二十五

 名人戦第四局観戦記 観戦記者・明野山脈記
『名人戦の歴史は六角源太と共にある。
 今期名人戦を語る文章であるにも関わらず現名人の頭越しにそのような表現を用いる事に些かの抵抗を感じないわけではないが、否定する人間はいまい。むしろ多くの愛好家はそれが明言されることに安堵を覚えるのではないか。
 六角源太現棋天位が初めて名人戦の舞台に登場したのは今から半世紀も昔の事になるが、以降通算で四十四期登場しうち二十九度獲得というのだから改めて数字にしてみると感嘆の念を覚えずにはいられない。
 二階堂秀行二十一世名人を主に相手とした二十年ほどの期間を皮切りに、その後は松永連盟会長や結城九段といった新人類世代を相手とした十年が続き、現代研究将棋の先駆けとなったことで知られるロクマル組との十年を経て、竹中重治現名人位を筆頭とした現代最前線の棋士達に至る――六角源太と名人戦の記録は即ち棋界の歴史に他ならない。
 さて、今期名人戦はいずれも熱局となっているがその結果は竹中現名人にとって厳しく、第四局となる本局を前にしてカド番を背負うこととなった。
 戦型は名人戦らしく全局相居飛車の将棋となり矢倉・横歩取り・角換わりと来ているが、いずれも挑戦者が圧倒する内容であった。殊に第三局の角換わりについては竹中も万全を期した内容であったろう。竹中が用意した局面は詳細な後日検討の結果も先手が指し易い局面とされているが、六角はその深山幽谷を覆う霞のような手順によって見事に体を入れ換えてみせた。この第三局の先手番を落としたことは竹中にとって痛恨事であったと思われる。
 本局の戦型は相掛かりからの先手棒銀の形となった。
 竹中の先手相掛かりと言うと直近では浅井現王竜を挑戦者に迎えた昨年の王竜戦第三局を思い起こす。両者の力を真っ向切ってぶつけ合った、文字通りの死闘でありまた名局であったが、同時に竹中からしてみれば失冠という憂き目に繋がった負の起点とも言える。
 しかしこの大一番で再び採用したということはそれだけ自信があるのであろう。対する六角も堂々と8四歩と決めて応じた。追い込まれた側が最後に託すのは当然最上の信頼を置く戦型であろうが、相手を知りてなお避けず己の力を誇示するが如く受けて立つ、実に名人戦に相応しい開幕の応酬と言えた。
【名人戦の六角源太は必ず二手目8四歩を指す】
 これは棋界の常識と言っても良い共通認識であり、控室の一同は開幕のやり取りを当然のように受け止めていた。初手2六歩であれば相掛かりか角換わり、初手7六歩であれば矢倉か角換わり。相手に戦型を選ばせる本当の意味での二手目8四歩である。
 数字で示せば更に解り易い。これまでに六角が登場した名人戦は全二百四十七局、うち後手番は百二十六局あり、その中で二手目8四歩は実に百十一局となる。振り飛車を指すことは絶無である。六角の振り飛車は裏芸の代名詞とも言えるほどであり、他の棋戦ではむしろ振り飛車八割と言っても良いものであるが、名人戦で最後に六角が飛車を振ったのは実に二十年も前に遡る。
 ――名人戦以外は棋界の金と政治の為に存在しているに過ぎない。
 かつて六角はそのように発言した。実際に数字が示しているように、他の棋戦と名人戦をあからさまに差を付けている事もあり、棋界内部でも相当な批判を浴びた。
 しかし六角はその姿勢を改めようとしなかった。批判を黙らせるかの如く棋界の頂点で勝ち続けた。
 それだけの情熱を名人という称号にかけている男が選択肢を相手に委ねる二手目8四歩に拘るのは妙にも思えるが、初日朝の控室で8四歩を見た松永連盟会長はこう語った。
 ――名人を名乗りたい訳ではないのですよ、あの方は。だから勝ち方にも拘らなければならない。そうでなければ勝ちも負けも等しく無価値な物になると考えている。
 また、二階堂秀行二十一世名人は十余年前の名人戦で六角の8四歩をこう評している。
 ――一度として自身を名人だと思ったことなど無いのだ。己を試している、自らがその器足り得るかを愚直なまでに問い続けている。あれはそういう男だ。
(続)』

「島津八段としては本局は竹中名人に勝ってほしいのではないですか?」
 聞き手の田口女流から朗らかに問われたが、銀乃介には意図がつかめなかった。
「何でです?」
