「これで先手の入玉は消えました、同成佳に8三銀と打つくらいで押さえ付けられます」
 大盤に駒を置いて見せれば、守り駒の無い先手が徐々に押し返されていく未来が級位者にもはっきりと見える局面だ。入玉のみを僅かな希望として指してきた先手にしてみれば積み重ねてきた全てが泡と消えたようですらある。
【投了か】
 雑多なコメントにその一言が現れると視聴者たちは一斉に先手の投了を囁き始めた。今までよく頑張った、もう少し何とかならなかったのか、解説が面白かったから一日楽しめた……等々、勝手に幕が下りたものと判断し始めている。
 響は隠しようもない溜息を吐いた。視聴者に呆れたのではない、プロの視点からしてもそう判断するのが当然の局面であるとも言える。
 これが立花千代の将棋で無ければ、の話だが。
「これで終われば俺も楽なんですけどね……取りあえず、対局者の姿勢を見て下さい」
 自身の視線も対局室のモニターに向けながら響が言うと、放送の画面が対局室の映像に切り替わる。そこにはやや前のめりになり盤に沈む木下と、対局開始以来一つとして揺るがない千代の姿があった。この局面にして、変わらずに天へ一直線に伸びた背筋は彫像のように崩れないまま、柔らかな表情を携えて、静かに佇んでいる。
 数秒の間があったろうか。無言の空間の中で【怖い】というコメントが流れた。
 そう、怖い。気付いてしまえば怖い。ましてや対局相手であれば尚更のことだ、木下は千代の事を幾度も伺っていた、であればその佇まいも当然記憶に焼き付いてしまっている。
 モニターに流れるコメントの勢いは落ちたがそれは視聴者が関心を失ったからではない、見てしまった対局者の姿に息を飲んだからだ。執念などという言葉を使わずとも、気付いてしまえばその姿勢には明確な意図が込められていることを誰しもが察する。
 ふと、響はスタジオの入り口でこちらを眺めている銀乃介の姿に気が付いた。上の手が空いたのだろう、様子を見に来た対局者の夫を手招きするとカメラの前に引っ張り出してやる。
「視聴者の皆さんに対局者の旦那から一言あるそうです」
 投げ槍になりながら水を向けると銀乃介は
「今のうちに風呂入っとけ、今日は長いぞ」
そう言った。


 夕食休憩が明けても先手が良くなる変化はまるで見えない。一時は五段目まで進出していた先手玉も既に二段目まで押さえ付けられ、ただただ嬲られるように追い回されている。
 だが、対局室の映像を見ることが出来る視聴者達は既に理解していた。この勝負はまだまだ終わらないことを、勝敗が盤面ではなく対局者同士の精神の潰し合いによって決せられるものとなったことを、まるで揺るがない立花千代の姿から理解した。
「じゃあお便り読みます」
 放送への慣れも出てきた響がメールを手に持ちながら言った。慈乃は銀乃介と交代して今は休憩している。
「浅井王竜・島津八段こんばんは。――こんばんは。
 以前王竜戦の観戦記を読んでいた時、浅井王竜が元は居飛車党であったことや島津八段にいじめられて飛車を振るようになったことが書かれていましたがこれは本当でしょうか。
 また、先生たちと立花千代・慈乃両先生は奨励会の頃から研究会を続けているというお話を伺いました。そちらでの面白いエピソード等あればお教えください……だとさ」
「四間穴熊の話は本当だろ?」
「そうだな、本当ですよ。お前穴熊嫌いだから、コッチが穴熊組めば堅さ勝ち出来るし」
「最近指してねえじゃん」
「機会が無いんだよ。相居飛車でも勝てるし、これからは裏芸で使う程度かな……ってか何で銀は対振りで穴熊やらないの? そっちの方が俺は疑問なんだけど」
「バランス悪いから好きじゃねえんだよ」
「マジでそんだけ?」
「ああ」
「馬鹿だな」
「勝ってんだからそれで良いんだよ」
 互いに家で駄弁るのと変わらない感覚で、椅子に座りながらスタッフが用意してくれたアタリメをしゃぶりながら会話を続ける。こんな仕事をしていいものかと迷う部分も当初はあったが視聴者たちがそうしろと言うのだから仕方がない。いかんせん長期戦である。
「で、研究会の話は?」
「昔からだからな。意識したことも無いけど、そもそもアレって研究会なのか?」
「他の人の話聞いてると違う気もするな、自分の家みたいなもんだし」
「俺はそもそも千代がきっかけでこの世界入ったし、それからは何のかんの家にも行ってたけど、お前は例会の後で声かけたんだっけ」
「そうだよ。確か小五の時、当時三段のお前にボコられた」
「もう七年近く前か。早いもんだな」
