち込んで下駄を預けた。
 千代は一息の間を開けてから3八香成。
 十数手のやり取りの後、アマチュアが見てもそれと解る局面を作り上げてから、滝川は静かに投了の意志を告げた。

『終局後の感想戦は両者ともに明るい表情ではきはきと行われた。これは珍しいことかも知れない。基本的に将棋の感想戦は勝者が疲れ切っていることが多い。敗れた側は敗北を悟った瞬間から頭を整えるが、勝者は相手が投了する時まで気を抜けないからだ。
 しかし本局にそれは無かった。終局後即座に始まった感想戦では滝川からの質問の一つ一つに立花は丁寧に、そして明瞭な声で言葉を返していった。その意味が一般の報道記者には伝わらないのだろう。女性らしい、華やかな感想戦だと表現するものもいた。私にはひどく惨たらしいことのように思われた。
 松永会長の目論見は間違いなく達成されただろう。女流の頂点と順位戦最下層の棋士が角落ちで対局しても一手違いにすらならない、この事実は徐々に一般の認識へと浸透していくはずだ。
 今までの女流棋界は間違いなく崩壊する。女流棋士たちは過酷な生存競争に投げ込まれ否応なしに自分たちの未来を選択する必要性に迫られる。本局はその第一歩だ。
 打ち上げの会場で私は滝川圭子に真意を尋ねることにした。本来であれば間を置くべきかも知れなかったが、それでは本局が持つ意味すらも薄れてしまう。もしも彼女がこれを本当に自らの意志で望んでいたのなら、せめてその意思を最大限汲むべきだと思った。
 取材を申し込むと、滝川は疲労をおくびにも見せず笑顔で受け入れてくれた。
 ――松永会長から女流制度の抜本的再編について相談されたと伺ったのですが、本当でしょうか?
「そうですね、具体的な話は何もありませんがそういう相談はありました。本当です」
 ――では、今回の女王戦の指し込み制に関しても納得されていたと?
「勿論、承知の上でした。まさかここまで負けてしまうとは思いませんでしたけど、でも全て納得した上でのことです」
 ――今回の結果で女流制度は今までより厳しい視線に晒されると思いますが、この点に関してはどうお考えでしょうか。
「仕方がない、というのが本音です。今までは世間が将棋に興味がなかった、女流棋士と棋士の違いについても一般の人はほとんど知らなかった、知らなかったから何も言われてこなかった、それが真実でしょうから」
 ――大変失礼ですが、滝川先生は自ら斬られ役としてこの舞台に上ったのですか?
「流石幸田君、とんでもないこと聞くわね」
 ――いや、だから詫びているでしょう。
 ちなみに、私の奨励会時代の師匠と滝川の師匠は兄弟弟子であり、私と滝川女流は所謂従姉弟の関係にある。一門会などでも何度も顔を合わせており、だからこそこうした非礼な質問も敢えてぶつけていると読者諸兄にはご理解願いたい。
「そうね、その通りよ。勿論勝ちたいとは思っていたけど、自分が棋士の先生とどこまで差があるのか、知りたかった」
 ――女流枠で公式戦にも出ていらっしゃるかと思いますが。
「そういうのはあるけど、あれは結局一発勝負だから、実力どうこうとはまた少し違う気もするし。本気の棋士の先生と番勝負するなんてまずあり得なかったから、だから今回は本当に嬉しかった」
 ――実際に棋士と指してみて、いかがでしたか?
「まるで違う、本当に突き放された感じ。奨励会の二人にもいいように負かされてるけど、四段以上の人は、立花先生は本当に次元が違うのね。番勝負を重ねるごとにまるで勝てる気がしなくなった。棋士ってこういう人種なんだなって、本当、空を見上げたって感じ」
 ――滝川先生の目指す女流再編とは、どのようなことなのでしょう。
「今までは、やっぱり女性で将棋を指す人の目標ってどうしても私になっちゃってたのよ。タイトルって派手だしね、それこそ四段や五段の棋士の先生よりも名前は売れてしまうし。
 だけど、立花先生たちが四段になって、奨励会の子たちが一部でも女流棋戦に出るようになって、女の子でも上を見られるんだってようやくみんな気づいてくれた。
 私はね、これから将棋をする女の子たちは女流なんかを目指しちゃだめだと思う。最終的に女流棋士になってくれるのは嬉しいけれど、初めからそれじゃあダメだと思う。それじゃあ結局、私程度で終わるんだもの。女の将棋のレベルはいつまでも低いままで、何も変われない」
 ――だから四段を、立花姉妹を目指せと?