 大盤解説と言ってもまだ初日、進む手の進行自体にもそれほど急激な変化は無く穏やかな手順解説をしているところだった。雑談交じりに本シリーズにおける竹中の苦戦が話題になったのだが、そうしているところで飛んできたのがその問いだ。
 竹中に勝って欲しい理由など何かあったろうかと頭の中を探っていると、
「シリーズ、長く続いて欲しいでしょう?」
そう言葉が続いた。
「まあ、そうですかね」
 敢えて口にする程の期待を持っている訳では無いが、ファンの事を考えればストレートであっさり決まるよりは熱戦になった方が良いのだろう。その程度の感覚で肯定する。
「やっぱり。棋天戦も近付いてますからね、竹中名人に頑張ってもらわないと」
 ニコニコと語る田口女流は本人曰く銀乃介のファンらしい。居飛車党なのかと尋ねると振り飛車メインだと返されて、その点も銀乃介には解らない。どうもサッパリ波長が合わない。
「いや、棋天のこと考えたらさっさと終わって欲しいっすけど」
「え、何でですか?」
 一事が万事この調子だ。
「六角先生も年だしさ、少しでも休んで貰わないと。良い将棋指したいし」
「はあ」
「まさかぶっ倒れる事は無いだろうけど……とか言ってっとまたあとで説教食らうんだな、これが」
 客席に向けてジョークを飛ばすと常連組は慣れたもので、良いぞーとか、それでこそ! とか威勢のいい声を返してくれる。いっそお前らが聞き手をやってくれないか、と心中で呟きたくなるような有難さだ。
「俺にとっちゃあ記念すべき初タイトルになる訳だし、やっぱ良い棋譜残したいからさ」
「なるほど……やっぱり先生格好良いです!」
 と、月並みな事を語ったつもりが今度は異常に食い付きが良い。田口女流のツボが今一どころかサッパリ掴めない。
「タイトルを獲るよりも良い棋譜を残す、やっぱり棋士はそういう考えが出来なきゃダメなんですね」
 どうにもやはり通じていない。――自分が初めてタイトルを奪取する棋譜はどうせなら良い物を残したい――ただそれだけの意味なのだが、何故伝わらないのだろう。
 下らない事で頭を抱えてしまいそうになるのを避け盤面を眺める。
 先手が銀を繰り出して後手の応手を尋ねる現局面、素直に3三銀と上がって壁銀を解消しながら受けるか、攻め味を見せつつ受けるのならば飛車の横効きを通すことも見据えて7筋の歩突きか、どちらにしても一局だろう。まだ初日であり暫くはそうした局面が続くはず――と、ごくごく短い時間でそう結論が出てしまうから困るのだ。実戦なら後の変化を含めてもう少し気合を入れて読むのだが解説が沈黙してしまう訳にもいかない。
「この将棋、田口さんならここからどう作ります?」
 半ば破れかぶれで話を振ってみた、振り飛車党だと自称している相手に相掛かりをどう作るかと聞くのは気が引けていたので今日初めての質問だった。
「え、先手ですか? 後手ですか?」
「竹中先生持ちなら先手で良いですよ、言ってくれれば私が後手持ちますので。取り敢えず後手が3三銀と上がったとして」
「それなら右銀を立て直したいので5六に引きます、遊んじゃいそうですし」
「なるほど、そしたら後手は7五歩」
「うーん……えーっと……それなら、6六歩?」
「へえ、ほうほう」
 田口は躊躇いがちに示した指し手だったが、その一言が銀乃介の心を楽にした。何だよちゃんと指せるじゃないか、という具合だ。
「あ、やっぱり変ですかね。普通に同歩なんでしょうか?」
「いやいや、変じゃない。例えばこのまま後手7六歩に同銀として7五歩とされたら?」
「それは6五歩とするのかなあと。居飛車を公式将棋で指したことないので自信無いんですけど、やっぱ変ですかね?」
「その心は?」
「後手のコビンに迫ってるし、先手の方が強いような気がしたので」
「そう、だから6六歩は変じゃない、良い手ってこと。田口さん飛車振らなくても良いんじゃないっすか、勿体ない」
 覇気を感じない、いかにも女性的な振る舞いを見せられていたから同じ将棋指しであることを忘れていたのかも知れない。将棋の話が出来るなら悩む必要など無い。
「無理ですよ、勉強してはいますけど」
「研究会では指すんだ?」
「一門研の時とかに、相居飛車は本当にお話にならないなって痛感しました。奨励会の子に教えて貰う時も全く勝てないですから」
「そういうもんですか、やりたきゃ指せば良いのに」
