六の四

 夕食の準備が出来たという立花の母の声に目が覚め、なおも涎を垂れ流して眠る慈乃を洗面所まで引きずって行き、二人で顔を洗ってから食卓へ向かうと、銀乃介と鑑連が二人で晩酌していた。聞けば銀乃介は新潟帰りに直接来たとのことで、呑んでいるのも土産の地酒だという。
「つーか慈乃、シャツ透けてんぞ」
 銀乃介の言葉に改めて見てみると、なるほど確かに。慈乃が着ているのは響が中学の頃に着ていたシャツで、立花家に置き衣装していたものをお下がりとして使っているらしい。布がかなり弱くなっており、光の強い場所では白地の下着についたピンクの小さなリボンまではっきりと透けている。
「スポブラかよ、高校上がったのに色気ねえなあ」
 そんな銀乃介の馬鹿笑いに気分を悪くしたのだろう、
「着替えてくる」
吐き捨てるように言う。
「慈乃のおこちゃまブラなんて誰も気にしねーよ、何ならパンツも批評してやろうか?」
「銀ちゃんとかお父さんに見られるのが気持ち悪いから着替えるの! バカ!」
「おお、こわいこわい」
 なおも煽る銀乃介を睨み付けながら慈乃は出て行く。響はこの世の終わりのような表情で固まった鑑連が不憫で仕方なかった。
「おじさんは完全な巻き添えだし……気にしない方が良いよ。本気で言ってないって」
「いーや、アレは普段から思ってるからこそ出た言葉だな。気にすんなおやっさん、娘が父親を嫌うのは健全な証らしいからよ、呑んで忘れようぜ」
「銀は少し黙ってろよ」
「おやっさんだって本気でヘコんじゃいねーよ、なあ?」
 気軽に肩を叩く銀乃介に、
「いや……確かに最近避けられている気がしてたんだ。風呂上がりに涼んでいた時も……あからさまな目だった、汚物を見るような……あんな目で親を見る娘じゃなかった」
鑑連は落ち込んでいる様子を隠さない。
「色気づいてんだな。そういう時期だよ、仕方ねえって」
「バカを言うな、早過ぎる。ただでさえボーッとしてる子なんだ、まだ親の目が必要だ」
 双方かなり酒が進んでいるのだろう、会話の方向性がまともでない。
 響が呆れていると、刺身を盛った大皿を抱えた千代が入ってきて、
「そりゃパンツ一丁でうろついてるの見れば慈乃だって嫌な顔するわよ、私も見たくない」
どうやら汚物を見るような目をされたのはそれなりの理由があるらしい。聡明な長女からも見捨てられた哀れな父だった。
「おい銀乃介、聞け。私はな、かつて碁打ちの頂点として恐れられたんだぞ、引退すれば第二十八世本因坊と呼ばれるんだ、それが何だ、この家での扱いは、おかしいと思わんか」
 いかな算砂と言えども、まさか風呂上がりにパンツ一丁でうろつく人間に引き継がれている未来など読めなかっただろう。
「俺ら将棋指しだからなあ、本因坊って言われてもちゃんとした重みがわかんねえんだよ」
「憎い、将棋が憎い! 私がこの家でこんな扱いをされるのは全部将棋のせいだ」
 千代は呆れた態度を隠さず、
「父さんがそういうことをしてると、他の碁打ちの方に迷惑だから、少しは肩書きを自覚した振る舞いをしたら?」
痛烈な一言だった。
「いつから呑んでんの」
「私たちが帰ってきてからずっとだから、三時間弱ってとこかしら。本当に二人で一升瓶空けちゃいそう……あ、でも五本買ってきたから、響は焦らなくても大丈夫よ」
 話している間に慈乃が戻ってきた。下のショートパンツは履き替えず、薄手のパーカーだけ新しく羽織っている。このパーカーも響が以前着ていた物だ。
「なんかやらしいな、それだと下なんも履いてねえみたいだぞ」
 慈乃の身体にはやや大きいためショートパンツまで隠れてしまい、確かにそう見える。
「いちいちうっさいセクハラオヤジ、そういうの、本当に気持ち悪いんだけど」
「俺は響の代弁してやってんだよ」
「響ちゃんは良いの、銀ちゃんが言うと気持ち悪いだけ」
 相手にしないことを決め、響はマイペースに食事を始めた。

 特に祝い事がある訳でもなかったが、明日からは慈乃が夏休みに入るということもあり日付の変わる時間帯になっても食卓は賑やかだった。
 いつの間にやら並んでいた将棋盤と碁盤を挟んで銀乃介と鑑連が向かい合い、銀乃介の四枚落ちに対して鑑連は八子の置き碁、更に持ち駒にレートを定めて双方の合意があればコミで買い取れるというルールの下、同時進行で対局している。単なる酒の余興ではあるものの、これが予想外に白熱し、長考防止用の対局時計まで持ち出される始末だった。
「おっちゃんよう、アンタこのままじゃ詰むぜ。何か張った方が良いんじゃねえか」
「解っている……金をよこせ」
「かれこれ三十目以上コミついてるけど、本当に出せるのかい?」
「私を誰だと思っている。さあよこせ」
「そうかい。金一枚四目のお買い上げ、毎度ありってなもんや三度笠ってか」
 消費者金融で繰り広げられていそうな会話を聞きながら、響は土産の地酒をちびちびと舐めるように味わっている。
「アコギな真似しやがって、金売ったところで詰み筋はキッチリ確保してんじゃねーか」
「お父さんも本気で目算した上で買ってるもん、格好悪さで言ったらどっこいだよ」
 隣に座った慈乃と、小声でそんなことを語り合いつつ、
「どういうこと?」
どちらのルールも全く知らない、立花の母への解説も忘れない。
「病人相手に、この薬を買えば治る、って文句で偽物の薬を売りつけてる感じかな」
「まあ、ひどい」
「でも、お父さんも大人げなくて、本気で巻き上げてるの。病人は悪徳高利貸しだったの」
「それはまた良くできたお話だこと」
 正に因果応報の見本のような光景である。
 慈乃の解説によれば碁盤は鑑連の圧倒的勝勢らしく、銀乃介としては生かさず殺さずといった具合に攻め手を緩め、相手を捌きながら、少しでも駒を売りつけてコミを稼ぎたいところだろう。勝敗はもう暫くつきそうにない。
「ちょっと外す」
 一言残し、響は厠へ立った。