五の二

「君の将棋は……なんや、すごいなあ」
 感想戦も一段落ついてから、小寺がぽつりと漏らした。
「最近の棋士はつまらんって、一昔前によう言われとってな。勝敗に拘り過ぎて精神的な面が廃れたって。それが当たり前になってからは、もう言われもせんようになったけど」
「それが、何か?」
「なんちゅうかな、将棋をデジタルに捉えるような、そういう指し方より、たとえば……それこそせや、君と仲ええ島津くんみたいに、多少荒っぽくなっても一本筋の通った自分の精神みたいなもんを棋譜に描き出しとる将棋指しの方が好まれる。僕らのデビューした頃なんかはまだそういう風潮が多少残っとって、年上の先生ら相手にしたときなんかようチクチク言われたわ」
 その手の説教が面倒臭かった、という意図は無いのだろう、語る視線が冷笑で歪むようなことは決してない。
「ただ、そういう考えも解る気はするんやけど、僕にとっての将棋は徹頭徹尾道具やねん。負ければ悔しいけど、それだけ。多少の美意識はあっても、結局は商売道具に対する愛着程度のもので、そこに人生まで見出そうとは思わん。言うてしまえば、ゲームはゲームや」
 別段と珍しい意見ではなかった。特定の戦術に拘って選択肢を殺すようなことがあっては自らの手で敗北を選ぶようなもの、勝利の為に必要なのは機械的な解析のみであると、現代棋士の多くはそう考えている。
「棋譜だけ眺める分には、道具と割り切って勝ちの為に機械的に指しとるような、こっち側の人間と思ってたんやけどな……面と向かって、目を見ながら指してみたら、昭和大正通り越して明治江戸以前の精神性。危ういまでに、何か思い詰めたような、宗教のような感覚やった。ただ勝ちに拘って指すだけなら他にも幾らでもおるけど、ここまで鬼気迫る印象は、覚えがない。
 香木肉桂銀金玉……この八十一枡は、血生臭い殴り合いとは縁遠い、貴族が戯れに財宝の取り合いしとるっちゅう説があるくらいの平和な世界やのに、君と挟む盤は、野武士が真剣で殺し合いしとるような、自玉の行く末に現実の生死が結びついとる気にさせられる」
 そう言われ、響は祖父のことを思い出していた。小寺が語る響の将棋は、棋風は異なるものの、あの雪の日にただ一度だけ盤を挟んだ、祖父十兵衛の将棋に対する姿勢そのものではないかと。
「九郎義経然り大楠公然り、精神の純粋さは必ずしも美しい作法へ向かうとは限らないと、いつの時代にも通じる事なんやなあ。言葉で語られる精神論より、形だけが残る棋譜より何より、盤前に座った君の空気、相手玉を睨みつける瞳の方が、それだけでよっぽど怖い。ほんまに、今日はええ勉強させてもろた」
 そう言って深々と頭を下げてみせる小寺に演じている空気はまるでない。
「はよ上がってきや、君と順位戦やるの楽しみにしとくで……行きがかり商売道具なんぞと言うてはみたが、将棋のことはアンガイ本気やねん」
「案外、ですか」
「対局中の君の目見てしまったら、アンガイ、としか言えんよ」
 打って変わって飄々と言う小寺にもう一度礼をしてから、響は盤前を去った。
 対局室を一歩出た、その瞬間に奥歯が鳴る。
 初めて負けた訳ではない、プロ通算では二十三度目、しかし、刎ねられた首で息をしているかのような生殺しにされた感覚、自らの生が定かでなくなるこの敗北の不快感だけは到底慣れそうにない。


 ロビーで携帯を確認すると慈乃からのメールが入っていた。大阪土産にビリケンさんのストラップを買って来てくれという。ビリケンさんとやらが何者なのか、響には解らないが、対局で疲れ切っている現状では悠長に調べる余裕はなく、女子中高生の間で流行っているものならば関西の棋士に聞いても解りはしないだろうし、そもそも気軽に尋ねられるような関係を築いている人間がいない。
 どうしたものか、と思案していると小寺が通りかかった。
「なんや、難しい顔して。どうかしたんか」
 一局指して間柄も深まったということなのか、気さくに声を掛けてきた。
「小寺先生……あの、ビリケンさんって知ってます?」
 ビリケンさんなどといういかにも間抜けなネーミングからして十中八九若者文化の類と思い込んでおり、まさか知っている訳がないだろうと尋ねたのだが、
「何や、ビリケンがどうかしたんか」
小寺は当たり前のように知っていた。
「知ってるんですか」
「東じゃ知られとらんのかいな、ビリケン言うたらこっちじゃ誰でも知っとるで」
「大阪土産にその人のストラップ頼まれたんですけど、どこで売ってるか解ります?」
「ビリケン言うたら通天閣と違うかな……けど君、一人で行かれるか?」
「まあ、地図見ればどうとでもなるかと」
「そういうこっちゃのうてな……まあええ、どっちみち明日の朝やろ、一緒に行ったるわ」
