六の六

「さっすが、優等生は言うことが違うわね……あー、腹立つ」
 しかし女の冷笑はなおも崩れない。
「響だって、慈乃の相手してるんだもの、絶対的な能力差ってヤツを自覚した瞬間の絶望くらい解るでしょう。だから今だってわざわざ三段リーグの話なんて持ち出してる。ギンが私を見るのと同じ視線で、貴方は慈乃から見られているんだものね」
「ヒス起こして無茶苦茶言ってんじゃねえよ。慈乃相手なら百局指して五分、いや、五つ六つ勝ち越すくらいはついてるだろ」
 キッチリ割り出す事などしてはいないがその程度のはずだと、響が言うと、千代は一笑に付した。
「まさか、あの子が一度でも本気で指したことがあると思ってるの?」
「厭味言われたか何か知らねえけど、下らないこと言うのは大概にしとけ」
 対局で手を抜いているなどということは、冗談でも言ってはならないことだ。このやりとりの間に、響の瞳には薄い怒りの色すら浮かんでいた。
 夏の夜の虫の声。池では、眠っていたはずの市松が、殺気でも感じたというのか、再び泳ぎだしている。その美しい足を水面に滑らせる千代は、響の様子を気にした風も見せずに言葉を続けた。
「今からちょうど十年前、一人の天才碁打ちが全盛期を迎えていた。本因坊戦の八連覇を筆頭に大三冠を三期連続で独占、世界中を見渡しても向かうところ敵無しだった――」
 立花鑑連その人のことであると、響でなくともすぐに解ることだった。碁が現在の棋戦を行うようになって以降、大三冠の独占も、本因坊戦八連覇も、立花鑑連以外には誰一人として為し得ていない偉業だからだ。
「――ところが、碁打ちとしての頂点を極め神の一手に最も近いとまで言われていたその人物は、とある非公式対局のただ一度の敗戦で、引退寸前にまで追い込まれたの……さて、立花鑑連をただ一度の対局で精神ごと粉砕した女のコとは、一体どこの誰でしょう」
「まさか慈乃だってのかよ、十年前っつったら五歳児だぞ」
 十年前、当時全盛を誇っていた鑑連が引退を囁かれるまでの急激な落ち込みを経験したということは情報として知っているが、その裏にそんな敗戦が隠されているなどとは聞いたことがないし、ましてやその相手が当時五歳児の慈乃だったなどと語られては、笑い話にもならない。何故こんな子どもすら騙せない与太話を始めたのかと、笑うことも出来ずに呆れてしまう。
「慈乃は、言葉を覚えるのが極端に遅くてね。障害があるかも知れないってお医者さんにも言われてて、何度も検査したんだけど、原因は解らなくて、家族全員が覚悟するような子だったの。だから、まさか碁なんて打てる訳ないと思ってたし、誰も教えていなかった」
 呆れきった響を説き伏せようとするでもなく、それは最早独り言だった。
「簡単なルールを説明しただけだったのよ。要は石で囲めば良いって、それだけ。将棋で言ったら駒の動かし方を教えて相手の玉を詰ませれば勝ちって伝えるだけの説明。棋理も定跡も、何一つ知らない状態だった。慈乃を楽しませる為の、ただの遊びのつもりだった」
 ふと言葉を止めると、響に視線を向け、
「勝ってから、あの子何て言ったと思う?」
蒼白い月の魔力か、そう問いかける千代の瞳には狂気じみた何かが宿っている。
「お父さんほとんど間違えなかったねって、そう言って笑ったの。まともに喋ることさえできない舌足らずな喋り方で、碁打ちとして当時間違いなく世界最強だった、もしかすれば碁史上でも最強クラスだったか知れない父さんを相手に、五歳の女の子がそう言ったの」
 荒唐無稽な内容に、ではなく、それを語る千代の雰囲気に圧倒される。夏の夜の湿気と池の水面の静かな涼しさとが混じり合った、背筋が寒くなるような気色の悪さだった。
「父さん、倒れたわ。とてもじゃないけど二度と碁なんて打てないだろうってところまで精神が沈んでた。今の所まで立ち直ったこと自体、立花鑑連だからこそ果たせた奇跡よ」
 何かに憑かれたように、抱え込んで内に隠していたものを吐き出すように、感情の揺れは再びの薄い涙となって目元に滲んでいる。
「慈乃は、百手先くらいなら一瞬で、その気になれば何手でも、全ての変化が映像として見えているんですって……無数に存在する盤上の可能性の全てが、好手や悪手の区別なく見えているのだから、後は相手が何を指そうと自分の勝ち筋を踏み外さなければ良いだけ。こんなの、もう読みとすら言えない、ただ膨大な情報を処理するだけの作業、普通の人間じゃ何十万年かけても終わらないような、途方もない作業よ。
 ――その作業を、あの子は一瞬で終わらせる」
 ふつう、盤面を読むという行為は、指し手が自身の思考や経験に基づき幾つかの候補を選んだ上で、或いは明らかに棋理から外れるような悪手を排除した上で、行うものである。一手指すのに百通り、二手なら一万、三手で百万、四手で一億……そんな馬鹿げた具合に枝分かれする局面を、一瞬で百手先まで全て読み切るなどという行為は、仮に量子計算機が実現したとしても不可能なことだ。
「アホ臭い。局面なんて無限にあるんだ、百手先に存在する全ての可能性を一瞬で見切るなんて、それこそ宇宙の全てを理解するのと同じこと……神様でもなければできねえよ」
 仮に千代の語っていることが全て事実であるとすれば、将棋や囲碁、加えてチェスなども、つまり二人零和有限確定完全情報ゲームに分類されるものであるならば、慈乃はそのルールを理解した瞬間に必勝乃至不敗の存在になるということ。真面目に語る内容としてはあまりにも酔いが足りなすぎる。
「そうね。あの子は本物の神なのかも知れない……将棋の神様が将棋なんてどうでも良いと思っているなんて、おかしいけれども、きっと間違ってないわ。指す前から全て知っているものをどうして楽しめるって言うの、神様はいつだって退屈しているものなのよ」
 語る千代の表情は、嘘や誇張の類ではまず現れない深刻さが滲み出ている。
「あの子の中では、碁も将棋もあの子がルールを理解した瞬間に死んでしまった。だから手を抜くの、勝ちたくないから、結果の見えている勝負を必死で考える相手の姿が哀れで仕方ないから、そうして壊れてしまった父さんを見ているから」
 或いは無力感に押し潰されて気が狂ってしまったのではないかとすら、響は真剣に疑いたくなっていた。それほどまでに、あくまでも真実を語るような口調の千代が、とてもではないがまともとは思えない。
「本当に、神がモナドを配置して世界を作ったという説の縮図そのものなのよ。あの子にとっては盤上の全てが予定調和に過ぎないの。だから、あの子は将棋なんてどうでも良いと思っている。けど、盤前には響がいるから、響が将棋しか見ていないから」
 不意打ちのように出された自身の名にも、響は何も感じなかった。千代はほんの少しつかれているだけなのだと、そう考える以外にできなかった。
「このことを知っているの、立花の人間以外では貴方だけよ。決して口外しないで頂戴ね」
「話せるかよ、病院紹介されちまう」
 千代に背を向け、母屋の方へ歩き出す。
「もし本当のことを知りたいと思う時が来たなら、父さんに聞いて御覧なさい……きっと、響になら話すから」
 背後から届いた声に振り返ることはなく、
「厭味言われてヘコんだのは十分解ったから、早く寝た方が良い。つかれてんだ」
立ち止まって、見上げたつきに呟いた。
 静かな夜は月が蒼い。