六の三

 終業式の放課後、響は自宅アパートへ寄ることもなく立花家へと直行した。
 陰翳と調和した日本家屋は冷房を控えても涼しさを感じられることから肉体への負担が少なく、加えて精神的にも自宅と何ら変わらずに過ごすことができ、何より寝ていて三食出てくる環境となれば、疲労を抜くのにこれ以上の場所はない。唯一の難点は慈乃の存在であるが、間抜けな学生にとっての終業日恒例行事――置き勉道具が鞄に入りきらず涙目――になっていたことが幸いした。手伝いを申し出る代わりに今日一日の安眠を約束させるという金底の歩にも劣らぬ備えで固める。学校を出る前に立花の母へ送ったメールには間を置かず返信があり、昼は蕎麦で夜には知人から送られてきた鮎があるとのこと。精神を逆撫でる蝉声も極楽への入場券を手にした今となっては可愛らしい。
 かような流れで立花家へ辿り着けば、これぞ賢母の鏡と万人に思わせる技術、食卓には正に茹で上がったばかりの蕎麦が薬味共々煌びやかな輝きを放っており、ああこのような女と結婚したいものと、響が思ったか否かは定かでないが、無言のままに蕎麦をかっ込む代え難い至福の一時、遠く信州から取り寄せたこだわり生山葵の風味豊かな香りの深さは、思わず立花の母の指先をちらと見やった思春期の青年が、この指先からこの味が、自らの青大将も山葵のように優しくニギられおろされたいと、妙齢の人妻が備えた老いを知らぬ美しさも相まって、白昼みだらな妄想にふけるのも止む形無く、青年の心の奥深くに熟女の魅力を植え付け云々――といった具合であるとかないとか。
 さておき腹もたまった所で、
「氷風呂用意してあるから、お腹落ち着いたら入っちゃいなさい」
とくればこれで落ちない男はいない、至れり尽くせり立花の母のすばらしさ。
「俺、絶対おばちゃんみたいな人と結婚するわ」
 思わず響が漏らすのも道理だ。
「あら、鑑連さんのこと倒せたら今すぐにでも響くんのお嫁さんになってあげるのに」
「将棋でいいの?」
「いえいえ、勿論碁の話」
 初代宗桂ならばいざ知らず、全盛期に比べれば衰えたとは言え第二十八世本因坊の雅号を有する、碁打ちの頂点を極めた相手に挑むなど無茶なこと。
「ご馳走様でした」
 遠回しに惚気られ、少しばかり本気で羨ましくなってしまう。
「お粗末様で……それと慈乃、男の子の前でそんな顔するもんじゃないわよ」
「響ちゃんはおばさんになんて興味ないんだからね」
「あら残念、そうなの?」
「そろそろ腹もこなれて来たし、風呂もらうね」
 自らの性癖に詰めろがかけられそうな雰囲気を察し、響は足早に風呂筋へと逃れた。

 鑑連が考え出したのだという立花家秘伝の脳疲労回復術は、氷で冷やした水風呂と四十度前後の温い湯を交互に浸かるというもので、これを行う為に、立花家の浴室は十畳ほどの広いスペースに二つの浴槽が入った贅沢な造りとなっている。更に趣味人としての鑑連の注文から、室内は総檜という仕様になっており、これでは掃除をする人間も大変だろうが、そこは立花の母のすばらしさ、浴槽は毎日、浴室全体となると流石に二月に一度ほど業者の手を借りるらしいが、いつ入ってもそこいらの旅館では比べものにならないほどに整えられており、響がこの家の風呂場を綺麗でないと感じたことは一度もない。
 それにしても、このような贅を為せる立花の財力こそ恐るべし……と、これだけで二畳はありそうな主浴槽の温い湯に浮かびながら、極楽気分でぼんやり考えていると、がらりと音が鳴り勢いよく風呂場の引き戸が開けられた。
「背中流してあげる!」
 現れた慈乃はタンキニとパンツタイプの水着姿。ピンクのボーダーがガキ臭く感じるのはデザインではなくモデルの問題なのだろうと、そんなことを考える程度には響も冷静を保てている。
「おばちゃんに止められなかったのか?」
「響ちゃんにこれ渡せば一緒に入ってもいいって」
 いくよー、と一つ前置きしてから、湯船に投げ込まれたのは将棋盤と駒が描かれた――舟囲いらしき心許ない囲いがデザインされている――トランクス型海パンだった。