「いや、そこまでして頂くつもりは」
「かまへん。今日はウチに泊まって、朝八時頃に出て回れば昼過ぎには東京着くやろ」
 ほんなら行くで、と返答も待たずに響の手を取ってぐいぐいと歩き出す。
「かみさんの実家がこの近所でな、串カツやっとんねん。歩いていける距離や」
「いや、有難いんですけど……ちょっと、今日は一人になりたいんで」
「いーや、連れて行く」
「そもそも先生だって今日は祝勝会とかあるでしょ」
「高々本戦一回勝ったくらいでそんな大仰なもんやるかいな。ええから行くで、どうしても君に聞いときたいことあんねん」
 勝者が敗者を誘うというのはマナー違反ではないのだろうか、あまりにもデリカシーに欠けているのではないか、心中そんなことを思いながらも相手は現在二冠の超大物、口に出して言うこともできずにずるずると引き摺られていった。

 静かな住宅地の一角にある木造の古い建物は、看板が出ていればまた違うのであろうが、時刻は人通りの消えた深夜、一見では店をやっている雰囲気は感じられず、硝子の引き戸の向こうからは小寺の帰りを迎えるように薄明かりが漏れていた。
 小寺が硝子戸を軽く叩くと、恐らくは小寺の妻だろう、寝間着姿であくびをかみ殺しながらの出迎えで、その視線は早速響に向いた。
「あら、その子は?」
「浅井君や、今日の相手の」
「まあ、そう。初めまして、小寺の家内です」
 一瞬見せた戸惑いの表情は、まさか勝負のその日に連れてくるとは想定していなかったのだろう、それでも余計なことを語らない辺り賢い女性のようだった。響も軽く自己紹介をして中へ入れてもらう。
 縦に細長く作られた店内は十ほどの丸椅子が置かれているカウンターと座敷の席が一つあるだけの簡素な作りで、大勢が集まって呑むような構えではなく、近所の人間が集まりに使う店なのだろう。座敷に上がった小寺に響も続く。
「とりあえず生と、適当に見繕って揚げてんか。浅井君関東の子やから、ここの串カツ食わせたりたいねん」
「解った。浅井さんはジュース何がええかしら、コーラかオレンジくらいしかあらんけど」
「いえ、自分も生でお願いします」
「まあ、未成年やろ」
「ええねんええねん。指してみりゃ解る、浅井君は立派な男や。彼が呑めんで誰が呑める」
「もう、アルコールで脳やられて将棋弱なっても知らんからね」
 呆れた風な溜息を残して小寺の妻はカウンターの中へ入っていく。
「なんや、真面目な子かと思ったらイケる口かい」
「別に……呑んでやりたくなったんですよ」
 皮肉のつもりで言った響に、
「おうおう、負けたら呑め呑め。強くなる悔しさだけ残して余分は酒で流してまえ、そうせんと上じゃやってけんぞ」
小寺は気にした風でもなく、これまた飄々としていた。

「それで、話って何ですか?」
 串カツを頬張りながら、生のジョッキは双方既に空となって焼酎に進んでいる。響は初体験だったが、するりと流れていくような清酒とは異なる、身体の髄に染みてくるような感覚は悪くない。
「ああ、それな……君、浅井十兵衛って名前聞いたことないか?」
 小寺から出てきたのはよく知った名前。
「祖父の名前ですが……どうして?」
 将棋指しではあっても、裏側の、それも一番深いところで指していた人間の名である。棋譜が表に出るような将棋は指していないはずだし、プロ棋士、それもまるで世代の違う人間が知っているはずのない名前だった。
「やっぱり。浅井っちゅう名前で、しかもアノ六角先生が弟子に取るんやからなんぞ関係あるか知らんと思っとったけど。そうか、孫なんか」
「何故祖父のことを? 表の人間じゃありませんし、真剣師としても無名でしょう」
「無名なのは、強すぎたからや。強すぎるが故に存在を無かったことにされた真剣師……僕なんかより君の方が詳しいやろ」
「祖父は何も、六角先生と指したことがあるって事も葬式の日に知りましたから。将棋のこと話すの、嫌だったみたいで」
「ひけらかす趣味は無かったっちゅう事か。そら益々、伝説にはならんわな」
 伝説、という言葉にもからかいの色は見えない。
「浅井十兵衛の名がチラホラ聞かれるようになるのはまだ戦前の頃でな、食う為か何かは知らんが、極道の、今のヤクザとはちっと違うんやろけど、そういう手合いの棋客やっとったみたいで、強いと言われる将棋指しを手当たり次第相手にして連戦連勝やったらしい。その後戦争が終わってからも、三〇年と少し前に姿を消すまでの間は、連盟で語り継がれとるような大御所が仰山やられとるはずや」
「はず?」
「プロ棋士が極道の棋客やっとった人間にボロ負けするなんて、あったらアカンことやろ。僕が浅井十兵衛の名前知ったのも、師匠の師匠……名人獲った人やけど、家にお邪魔した時に暇潰しの家捜ししとって、偶然棋譜見つけたからや。浅井十兵衛との棋譜だけ、他の棋譜とは違うところに、見られたらアカンものみたいに隠しとってな。