「そういうこと。勿論、あの二人は何ていうか特別製だから、きっとあと十年は女性棋士なんて続けないと思うけれど、これからの子みんなが四段を目指せば、そうして奨励会を経験してから女流になってくれれば、きっと女性の将棋は強くなる。
 今、きっと女流の平均は奨励会の低級の子より弱いんだと思う。私のようにタイトルに出てくる女流でも瀬田さんや新山さんにまるで勝てない時点で、それが現実なんだと思う。
 けど、女の頂点が私じゃなくて立花先生に代わったら、みんなが四段を目指したら絶対に底は上がる。十年後には女流の平均だって奨励会の初段くらいは目指せるかも知れない。
 だからこの棋戦には本当に感謝しているの、悔しくて気が狂いそうだけど、誰かが恥をかかなきゃ前に進めないんだもの。斬られ役くらいいくらでも受ける覚悟よ」
 どうやら私は滝川圭子という女を甘く見ていたようだと、二十年近くの付き合いでようやく知った。彼女は紛れもなく女流棋界を背負って立ち、そしてその将来の為に自ら泥をかぶって欺瞞を暴いたのだ。
 偽りのドレスは要らない、誇り高きボロをまとえ。滝川は全ての女流にそう言っている。
 ――最後に、滝川先生の今後の目標を教えてください。
「角落ちで負けたんだもの、もう怖いものなんて無いわ。これからは一挑戦者として、私も立花先生の背中を追って少しでも強くなる。そうして頑張っていたら、きっと、いずれ女の名人だって出てくるから、その時に少しでも貢献したと思えるように頑張りたい」
 滝川と別れた後、立花女王にこの言葉を伝えると、立花は複雑そうに笑った。
 ――滝川さんからのバトンタッチ宣言について、率直なご感想をお願いします。
「私はそういうタイプではないので。滝川さんのように女性の為にどうこうなんて考えられないですし、自分が将棋を指すので精一杯ですよ」
 ――けれども、これからの女の子たちにとっては立花女王が目標になる。
「私を目指すのはそれこそ違います。もしも本当に四段を目指すなら、目標は竹中先生や小寺先生や六角先生、浅井響や島津銀乃介といった面子であるべきです」
 キッパリと言い切る立花には彼女なりの信念があるのだろう。
 しかしバトンは確かに渡された。立花千代の意思とは関わらず彼女は名実ともに紛れもない棋界の女王に即位したのだ。これは女性の将棋指しにとって大きな一歩である。
 今後、女性の奨励会員は今よりも珍しくなくなるだろう。そしてその中には立花千代を超える才能も出てくるだろう。その時まで、彼女は女王であり続けるのだ。【了】』

 深夜、ホテルに戻った千代が大浴場に向かうと先客が一名いた。気にせず服を脱ぎ捨てるようにして浴室に入るとそこにいたのはよりにもよって滝川圭子だった。
 気を遣おうにも既に素っ裸で浴室に入った後だ、今更出たのでは却って相手に気を遣わせるだろう。だがしかし、やはり勝者が後からやってきて敗者と同じ湯に浸かるというのはあまりに無神経な気もする。頭の中で堂々巡りをしていると滝川から声を掛けられた。
「お背中、流しましょうか?」
「……いえ、結構です」
 棒立ちしていることが恥ずかしくなり、千代はさっさと身体を洗うと距離を取って湯に浸かった。
 お風呂は好きだ。肩の辺りまで温かいお湯に浸かると体に溜まっていた悪いものがグッと押し出されていくようで一日の疲れが抜けていく。湯船に沈むようにして泡をぶくぶくとしていたらくすくすと笑われた。
「先生って、意外と可愛らしいですよね」
 またかと思う反面どうでも良い気もした。女流にはならないと誓ったのは既に過去、今の自分は結局結婚もして棋士としても落ち着いてしまった、ましてや対局を終えた相手である以上こだわるものは既に無い。
「若いので」
