一の四

 響がカステラを口に運ぼうと口を開いたとき、ふと女の子の幼い声が届いた。
 それを聞いた千代は微笑みながら、
「紹介しておきたい子がいるの、私の妹なんだけどね」
と、その少女を出迎えに立った。
 佇まいを直していた響の前に連れて来られたのは、千代の背に隠れようとしているが赤いランドセルがはみ出している、明らかに響よりも年下の少女。共に小学生同士であるとは言え、直に六年生になろうかという響にとって、その姿は庇護すべき幼さとして映る。
「ほら、昨日から言っといたでしょ、ちゃんと挨拶しなさい。あんたもう来年から五年生なんだから少しはなんとかしないと、また年下の子に馬鹿にされるわよ」
 なかなか前に出ようとしない少女を千代が力尽くに引っ張り出すと、スカートの裾をぎゅっと握りしめたまま下を向いた、顔の赤い少女だった。それを見た響はすっかり余裕が出て、これはこちらから挨拶するべきだろうと、年長者の余裕を見せつけんばかりだ。
「はじめまして、浅井響です。来年から小学校六年生です、よろしくおねがいします」
 大変良くできました、のハンコが押されそうな自己紹介で先手を打つ。これには千代という大人の女へのアピールのつもりも多分にあった。まず第一に将棋が強く、その上美人で大人とくれば、小学生の響にとってこれほどあこがれる存在はない。
「ほら、将棋の友達作るんでしょ。ちゃんと挨拶しないと駄目じゃないの」
「だって」
 かすかに漏れたそれを聞いて、うさぎのような声だと、響はなんとなく思った。うさぎの鳴き声がどんなだか、ほんとうは知らないけれど。
「だってじゃない。ちゃんとしないと今日のおやつあげないよ」
 千代の殺し文句ようやく屈したか、少女は、口ごもりながらどうにか口を開いた。
「……いの」
 蚊の羽音よりも小さい呟きだった。
「いの?」
「ちがう……の」
「は? もう少しはっきり言ってよ」
 響の問い返し方が幾分乱暴だったことは事実だろう、しかしあくまでも常識の範囲内のことで、何も脅しをかけたわけではない――のだが、この少女、少々緊張の度合が大き過ぎたらしく、たったこれだけの事に対して肩をしゃくり上げ始め、声を震わせ、そして、涙をまき散らして千代にすがりつきながら泣き始めた。
「ちょっと、あんた何で泣いてんのよ。ったくもう……ごめんね響くん、この子一事が万事こんな感じで、将棋に関しては本当にずば抜けてるんだけど、とにかく友達いないのよ」
 慌てたように少女の背中をさすってやりながら、千代。
「何となく、わかるような気がします」
 これでは友達になる前に人が逃げ出してしまうだろうと響が呆気に取られていたその時、少女が一際大きな声で、響に投げつけるように言った。
「じのぉ! だぢばなじのぉ! なまえぇ!」
 立花慈乃――たちばなしの――それが少女の名。
 この日少年は本物の天才と出会った。後で振り返れば確実に笑ってしまう出会いだった。