五の四

 学校に到着したのは午後二時を少し回った頃。丁度五限の最中になってしまい、教室に入るのも躊躇われたのでまずは職員室に報告に行くことにした。都合良く空き時間だったらしい担任に挨拶をして昨日今日の授業を軽く確認、クラス用に買ってきた大阪土産の品を預けてから、六限の開始時刻まで図書室を借り昼下がりの心地良い陽を浴びながら範囲の教科書を流し読みする。
 どうやら大したことはなさそうだと納得すると今度は昨日の対局をノートに起こす作業を開始、頭の中で一つ一つ思い起こす度に奥歯を鳴らしながら、書き上げる頃には五限の終わる時間帯、荷物をまとめて教室へ向かう。
 新しいクラスには、学校側の見えない配慮なのかも知れない、響と近しい麻雀部の面々や同じクラスで世話をしてもらっていた友人などがある程度集まっており、遠征だからといって特別に困るような事態もなく、先日と五限までの授業ノートを受け取る。新クラスが発表された当初、響はどことなく偏ったクラス編成に申し訳なさを感じ彼らに詫びを入れたものだが、彼らは高校生特有の物事を難しく捉えない思考から、むしろ気の知れた人間が集まれるのなら有難いと、笑って流してくれた。
「で、試合はどうだった」
 響にノートを手渡しながら、一年の頃から続けて学級委員を引き受けている原田だ。響が遠征の日の授業ノートをクラスの有志で分担して取ろうと言い出してくれた人物であり、一年の頃響がクラスで浮くことが無かったのは全く彼のお陰だった。響にとって頭の上がらない存在である。
「負けちった、悪いな」
「そっか。つーか、謝るなよ……こっちが勝手に応援してるだけなんだから、お前は俺らのことなんて気にせず自分の為だけにやれ。この程度で他人の夢にタダノリできるなら安いもんなんだから、お手軽な青春ってヤツ。ウチの学校じゃ甲子園とか期待できないしな」
 将棋に対して詳しい訳でもないだろうが、とりあえずプロとして勝負しているという点で応援してくれる。
「あ、あざい帰って来てんじゃん、お土産は?」
 と、これもまた一年の時に同じクラスだった市川という女子。当然将棋に興味を持っているようなタイプではないし、ルールすらも知らないだろう。勝敗に敢えて触れていないのか、それとも本当に土産以外には興味がないのか、それは解らないが、こういった軽い扱いをしてもらうことでクラスでの居場所を確保できるのだから、響にとってこういった軽い感覚の学友は代え難く有難い。
「買ってきてんよ、たこ焼き煎餅だったかな。先生に預けてあるから、HRの時に」
「あざいと同じクラスになると色々おやつ貰えるから得だよね、やっぱ」
「ロリコンだけどね」
「童貞だし、慈乃ちゃんに優しくないし」
「将棋オタクだし、ネクラだしね」
「男としては最低だよねー」
 姦しく騒ぎ出す女子連中にこめかみが引きつる。この腐れビッチ共がと、響は先程心中に浮かべた感謝を撤回した。
「おう響、負けたのか」
 と、声の方を見れば麻雀部の面々。
「今日はどうする?」
「今日はやめとく。昨日今日の分勉強しないとまずいし、実は昨日寝てないから、疲れてんだ。悪いな」
「悔しくて眠れなかったとか?」
「いや、対局終わってから相手の人と呑んでたら朝になってた」
「何だそれ」
「まあ、面白い人だったんだよ」
 話しているうちに六限は日本史の田中教諭が教室に入ってくる。席に戻って教科書とノートを取り出し、範囲は奈良時代の文化史から。チャイムの音を聞きながら、そう言えば将棋が入ってきたのもこの頃なのだろうかなどと、将棋にまつわる一説を思い出した。



 放課後、クラスに残り駄弁っている連中を後にして一年の教室へ向かう。慈乃はクラスに馴染めているだろうかと廊下からそっと覗いてみると、予想は良い方に外れ、どうやら仲の良い友達が出来たらしい、四人ほどの女子と輪を作って談笑している。わざわざ出て行く必要も無いだろうと土産のビリケンさんストラップは下駄箱の中に入れておき、響は一足先に帰宅した。

 ただいま、と、返事のあるはずもない言葉を呟きながら靴を脱ぐ。
 昨日今日で遅れた分の勉強をしておかなければと早速ノートとプリントを取り出して机に向かう。
 室内に音はなく、家の外、カーテン越しに茜の眩しい夕空から、カラスの鳴き声が届く。帰路につく小学生の騒ぐ声、時代に逆行するような豆腐屋のラッパ、一瞬の静寂。国道を走る大型車の騒音、子どもを呼ぶ母親、豆腐屋さん来たよ、豆腐屋の威勢の良い毎度という声。間延びしていくラッパの音。
 勉強は手に付かず、部屋の中心に置かれた盤に駒を並べる。
 先7六歩、後3四歩、先2六歩、後5四歩、先2五歩、後5二飛、先5八金右、後5五歩、先2四歩、後同歩、先同飛、後5六歩、先同歩、後8八角成、先同銀、後3三角、先2一飛成、後8八角成、先5五桂、後6二玉、先1一竜、後9九馬、先3三角、後4四銀、先同角成、後同歩、先6六香、後7二銀、先8二銀、後2七角、先9一銀成、後5三香、先8一成銀、後5五香、先同歩、後8一銀、先6五香、後7一玉、先6三香成、後6六馬、先5二成香、後同金右、先6六歩、後5六香、先5七香、後4五桂、先5六香、後5七香、先4八銀、後5八香成、先同玉、後5七歩――五三手目――先同銀。

 豆腐屋のラッパはいつの間にか消え、盤は月明かりに青く染まっている。