『――封じ手は戦いを起こす後手7六歩、報道陣の退出を待ってから竹中は同銀右とする。後5五銀左、先7五歩としてから後手から9五歩を突いて端に手を付けた。
 先手には8八玉と6七金右の二手が明確に見えているが、後手としては中住まいと四枚矢倉では勝負にならないのだから指される訳にいかない、であれば囲いが完全になる前に攻め破るしかないという理屈であろうが、その思考自体が攻めを急がされているようにも思える。初日に聞かれた評判は手が進むにつれて盤面に明確に現れるようになり、昼食頃の控室は難解としながらも先手ペースという見方が強まっていた。
 そうした時に指されたのが先7四角であった。理屈では9四歩と端を取り込まれた際の9二歩を見せると同時に8五桂を止めており後手の端攻めをとがめようという意図であるが、8三金と上がられて角が死ぬ事が見えているだけに指すには度胸が必要となる。
 ――じっくり指す方針であっても言いなりは嫌という事でしょう、そうでなければ名人戦の六角先生は倒せない。
 そう評したのはA級の廣澤九段だ。同じくA級の加藤八段と継盤を挟みながら、自身が過去に挑戦した名人戦を振り返るように語った。
 ――名人戦の六角先生は攻守共に次元が違う。どれだけ細い攻めも繋ぐしこちらが自信を持てる攻め形でも受けきられる。それはきっと気持ちの問題、気迫だ。六角先生の名人に懸ける気持ちの強さに知らない間に委縮させられてしまう。だからこそ、主張できなければ勝てない。
 以降、後手は8八歩に先同玉とさせてから――先手の入城を助ける一手とも見えるが玉の当たりを強くしたという主張であろう――想定通りに8三金と角を捕まえに行く。
 控室ではここで先手から6五歩と焦点に歩を突いて行く手が有力視されており、先6五歩・後7四金・先同歩・後6五桂・先同銀・後同銀に先7五金と打って飛車と銀の両取り、その局面がどうかというのが主な検討局面となっていたが、実戦の先手は9五歩と端に手を戻した。
 実戦が進んでからも控室では7五金の両取り以下をもう少し掘り下げたが、両取逃げるべからずの格言通りに飛車取りに構わず7六歩と打って進めてみると、どうやら先ほどの8八歩が絶妙手となるようだ。数手進めた局面で先手玉の当たりが強すぎる反面、後手玉は飛車一枚では左辺に逃げて寄りが無く、後手有望の変化でまとまった。
 6五歩以降の結論が出ると控室には感嘆の声が漏れた。相手の玉を固めるお手伝いにも見えた8八歩ですら後手の攻めを繋げる重要な鍵として機能している。つまり両対局者は最低限そこまでか、或いはそれ以上の変化を織り込んだ上で現在の盤面を選択したということになる。
 将棋観戦の常として対局者以上に局面を読めている人間などいないものであるが、こうして実戦に現れなかった無言のやり取りに気が付かされる瞬間こそ、最も純度の高い将棋の歓びではないだろうか。
 以降、7四金・同歩・同飛・7五歩・8四飛・6七金と進み、ついに先手の四枚矢倉が完成した。駒割は角金交換で後手が得とも言えるが玉の固さでは先手が圧勝である。
 ――後手から動かなければいけない局面だが、どこから手を付けて良いのか解らない。
 控室で継盤の後手を持つ棋士からは一様にそういった趣旨の言葉が聞かれた。このままじっくりと手が進めば固さを主張する先手が良くなる一方だが、後手からの有効な打開策が見えないのだという。
 時刻は三時を回りお互いに残り時間が気にかかる頃となった。先手の残り二時間に対して後手は残り三時間あり、こちらは後手に余裕がある。(続)』

 旅館の玄関脇で煙草を吹かしていると、学生服姿の高校生が欠伸交じりに歩いてくるのが目に入った。明野山脈をして棋界のインベーダーと言わしめたこの高校生は、対局場が神奈川である事から日中の学校を終えてからでも間に合うだろうと、当日夜の大盤解説会にキャスティングされたのだという。
 松永からの勅命だというオファーを耳にした時に彼が見せた子供のような――実際子供なのだが――拗ねた表情を思い出すと、知らぬうちに間抜けな笑みが浮かんでいたらしい。
「思い出し笑いする奴って大抵スケベらしいぞ」
 出し抜けに言う響の頭を軽く叩きながら、
「男はスケベなくらいがちょうど良いんだよ、覚えとけ」
銀乃介は検討室への先を行った。

 響が控室に姿を見せるとちょっとしたどよめきが起きた。
 無理もないかも知れない、学生という立場もあって響が現地控室に来る事は滅多に無い。奨励会時代に経験はあるかと問えば、学校生活の合間に通った僅か三年足らずの期間ではそんな暇もあるはずが無いというのが答えだろう。