「おじさん、わざわざこんな海パン履いてんのか」
 将棋に行った娘二人と話を合わせるのに必死なのだろうか、と思ったのだが、
「違うよ、これは響ちゃんの。お姉ちゃんと買い物に行った時に買っておいたの」
「なんで」
「だって、響ちゃん新しい水着なんて持ってなさそうだし、海に行く時困ると思って……響ちゃんに選ぶんだから本当は穴熊とかの方が良いかと思ったんだけど」
「いや、仮に穴熊でもいらないって。そもそも海なんて行かねーし」
 とは言え目下の急戦は逃れようがなく、贅沢を言える状況では無い。せめて舟囲いでも築かなければと、手早く裸玉を囲う間にも慈乃は浴室に入り込んでいる。
 どうにか囲い終え間一髪と胸をなで下ろす間もなく、その一手直後に慈乃は浴槽へ飛び込んできた。
「海行こうよ、楽しいよ。響ちゃんの水着も、この水着だって折角買ったんだよ?」
「もう使ったんだから、わざわざ海行かなくても良いだろ」
「海で使わないと意味無いもん」
「日焼けするしベタつくし、イヤなんだよ」
 攻め手を軽く捌きながら、響は五右衛門風呂のような鉄釜造りの氷風呂へ移った。全身の毛穴が音を立てて閉まっていくような冷気の中で、腹の底から内側の熱を絞り出すように息を吐く。
「大体、リーグ戦に集中しろよ」
 前期リーグ戦は九月まで、残り二月八局の折り返し地点を迎えており、響がこの台詞を口にするのも既に何度目か覚えていないほどだった。
「ちゃんと全部勝ってるもん、息抜きくらい良いじゃん」
「だから、その成績に対する自覚を少しは持てって言ってんだ。他の人間に失礼だろ」
 リーグが始まるまでは完全にノーマークで星を計算される側だった人間が、蓋を開けてみればこれまで十戦して十勝、その上それが女とくれば当然内外から注目が集まる。
 内面がどうであれ、外向きには将棋に対する態度を引き締めなければならない時期だ。
「解ってるよ、解ってるけど」
「とにかく海はダメだ。夏休みの間の六局も全部取る位の気持ちで行け」
「だって、気持ちなんてなくても勝てるもん」
「だとしても、最低限の礼を保て。それだけは勝つ側の務めだ」
 努力をしようと血反吐にまみれようと、奨励会の段位を昇り詰める上ではそんなものは無いに等しい。その大小に差はあれど結局は才能でしか生きていけない世界、慈乃が持つ暴力的な才能もそれだけで正義となることは、他ならぬリーグ参加者こそが誰よりも理解しているはずだ――それなのに、解りきったことであるのに、何故こんなやりとりを今更繰り返してしまうのだろう。自身とて何百人もの血と屍を踏み台にしてプロという地位に昇り詰めた存在であるのに、今更、叶わなかった彼らに礼を払えなどという言葉を吐いてみせる、それが偽善以外の何になるのか――ふと浮かぶ考え――慈乃の才能に蹂躙される彼らの姿に自身を重ねているとでもいうのか。
「響ちゃんだって、自分のリーグの時思い出してみてよ。私と指すより簡単に勝てるって感じてたはずだよ」
 事実であるからこそ、響は何も答えなかった。
 響が三段リーグを戦っていた三年前、慈乃はようやく初段に上がろうかという所だったが、家で指した時の感覚は間違いなくリーグに在籍していた誰より強かった。そして現在の慈乃の将棋からは、タイトル本戦であたるような上位棋士達と同等か、或いはそれ以上やも知れないというまでの深さを感じる。まともに指せば三段レベルに敵はいないだろう。
 慈乃の棋力は、響の成長を――まるで数値化して計測しているかのような正確さで――併走しており、出会ってから六年近く経つ今となっても響はその底を見極められずにいる。
 そうこう考え込んでいるうちに息が冷たくなっていた。時間の経過に気が付いて浴槽を移ると、間近に見る慈乃の顔は既にほんのりと赤らんでいる。
「私だって、頑張ってるんだから。今までみたいな負け、無くなったでしょ?」
「確かに、そうか」
「響ちゃんと約束したから頑張ってるんだよ」
「約束?」
「名人戦だよ。待ってるから早くプロになれって、響ちゃんが言ってくれたから、だから早くプロになっちゃおうって思えたの」