 一度普通に話せると口は一気に軽くなっていた。田口は困り笑いを隠さなかったが客席にはウケている。
「私一度島津先生に聞いてみたかったんですけど、飛車振ったことってあるんですか?」
「あー、無いっす。勝負将棋で指したのは奨励会の香落ちが最後かな」
「公式戦で振ったこと無いっていうのは有名ですし私も聞いたことあるんですけど、練習将棋とかでも全く?」
「指導で落とす時とかはまあ振るし、酒飲みながら遊ぶ程度では振るけど、練習で振る事もまず無いっすね」
「でも相手の立場で考えるのも勉強になるとか、言いません?」
「試した事はあるンすけど、サッパリ役に立たなかったんですわ。そもそも飛車振る理由が解らない人間が飛車振ってもロクな手見えないって話っす」
「飛車を振る……理由?」
 トントン弾んでいたはずの話題だったが、田口が怪訝な表情を見せた。銀乃介としても、そこで突っかかるんかい、と突っ込みを入れたいところだったが堪えて、
「ほら、駒の初期配置って角と飛車の効きが一点に向いてるじゃないですか」
続けて説明すると、今度は目を丸くして驚いている。
「え、初期配置の話になるんですか?」
「駒の効きを増やして攻めるってのが将棋の基本なんだから、わざわざ序盤の一手でその効きを他所にズラすってのが解らないんだ、俺には」
「はあ……でも、駒は動きますし」
「いや、それなら飛車じゃなくて歩とか銀を進める方に手をかけるべきでしょ?」
「飛車を振った方が勝ち易いとか、あるじゃないですか」
「へ? 普通に居飛車の方が勝ち易いでしょ?」
 何で解らないのだろうと思いながら眺めたら、どうしようかと本当に困っている田口の表情が可哀そうだったので、これ以上はやめにした。
 お互いに仕方なくなって視線を合わせて苦笑する。
 やっぱり田口さんとは合わねえやと再認識したその時、六角は7五歩を指した。


 大盤会場を交代する時間になり控室へ向かうと見慣れた面子が揃っていた。初日にしてはやや多いだろうか、やはり名人戦ともなると棋士の間での注目度も高い。動画サイトの解説は小寺が担当しているらしくその姿は見えないが、A級の他のメンツが揃い踏みしている控室というのはタイトル戦と言えどもそうあるものでは無い。
「お、居飛車星で生まれた居飛車マンじゃん」
 訳の解らない挨拶で声をかけてきたのは振り飛車の神とも言われる深田九段。ここ数年は居飛車も多少混ざるようになったが、一時は四間飛車のみでタイトルを奪取したという棋界でも珍しい人種だった。雑に手招きして継盤の向かいに座るよう促してくる。
「聞いてたンすか?」
「そりゃ聞くよ、一応田口さんの兄弟子だからね」
「そうでしたっけ」
 銀乃介にしてみれば深田という男は嫌いでなかった。年も二十近く上となればライバルのような意識は殆ど無いし指す将棋も面白い、幅広く研究会をやっている男だが、学者肌の気質故か若手のようなグループ感覚ともどこか縁遠い。要は、付き合うのに面倒臭さが無いのである。
「振り飛車はね、私のような一般人がゴリラを倒す為に編み出した飛び道具なんだ。解るかなあ、これ」
「ゴリラって将棋指すんですか?」
「君は文学的センスに欠けるなあ、比喩だよ比喩。居飛車のことに決まってるだろ」
「いや、わかんねっす」
「振り飛車は人類が編み出した技術なんだ。君みたいな才能お化けのゴリラ野郎が振るう暴力に対抗する為の武器なんだ。どうだい、こういうと偉大な発明みたいだろ」
「そういうのめんどくせえし、勝てるならステゴロで良いじゃないっすか」
「今物凄いゴリラ的思考回路してた。そう、居飛車って基本そういう人種、知的な人間は勝つ為に飛車を振るんだよなあ」
 無茶苦茶な説明ではあるが、少なくとも田口との会話よりは解り易いような気がする。
「で、居飛車星人的には次どうすると思う?」
「後手は普通に壁銀解消するでしょ。先手は5六銀と引いた時点でじっくり指したいんでしょうし、それこそ6六歩かと」
「さっき廣澤さんが後手持って5四角打ってたよ」
「7五歩突いて取ってですか。一目無理ですけど、何かあるんすか?」
「無い無い、初日の手遊び」
 駄弁りながら、対局室を映すモニターを横目に駒を動かしつつ茶をすする。
 控室を見渡しても継盤を弄っているのは銀乃介と深田くらいなもので他の人間は世間話をしたりこの辺りの観光マップを広げたり、初日の呑気な雰囲気そのものだ。