「現地控室って初か?」
 いつもの生意気な雰囲気がすっかり失せて借りて来た猫のようになっている響に問うと、
「そうだよ……なんか緊張する」
とやはり素直過ぎて却って銀乃介の調子が崩れそうだった。
「控室デビューより先に自分のタイトル獲っちまったって訳か」
「悪いかよ」
「悪くはねえよ、ムカつくけどな」
 自覚があるのか無いのか、これもまた記者が知れば喜んでネタにしそうな小話だが棋士としては面白くないこともまた事実、敢えて自分から話してやることはすまいと銀乃介は決めた。
 適当な盤を借り対面に響を座らせる。
「何か妙に見られてないか? 何か俺変なことしたのか?」
「ツチノコ見かけたようなもんだろ。良いから気にすんな、初手から並べるぞ」
 言われてみれば確かに、遠巻きに感じる視線が強かった。上位棋士の数名は公式戦で既に当たった人間もいるだろうが、まだ当たっていない棋士や記者がこれだけ近い距離感で浅井響を見るのは初めてだったのだろう。明野のインベーダーという評もこの反応を知れば頷くよりない。
「――で、現局面。後手から再度7四歩を合せたってところだが、どう見る」
「5八金と6七金で比較して考えれば取って取ってに7五で銀交換して飛車回りなんじゃないか。銀交換した時に先手から8四銀7五金で飛車抑え込む筋も無い」
「理屈は解るが龍を作ってどうにかって局面とも見えないんだよな。左辺がガラ空きだ」
「って言うかこうなった時点で後手としてはそうするより無いんじゃないか。逆に言えば先手の駒は盤の半分に偏ってる訳だから、後手としても入玉狙うってのは自然だよ」
「そりゃそうだが、手損してるみてえなんだよなあ。何か他にありそうなもんだが」
「銀は手数の損得とか手の流れに拘り過ぎなんだよ、局面で判断しろって。実際5八金のままならこの合わせは成立しないんだから」
「そういうもんかね。で、結論お前はどっち持ちだよ」
「んー……竜作るところまで進めば正確には先手が良いんだろうけど、後手が楽そう」
「ほう、楽ときたか」
「先手が攻めを焦らされる感じになるんだよな」
 響がふと漏らした【攻めを焦らされる】というワンフレーズで周囲が静まりかえったのが銀乃介にも解った。これまでは世間話をするポーズくらいは取りながら聞き耳を立てていたのが、それすら忘れてしまったのだろう。
「……俺、なんかマズい事言ったのか?」
「いんや、全然。実際ここまで進めばお前の言ってることは解るよ」
 今まで控室は【後手が先手に焦らされる展開】という評判で固まっていた。そこに突然噂のインベーダーがやって来て【焦らされるのは先手】と評した。空気が変わるのは自然なことだ。
 銀乃介にしても、竜を作る所まで局面を進めてみれば響の評は理解出来る。先手は入玉を抑えつつ攻め切らなければならないが駒が自玉の周辺に偏り過ぎて苦労しそうだ。なるほど確かに、ここまで進めば焦るのは先手だろう。
 だからこそ、周囲の反応は大袈裟に思えた。例えばこの発言が小寺や他のA級のものであったらば、ああ言われてみればそうだね、程度に受け入れられて認識を改めるだけなのだろうが、浅井響が言ったから、あの天才が言うのだから、自分たちが今まで考えてきた検討は全く間違っていたのではないか。そんな風に受け止めている棋士もいるのかも知れない。
「ナイーブ過ぎんだよ、ホント」
 実際に盤を挟んでいないから、浅井響の実績だけを眺めているから、きっと彼らは自分の中で化物のような浅井響の幻影を作り上げてしまっているのだろう。そしてそうなってしまったら、きっと彼らは響に勝てない。
「ただのクソガキなんだけどなあ」
 ふと漏れたぼやきに、
「うっせえな、喧嘩売ってんのかよ」
 一々反応してくるあたり本当にクソガキだと、少なくとも銀乃介は思う。
「そういうとこがおこちゃまなんだよ、お前は」
「ったく……あ、そうだ。千代から預かりもんあったんだ」
「何だよ、ラブレターか何かか?」
「そんな可愛げのある嫁貰ったのかよお前……ほいよ」
 と、響がバッグから取り出したのは大きめのタッパーが四つほど。
「カレー貰って来いだとさ。割り当ては俺がチキン、お前ビーフ、二つずつだからな」
 思わず継盤につんのめりそうになりながら、素直に持ってくるコイツも大概立花の家に染まっているなと目の前の響に苦笑する。
 本局対局場となっている旅館では、棋界のタイトル戦の時だけに振る舞われる特別製のカレーが存在する。関係者には割とよく知られている事で、まあ絶品なのである。