 若干の皮肉を込めて言ってやると滝川はやはり笑った。まともな返答が来ると思っていなかったのか、その表情は本当に嬉しそうだった。ざぶざぶとお湯をかき分けて千代の隣まで来るとまじまじと肌を覗き込む。
「肌お綺麗ですね、お幾つでしたっけ」
「今年で二十五になります」
「羨ましい。しかもその年で良い相手捕まえて結婚までしてるなんて、女の敵ですね」
「女流の方には嫌われていますから、もう慣れました」
 冗談のつもりで言ったが滝川は固まってしまった。そんなことありませんよと社交辞令でも返してくるだろうと思っていた千代の方が思わず狼狽えてしまう。
「……冗談のつもりだったのですが、そんなに嫌われていますか?」
 気になって思わず尋ねると、滝川はそっと目を逸らしながら、はい、と答えた。
「島津先生狙ってた子とかはそれこそ本当に昔から……あとは私とのトイレの件で年上の方からも……あとは女流の事見下してるからって……これは本当に割とみんなが」
 こうまで細かに説明されると憤慨よりも却って脱力してしまう。湯船に沈み込むようにしながら、
「なら、滝川先生にも嫌われていますよね」
千代は半ばやけくその発言だった。
 答えを待っていると、突然滝川が抱き着いてきた。裸の女に抱き着かれてギョッとする間もなく言葉が続く。
「私は先生のファンです、本当に」
「……え?」
「奨励会で頑張っている頃からずっと見ていました。お人形みたいに可愛くて、けど少し生意気で、けど凄く、気が遠くなるほどに強くて。本当に、先生のこと大好きなんです」
 この女は何を言い出すのだろうかと千代は思った。しかし滝川の言葉は止まらない。
「絶対に女流なんてならないって公言して、それで本当に四段になった。憧れています」
 鼻息を荒くして語る滝川の顔が近付いてくる。美形だが同性だ。距離を取ろうとすると背に回された腕には結構力が入っていて抜けられない。ほんの僅かに、身の危険を感じるシチュエーションだ。
「あの、滝川さん、少し離れてください。本当に、近いので」
 そう言うと、滝川はようやく己の状況に気が付いたらしい、ハッとしたように背に回された腕の力が緩まった。その一瞬で手を外しほんのわずかに距離を取る。そういう意図はあるまいがそういう趣味は千代には無い。
「あの時も、トイレの時も……初めて先生の弱い所を見せて貰えた気がして、だから嬉しくなってしまって。だからあんな失礼なことを」
「いえ……あれは、八つ当たりだったんです。本当にすみませんでした」
 色々と首をひねりたくなるような言葉であるような気もしたが、勢い過去の謝罪も出来たので良しにしよう。千代は深く考える事を止めていた。考えれば恐ろしい事実に気付いてしまいそうな気がしたからだ。
 滝川はふと微笑むと、手を組んで上に伸びをしながら、
「立花先生は一切女流棋戦に出てこなかったでしょう」
そんな事を言った。
 現在女性奨励会員も参加できる女流棋戦は二つだが、そのうちの一つ女流名華戦は千代が奨励会の二段だった当時に新棋戦としてスタートしたものだ。当時から女性では破格の存在であり或いは女性初四段も狙えると噂されていた千代には異例とも言える連盟上層部からの参加指示も出されていた、更に言えば名華戦という棋戦自体が千代の存在を念頭に成立した棋戦に違いなかったが、千代は本人の意思として参加を固辞、最終的には師匠の結城まで巻き込んで一門総出で連盟執行部に喧嘩を売った過去もある。あの時は凄かった、結城やプロの兄弟子達が頭にハチマキ片手にバットで会長室に殴り込みをかけ警察沙汰もあわやとなった程だ。
 結果立花姉妹は名華戦に参加せず、奨励会員として参加したのは当時級位者だった瀬田や新山を含む三名ほど、その中で初代名華の称号を獲得したのは滝川圭子だった。
「あの時はご迷惑をおかけしました」