「さっきの話だけどさ」
「ゴリラと飛び道具?」
「そうだけどそうじゃない、居飛車と振り飛車の話……峯島君が怒ってたからさ、来期の順位戦は島津に絶対負けないって、凄い剣幕だった」
 峯島はタイトルの一つである赤兎位を有するA級棋士、無論振り飛車党である。深田の理論的な振り飛車とは異なる芸術的な捌きをウリにしており、その見栄えのする棋風から熱心なファンも人一倍多い。
「あの人も大概面倒臭いメンタルなンすよね……で、深田先生は怒ってないの?」
「私は振り党だけど、君の発言はそれなりに正論だと思うタイプだからね」
「それもそれで変わってますね」
「君に言われたかないよ。ま、峯島君が飛車振るのは君が8四歩突くのと同じようなものだし気持ちは理解してあげなさい」
「俺は別にこだわってる訳じゃないっすよ」
「ならたまには振りなよ」
「いや、でもやっぱ飛車振るのは無駄手っす」
 ハハハと笑いながら軽い調子で返すと、目の前の深田は深い溜息と共に頭を抱えて、
「君、峯島君の前では喋らない方が良いよ」
そうぼやいた。どうやら峯島の怒り方はかなりのものだったらしい。宥めるのに苦労したのだろう。

『――初日の終局時刻も近付き控室ではもう指さないのではと囁かれ始めていたが、方針が明確になった分だけ進め易かったのであろうか、互いの指し手が暗黙の了解であるかのように、封じ手前の三十分足らずで六手ほど一気に進んだ。
 棒銀に出た銀が大旋回して銀矢倉に収まった先手に対し、後手陣は発展性にはとぼしい中住まいであるが、その分の手数で左右の銀桂を総動員して攻めの力を溜めている。明日は後手の攻めを先手が受ける将棋になるという見方で控室の意見は一致しており、中でも居飛車の専門家である島津八段は本局を先手が厚いと見た。曰く、後手は上部を開かれて入玉される点も警戒する必要があり、どこかで攻めを焦らされる展開になる可能性もあるという見立てだ。いずれにせよ本局の主導権は先手が握ったと島津八段は語る。
 ――攻守どちらも先手の誘導が利きやすい、後手は辛抱する展開になるのではないか。
 まだ大勢は不明であるという前提があるにせよ、この島津の意見は控室の見方を端的に表していると言ってよかった。(続)』

 地元の棋士からリサーチしておいた居酒屋で軽く一杯引っかけようかと銀乃介が深田に持ちかけたところ他に数名の検討組が名乗りを上げ、それに情報欲しさの記者が混じると二桁近い人数になる。この人数で押しかけて大丈夫だろうかという不安もあったが、店に行ってしまえばどうにかこうにか奥座敷に収まった。
 取りあえずの生を終えて冷に進むと、酔いの回りが良すぎたのだろうか、深田は何故かゴリラの生態について語り始めた。銀乃介が飽きれながら付き合っていると、
「深田さん、少し島津君を借りても良いかな」
助け舟を出すようにして隣に座りこんだのは記者の明野だった。棋界における名物記者の一人であり、銀乃介にしてみれば父親より年上の相手だが、奨励会の頃から何かと声をかけてくれる知人には違いない。
「深田さんの酒は愉快で良いが、私も島津君に聞いておきたい事があるんだ」
 話をぶった切られた深田は苦笑しながら、しかし素直に他の相手を探しに行った。現役A級のトッププロを相手にこのような物言いが出来る記者は明野くらいのものだ。プロになる人間は大抵奨励会の頃から明野の存在を知っており、当時から棋士に近い立ち位置で会館を動き回るこの名物記者を見てきている。そうした過去を引きずるのではないが互いの関係性というものはプロになってからもそう簡単には変わらない。
「聞きたい事って何すか?」
「ズバリ棋天戦への意気込みと、それを踏まえての本局への感想ってところかな」
 媚びるのではなく友人のような感覚で、それとなく行われるインタビュー。棋界という世界はその狭さ故か、表舞台に立つ人間とそれを報道する側が当たり前のように知り合いであり、全てはその関係性の中で語られると言ってよい。
 そして銀乃介は、率直に表現してしまえば、この明野という記者が得意ではなかった。
「意気込みっすか、そっすねえ……まあ頑張りますよ。今日の将棋は相居飛車ですけど、名人戦以外なら普通に振る人ですから、あんまり参考にはならんでしょうね」