 表情は変えずに聞いていたが、湯に浸かっているはずの背筋がぞっとした。なりたいと思えばいつでもなれるという思考をしていなければ決して出てこないはずの言葉、そしてそれが思い上がりでないことを証明するかのような圧倒的成績――勝利も、それどころか敗北ですら望むままに手にすることが出来る。全ての結果は私の掌の上で予め決められている――まるでそんなことを言っているかのようだった。
「私がプロになれたら、響ちゃんのお陰だね」
 首からぶら下がるように手を回されて身体が寄る。重ねられた胸の、薄布の濡れた質感を挟んで、小さな二つの弾力とその谷間から響く鼓動を感じる。
「暑苦しい」
 触れ合う肌から伝わってくる体温は浴槽の湯よりも高い。
「響ちゃん氷みたいで気持ち良いんだもん」
 そう言いながら、左膝の上に臀部の窪みをぴたりと沈めると、二本のしなやかなふくらはぎで股をぎゅうと挟みこんできた。
「面倒臭いことしてないで、自分で氷風呂入れよ」
 膝に感じる肉の感触は、自然な重みなのか、それとも押しつけているのか、次第に厚くなっていく。
「やだ、あれきらい」
 首にかけられていた手が肩から胸へ滑ると背で緩く結ばれた。
「それに、響ちゃんとくっつくから気持ち良いんだもん」
 挟み込んだ太腿をレールにして、丸い尻の形を押しつけながら舐めるように付け根の方へ滑ってくると、背に回された細腕が引き絞られ、肉体は隙間無く重なった。なおも触れ合う肌の面積を増やそうとしているのか、ボトムを腰骨の尖った部分に擦り付けるようにしており、薄布の向こうにある溝の形状まで浮かび上がるように触覚へ透写される。
 巻き付いた腕がするするとのぼってくると、少女の肩周りに特有の、弾性に富んだ肉感が腋の下へ滑り込んできた。
「響ちゃんの腋、毛生えてるね……じょりじょりして気持ち良い」
 二の腕をねじりながら、毛の擦れる感触を楽しんでいるらしい。
「変態過ぎるだろ……気持ち悪い」
「私はちゃんと処理してるんだよ?」
 僅かに身体を離し上半身を湯船から出して、慈乃は自身の腋を見せつけるように左腕を上げた。
「ほら、見て」
 響の手を取り自身の腋の下へ持って行くと、指先で撫でさせる。
「ね、つるつるでしょ?」
 なめらかな肌には浴槽の湯とは違った僅かな湿り気があり、甘い匂いを放っている。
「だから海――」
「――頑張ったのに、行けなくて残念だな」
 先回りして答えると、むくれたような顔で黙り込み、抗議のつもりなのだろう、乱暴に湯船に沈んだので、跳ねた飛沫が響の顔にかかった。
 濡れた顔を拭うついでに伸びをすると、慈乃がその様をじっと見ている。
「良いなあ」
 人指し指を唇で咥えながら、心底羨ましいという風だ。
「何がだよ」
「お腹のお肉ついてないから」
 虹色に煌めく糸を引きながら、咥えていた指を離すと、響の腹に浮かぶ肋骨を下から上へ一つ一つなぞっていく。
「ああ、そいや水着なのに腹出してないな」
「別にそれが理由じゃないもん、これが可愛かったからだもん。ほら!」
 腹部を覆う水着をめくり上げると、勢いがつきすぎたのか、緩やかに膨らんだ丘の先の鮮やかな桃色がはみ出していた。しかし本人は気付いていないようで、その表情は一つも変わらない笑顔に満たされており、響も、言えば面倒臭くなると別段気にとめず流した。
「そんなにひどくないでしょう?」
 幼さの残る、整わない線に枠を引かれた肉体は、小さく窪んだ臍の周囲に、過去の怠惰による蓄積ではなく未来の成長への助走を感じさせる余分がある。
「腰回りがね、ちょっと気になるだけなの」
 肩幅ほどに足を広げて半身になり、脇腹から背の線を強調するように腰を曲げる。響の目の前に尻を突き出すような格好だった。
「でもクラスの平均よりは痩せてるんだよ?」