 ふつう、伝説の真剣師なんてもんは、偶然か駒落ちでプロに勝ったことがある、程度のレベルや。そういう経歴を持つ手合いをプロが出ていって倒すから都市伝説として語られるようになる。最終的にはプロが勝つからな。真剣師Aは確かにBというプロ棋士を倒したが、それより格上のプロである私が倒したぞ。こんな具合に語られて初めて物語になる。
 浅井十兵衛の場合、そもそも勝った人間がおらんから、語られんねん。最終的にプロが勝つという物語が成立せんと、語り出す人間がおらんのや」
 調べるのにも苦労したで、と薄く笑いながら。
「何せ直系の弟子ですら浅井十兵衛のことは知らされてないんやから。遺品を管理しとる親族に頭下げたり、連盟のお偉いに浅井十兵衛の名前出してみたら、棋界の存続に関わることやから内密に頼むと脅されたり。そんな具合で、地道に探したわ」
「幾ら祖父が強くても、そんなことを続けていれば連盟だって黙ってなかったはずでは?」
「いや、黙らざるをえなかった。浅井十兵衛は歴代名人を尽く潰しとるからな……当時の構図はむしろ名人が刺客となって浅井十兵衛を狙う側になっとったとしか見えんものでな、順位戦名人戦は実質浅井十兵衛に送り込む連盟の刺客を決定する為のもんやった」
「名人戦が刺客決定戦、ですか……たかが在野の真剣師を相手に?」
「在野の真剣師にプロの頂点が勝てないと知られたら、棋士という職業に何の価値があるって話になるわな。スポンサーが金出さんようになったら棋戦も存続できんっちゅうんで連盟は金積んででも十兵衛の口塞がにゃならん。棋士という職業の権威、棋界そのものを根底からぶっ潰す、そういう恐怖感を抱かせるには、名人を殺してみせるのが一番効果的やろ。そして一度でも名人をやられた連盟は浅井十兵衛を潰さん限り枕を高くして眠れん。
 そんなやから、当然六角先生もやられとる。六角先生だけやない、浅井十兵衛の時代に名人の位を手にした棋士は例外なくやられとる……面白い事に、潰された人間はほぼ全員、浅井十兵衛にやられた棋譜を隠し持っとんねん。よっぽど悔しかったんやろな。
 ただ一人孤立無援の身で、歴代名人いや将棋連盟そのものか、棋界の全てを敵に回してその戦績は生涯不敗。それが棋譜に残された浅井十兵衛という将棋指しや」
「生涯不敗って、いくら何でもそんな話」
 思わず吹き出しそうになった響に、小寺は静かに首を振った。僕の調べた範囲でしかないけれども、間違いはない。
「名人という存在に他の名など要らんなら、棋界で奪い合ってた名人位なんてパチモンの器で、唯一浅井十兵衛という存在こそが名人と呼ばれるに足る本物の器だったんやろう」
 頬を仄かに火照らせていた酔いも、いつの間にか覚めていた。しかしもしも小寺が言うことが真実であるとするならば、確かに全てのことに説明が行くのも事実である。一介の真剣師に過ぎない祖父にあそこまで執着する六角も、家に残されていた、そして同時に家の外では決して同じものを見ることのなかった、対戦相手の記されていなかった、異常なまでに洗練された祖父の棋譜も――もしも祖父がそうであるのなら、全て説明が付いた。
「ただ――」
 響の思考に小寺の声が割り込む。――解らんことがあんねん。
「浅井十兵衛が名人を倒しまくってたことは方々残っとる棋譜からして間違いの無いことやねんけど、常識的に考えたら名人を実力で倒せる人間がそんな真似をする理由が解らんのや。そこまでいったら表に出て普通に指した方が稼げるはずやろうし、連盟からもそういう話があったはずやのに……ここ、孫としてはどう考える?」
「さあ、孫としては解りませんけど……でも、同じ将棋指しとしてなら、何となく」
「将棋指しとしては?」
「浅井十兵衛は、ただ強く、強いだけでありたかったのだと思います。連盟や制度という存在すら、それが将棋の仇となるならば躊躇うことなく力でねじ伏せる、そういうことを出来る強さが欲しかったのだと……そうか、だから、そういう負い目もあったのかな」
 名人という称号は、名人と呼ばれる存在は、一切において支配されてはならない。――祖父は、祖父の信じた八一の枡目を、その裁定を誰より厚く信じるが故に、何より貴いと信じる将棋を傷つけることになってしまったのだろう。
 その答えは響にとってあまりに明瞭だった。決して表の大会に出ようとしなかった、何も語ろうとしなかった、棋譜にすら対局相手の名を残さなかった、最期の一局以外自分と指さなかった、祖父の、あの頑ななまでの態度を思い返せば、そうでしか有り得ない。
 響はそうして祖父の語らなかった理由を悟った。