 記者でも幸田などとは個人的な付き合いも深いが、その関係は奨励会時代からの繋がりがあってこそだし、何より幸田が棋界において大した力を持っていないから保てているのだと考えている。極端な表現をすれば、幸田に何を話した所でそれは二人の関係に留まるバカ話であって勝負には毛程も影響しない。少なくとも銀乃介はそう考えているから幸田との付き合いを続けられる。
「六角先生は振るとしたら四間だろうけど、現状では何か考えてるかい? あ、勿論オフレコだから安心して」
 明野はそうではない。明野は全ての関係者から【ある種の信頼】を寄せられている存在であり、彼が語る内容は重みを持って関係者に流通する。
 例えば明野に“あの戦型はもう駄目だ”と語れば、その発言は知らないうちに棋士の間で流通する。見立てが正しければその棋士の信頼に代わり、逆に頓珍漢な見立てであったならば評価は下がる。そうしたパイプが明野という記者にはあり、それを積極的に活用しようと親密な関係を築く棋士もいるが、そもそもからして研究会などの集団主義から一線を引いている銀乃介にとってはあまり関わりたい人種では無い。
 本人がそう望んでいるかは定かでないが、明野という記者は棋界の政治、勝負にも影響を与えるだろう人間関係の中枢として機能していた。
「どうせなら位取りの将棋とかしてみたいっすね、六角先生そういうの得意でしょ」
「確かにそうだねえ。最近は対抗形でも囲いあいが普通になっちゃったから、厚み重視の将棋はなかなか見られない。ファンとしても見たい将棋だ」
 それでも邪険に扱えないのは、明野という人間のキャラクター故だろう。
 例えば明野は才能の有無に関わらず全ての奨励会員に丁寧に接するし気を遣う、奨励会を辞めても会館や何かの席で会った際には忘れずに挨拶をする姿を見かけるし、その姿勢はプロに対しても変わらず、上位の棋士と下位の棋士で態度を変えることも無い。目先の損得で人間関係を見ている人間には出来ないだろう人付き合いを、誰よりも古くから棋界で続けているのだ。だからこそ、明野のパイプは棋界の至る所に繋がっており、そこには政治的な面倒事も付いて回る。
「最近の将棋は対抗形といったらすぐに穴熊だからね。先生たちの立場も解るが、見る側としてはそういう将棋も見たいものだ」
 そう語る明野は政治的な要素など欠片も見えないただの将棋好きなのだ。白く染まった頭を掻きながら鼻の頭を赤く染めて、私はやはり君の将棋が好きだと呟く、そんな男だ。
「それはそうと島津君、浅井君にも君の闘魂を注入してやってくれまいか!」
 真顔で言うのは冗談半分本気半分と言った内容だった。
「アレだけの才能があるというのに、少し将棋が軽すぎる。腰を重くして捻じり合う将棋も指せなくては」
「そりゃ明野さんが見たい将棋でしょうが」
「バレたかい?」
 突っ込みを入れると膝を叩いて威勢よく笑い、
「彼とはあまり付き合いが無くてね。こうしてお酒を飲む機会でもあればと思うが、話す機会もまるで無いし、正直なところ彼という人間が良く解らないんだ」
そんな風に続けた。明野をしてこう言わしめる棋士など棋界で響くらいのものではないかと銀乃介は思う。
 おおよそ十一歳の奨励会入会から三年余りでプロデビューし、そこから二年と半年程で初タイトルの王竜位を奪取。奨励会入会前にアマチュアの大会などへ出場した記録は無いはずだから、してみれば浅井響は棋界の表舞台で将棋を指すようになってから僅か五年でその頂点に上りつめたという事になる。実績だけ取り上げれば近代将棋の枠組みを超えて江戸まで遡っても前代未聞、歴史上類を見ないレベルの化物だろう。
 そしてそれだけの超出世であるが故に、浅井響の棋界における人脈はほぼ無い。銀乃介にしても自身を棋界では外様の部類だと考えているが、響はその銀乃介や周辺人物くらいしか知人と呼べる知人がいないのではないだろうか。明野のような情報通をしても“良く解らない”としか表現出来ない棋士なのだ。
「彼は本当に謎だね、棋界に襲来したインベーダーのようにも見える」
「話せば普通のガキっすよ、将棋がすこぶる強いクソガキ」
「そうか……いや、なるほど。君がそう言うのなら少しは安心できる」
 明野はそう言うと手元の酒を一息に煽った。いかにも人間臭いその姿に、この男が棋界の関係者で無ければ飲み友達になっていただろうと銀乃介は思う。