「そんな社交辞令は良いんです。でも、どうしてかなとずっと思っていて。賞金も出るし、経験も積めるし、悪くないはずでしょう?」
 首を傾げながら言う滝川を見て思い出話としてなら話せるかも知れないと思うと、口を出る言葉は軽やかに紡がれた。
「迷いが出ると思って」
「迷い?」
「女流の道を選べば自分は今後数十年負けない存在になると思っていました」
「素直ですね。いえ、その通りです」
「だから……そうすれば生きていけてしまうから、それを知ることが怖かったんです」
 語るうちに思考が整理され、ようやく過去の自分が抱えていたものが見えてくる。
「奨励会の人間は、みんな負ければ明日が無い環境でした。有段者になると、他の生き方を見つけるには遅すぎる人も大勢いた。だから、あそこでやっていたのは、本当の意味での生存闘争だったと思うんです。相手を殺さないと自分の明日が消えてしまうから、生き残る為の将棋を指して、勝って相手を蹴落とした。
 私は、才能が無い平凡な人間だから、努力するしかありませんでした。私よりも才能がある人たちがみんなそうしていたから、私も全てを賭けなければ生き残れない、【女流という保険】を知ったら、きっと私は折れてしまう……そう思ったんです」
 滝川に話しているうちに、ひどく心が落ち着いていった。十年以上抱え込んでいた自分の弱さを、それによって迷惑をかけていた人間にようやく懺悔が出来る事への安堵だったのかも知れない。
「弱いんですよ、私は。他に生きる道があるなら、それを知っても奨励会でやっていけると思えなかった。女流にならないと放言していたこともそうです、命を賭けている実感が無いと、自分のことを後がない崖際に追い詰めていないと、きっと将棋が弱くなった」
 言い終えてから滝川に向き直りその瞳をまっすぐに見据える。仲良くしたい訳ではないが自らの責任はきちんと清算しなければならない。
「だから、本当にすみませんでした。女流という制度も、女流の皆さんも、何も悪くないんです。単純に私が弱かったから、私の弱さが皆さんにご迷惑をおかけしました」
 姿勢を正して頭を下げると、一つ、二つ、三つ、間を置いても滝川は何も話さなかった。ただ、呆然としたように千代を眺めている。
 伝わらなかったのだろうかと千代は思ったが、それならばそれでも良いと思った。ようやく自分の弱さに向き合えた、そして清算された過去に肩が軽くなっていった。
 やがて、肌がほんのりと赤く染まる程に長湯をしていると滝川は口を開いた。たどたどしいと表現するのが適切であるような口調だった。
「それは、それが正解かどうかは解りませんけど……きっと、その決断をしたから、先生は四段になったのだろうと、そう思います」
 それからは言葉も消え二人で湯船に浸かっていた。

「一つ、教えて頂けますか」
 湯船から上がろうとした千代に背後から滝川の声がかかった。振り向くと千代に視線は向いていない、明後日の方を眺めながら声だけ出している。向けられないのかも知れないと思った、その様はどこか怯えているようでもあった。
「今日、角落ちでしたが、適正だと先生は思いましたか?」
 聞かれて答えに窮したのが事実、そしてそれが何よりの回答だったろう。しかし言葉で返さなければならない。何より滝川は真実を求めているのだから、おためごかしで逃げる訳にはいかなかった。
「本気で指すなら飛車落ちで五分の勝ち負け、それが正直な感想です」
 言い切ると滝川はそっかあと呟き、バシャンと音を立てて浴槽に顔を突っ込んだ。涙が溢れてしまったのだろう。
 そうして一分ほども潜っていただろうか、顔を上げた滝川は何もなかったように平然とした表情で千代を見ている。
「将棋、やめたくなりました?」
「まっさかあ、全然」
 それでもなお、滝川は満面の笑顔でそう答えてみせる。
 強いな、千代はそう思った。