 見るからに柔らかく伸びた太腿の、ミルクの香りがしそうな白い肌は、若さを誇示するかのようにすらりと水を弾き、その一滴の雫がボトムからはみ出した膨らみの弧に沿って垂れていく。濡れてぴったりと肌に吸い付いたボーダーの布地は、背筋から臀部への谷をくっきりと描き出しており、無防備な二本の足の付け根、みずみずしい腿の内側に出来たコケティッシュな影に潜むように、布と肌の僅かな隙間から一段と柔らかそうな暗い丘陵が覗けている。
「ケツ向けんな」
 響は舌打ちを一つ挟みながら、掌で掬った水をぴしゃりとかけた。
「お尻見て欲しい訳じゃないもん、背中だよ」
 流石に恥ずかしくなったのか、振り返った慈乃は視線を合わせないまま響に抱きついた。
「だから暑苦しいっつーの、離れろ」
 引き剥がそうとした響に抵抗するように、先ほどと同じように腋下から背に通した手をより一層がっちりと結んだ上に、今度は二本の足を腰に回して絡みつく。
「ぜーったい離れない」
「子猿かよ」
「響ちゃんが親猿なら良いよ」
「生まれた瞬間に捨てるね」
 離れろ、イヤだ、離れろ、イヤだ――同じやりとりを幾度となく繰り返しながら、引き剥がそうとする響も、しがみつく慈乃も、双方の肌を濡らす汗にずるずると滑り、無駄に身体が擦れあうばかりだった。
「良いじゃん。海に行っちゃダメなんだから、これくらい」
「ベタベタされて鬱陶しいんだよ、文句あんなら大人しく浸かってろ」
「ヤダ! ヤダ! ヤダ!」
 慈乃はダダをこねるように身体を揺らし始め、こうなると響も観念するしか無い。諦めの息を一つ吐いて、なおも興奮冷めやらぬといった風に暴れる慈乃を好きにさせておいた。
 暫く放っておけば当然息があがり、重なった胸の心音も激烈な勢いになっている。
 今ならば容易に引き剥がすことが出来るだろうが、しかしそんなことをすれば後で散々喚かれるに決まっている。響は敢えてそのままにしておいた。
「つーか、もう冷たくねーだろ。離れろよ」
「いいの、冷たくなくても気持ち良いから」
 響の肩に顎をのせて、腕の力は緩くなったが身体ごとゆっくりと擦り付けている。響は自分が洗濯板にでもなった気分だった。
「響ちゃんとくっついてるとね、おへそのちょっと下の辺りがね、じわーってあったかくなってきて、すごく気持ち良いの」
「何だそりゃ、便秘治療かよ……ともかくさっさとあがれ、のぼせてぶっ倒れるぞ」
 ぼやくと、首筋に頬が寄せられた。
「ねえ。髪、触って」
「やだよ」
「触ってくれたらもうあがるから……おねがい」
 自分からあがってくれるならと、言われた通り手櫛で撫でてやる。
「ほれ、もう良いだろ」
 物足りないとでも言いたげな、未練がましい表情を見せたが、約束だろうと押し切ってやると今回はひどく抵抗されるようなこともなく、ようやく平穏を取り戻した浴室で安堵の息を吐きながら、響は水風呂へ移った。


 置き衣装の寝間着に着替え、立花の母が布団を用意してくれているはずの部屋へ向かうと、確かに布団は敷かれていたが、何故か二枚、それも部屋の中心にわざわざぴったりと並べてあり、片方では既に慈乃が寝転がっていた。
「自分の部屋で寝りゃ良いだろうに」
「今日はとくべつ。お昼寝なんて滅多にないし……ダメ?」
「もっかい布団運べとも言わねえよ。その代わり、すぐ寝るからな」
 電気を消し、布団へ倒れ込んで目を閉じる。
「ねえ、響ちゃん」
「喋るなら部屋戻れ」
「……どうしても海ダメ?」
「お前が行きたいなら行けば良いさ。海行く程度でどうこう言うやつなんて、いねえよ」
「じゃあ」
「ただし友達と行け。俺は自分の対局があるから無理だ、海行って体力使う暇ねえもん」
「海じゃなかったら、良い?」
「……どこだよ」
「花火とか、お祭りとか」
「……休み中のリーグ戦、六局全勝したらな」
「それじゃあお盆過ぎちゃうよ」
「八月末にそこの神社でやってんのがあるだろ」
「あんなの、毎年行ってるじゃん」
「もし一回でも負けたらあれもダメってこと」
「……響ちゃんのケチ」
「勝手に言え。もう寝るぞ」
 氷風呂で限界まで冷やされた頭には、余計な思考が沸いてくる余地も無く、間違いなく深い眠りにつけるだろう。慈乃にシャツの裾を握られているらしいと知覚したのが最後で、それ以降はぷつりと途切れた。