 遠い目をする銀乃介にジジ臭さを感じながら、ふいに響はカメラの方を向くと『エピソード話して』とカンペが出されていた。気を取り返しながら話題を修正する。
「で、銀は覚えてるエピソードは何かある?」
「んなもんねーよ……見てる人からすると普通に家で暮らしてるようなもんだから、特別な事は何も無いとしか言えん」
「だよな。強いて言うなら四人兄弟で全員が奨励会に入ってたから、練習相手にとっかえひっかえ将棋指してたみたいな、そんな感じです」
「あと、指定局面の研究とかはあんまやらないよな」
「確かに大体VSやってる感じだな。でも俺は千代とは局面もやってるぞ、あと考えたのを慈乃に試したりもする」
「下らねえな」
「お前はそう言うだろうからあんまり誘わない」
「そうしてくれ」
「という感じなので、一般的な研究会とはかなり違います。一般的には研究会って敢えて集まって局面弄るのがメインでしょうから、こっちは家で将棋指してるだけなんで」
 これ以上続けても面白い話題も無いだろうと、響がメールをめくろうとすると、不意に銀乃介が口を開いた。
「奨励会の頃、アイツは正座の練習してたな」
 バカ話をするような雰囲気だった。語る声からも笑いが漏れている。
「は?」
「千代だよ、奨励会の頃に正座の練習してた。一日中、何するときもずっと正座して過ごしてた時期があった……中三の頃だったか、お前と会う前の話だけど」
 対局室の映像が映るモニターを眺めながら銀乃介は言う。
「それからだよ、アイツの対局姿勢がああなったのは。最近は割と崩れたりもしてたけど、今日は久々にいい女じゃねえか」
「ノロケかよ」
 からかい交じりに言ってから次のメールを探そうと文面を舐めていると、真剣な声色の銀乃介はなおも言葉を続けた。
「俺とかお前はあんまり苦労してねえけど、アイツは十年以上かけて、本当に階段を一つ一つよじ登ってたからな。見てるとその時々で変なことも色々してた。元々、こんな粘りするタイプじゃなかったよ。筋が良い教科書通りの、優等生の将棋を指す人間だった」
 勝つ為にあらゆる方法を模索し、自らの血に、そして相手の返り血に溺れながら、蟲毒の中で付けられた数えきれない傷跡はやがて不倒の精神を形成する。
「勝つ為に、這い上がる為に、歯を食いしばって自分から泥被って来た人間だから指せる……俺やお前じゃ到底指せない、これはアイツの、泥被り姫の将棋だよ」
「泥被り?」
「奨励会の頃に記者のオッサンがアイツにつけた仇名だ。表向きはまるで流行らなかったけど裏じゃみんなそう呼んだ。立花は絶対に粘らすなって、当時の有段者の共通認識だ」
 随分と嬉しそうに語ると響は思った。からかいではなくこれではノロケだ。
 流れていくコメントに【元はシンデレラ?】とあり、それを見た響もようやく気付く。
「ああ、灰被りか」
 灰被りの魔法が十二時で解けてしまうのだとしたら、泥被りの魔法はどうなのか。
「今、何時だ?」
 銀乃介の呟きにふと時計に視線が行く。恐らくは視聴者も、二十万人近い人間が一斉に手元の時計を見た瞬間だろう。
 時刻は既に十時三十分を回った。
「時間も減って、木下さんもそろそろ効いてくる頃合だ」
 圧倒的に有利な盤面で勝ちを読み切ろうとする木下は盤に沈みながらその身体を一定のリズムで振っている。勝利を確信しているようにも見えるが、その根底にあるのは焦りだろうと見る人間には解ってしまう変化だ。一方の女王は穏やかに、十時間以上変わらない姿のまま佇んでいる。その心情を伺うことは決して出来ない。

 木下の持ち時間が二十分を切ると本格的にコメントがざわめき始めた。盤面は圧倒的に後手の優勢であるにも関わらず先手が逆転したかのような雰囲気に支配されている。千代は残り五十分近く残しており、更に言えば暫くは相手に対応する時間が続く。持ち時間を消費して【攻め手を考えなければならない】のは木下なのだ。
 映し出される対局室の映像を見れば、落ち着きなく首を振る木下に対し、なおも揺るがない千代がいる。その対照的な構図からも局面に表れない優劣で既に逆転が起こっていることは一目瞭然だった。
 眉間に深い皺を寄せた木下が小さくかぶりを振って盤上に手を伸ばす――1九角成。
 千代は音も無く飛車を置く――7二飛。
 唇を噛み締めながら、木下は馬を当てる――7三馬。
 吹き曝しの自玉にまるで不安を感じていないような穏やかな手つきで――7一飛成。
「これは、ひどいな」
 一連の応酬を見ていた響から、思わず飾らない言葉が漏れた。
「普通は玉逃がすか馬取るかだろ」