七の四

 祖母が部屋に帰ってから、響は一人蔵に残り、蔵に残しておいた、例の対局相手の名が記されていない棋譜を眺めていた。蔵には電気が通っておらず、古行燈の薄暈けた朱のみが頼りである。
 指し込み制を採用していたのだろう、平手で指されたものの方が少なく、また駒落ちでも十兵衛は全て勝利している。もしもこれが本当に当時の名人を相手に指した記録であるのならば、六角の、あの異常なまでの執念にも頷けるが、幾ら何でも名人を相手に駒落ち勝負というのは信じがたく、実際に盤に並べてみようと、盤を引っ張り出した所で慈乃が現れた。
「響ちゃんここにいるからって、おばあさんが教えてくれた」
「ちょうどいいや。棋譜並べるから、手伝え」
 入り込んできた慈乃に棋譜を渡し、盤に駒を並べていく。
「響ちゃんのおじいちゃんと……相手の名前無いね。誰なの?」
「さあな、俺も知らない」
 何も言わずに並べてみて、慈乃が指し手を認めるようならば、本当にそうなのだろう。
 行燈の揺らめきの中、二人が無言で盤を弾くと、幼い頃の響が祖父の背中越しに聞いた、懐かしい駒音だった。

「指し込んでるけど……これ、相手も凄く強いよね」
 並べ終えた慈乃は嘆息するでもなし、ごく当たり前のように言った。
「相手は歴代名人の誰かって言われたら、お前は信じるか?」
「響ちゃんはどうなの」
「判断出来ないんだよ。小さい頃から見ていたせいか、客観的に判断しかねる」
 並大抵の棋譜ではないことはプロとしての目で見れば明らかだった。実際の所、慈乃に判断を委ねたのは、一人の将棋指しとして、祖父のしでかした事の大きさを認められない部分があったのだろう。
「だから、お前の感覚で良い」
 慈乃は僅かな間を置いてから、はっきりと頷いた。
「私は信じるかな、少なくとも当時のトップの人だと思う。序盤は時代が違うから何とも言えないけど、中盤の流れに関しては文句なく、今でもこれだけ指せる人は殆どいないよ」
 それから細かに一手一手を検討していく中でも、慈乃の考えは揺るがず、むしろ確固としたものになっていったらしい、最後には、この人相手なら誰が指しても勝てないと断言するまでになっていた。
「響ちゃんも、こんな風になるのかな」
「どうした、急に」
「そうなったら楽しいんだろうなあって思ったの……それだけ」
 盤から駒を片付ける際、慈乃は呟き、それ以上の追求を逃れるように曖昧に笑った。



 翌日の昼過ぎ、大きな棋戦で勝ち残っているから、もしかしたら暫く世間に注目されるかも知れないが、あまり動揺しないでくれと、王竜戦に関する前置きを一言残してから、響は短い帰郷を終えた。
 帰りの電車でも慈乃は何やかんやと話しかけてきたが、響はそれを相手にすることなく、ただ一つの事だけを考えていた。
 名人に香を引く――その行為は将棋指しにとって幸福なのだろうか、それとも不幸なのだろうか。
 現実に為した十兵衛の心中など、今の響には到底察することも出来ない。