七の五

 盆の中日に初戦が行われた王竜挑戦者決定戦の対局相手は現神座位諏訪四郎九段、四八歳でのタイトル保有は六角を除いて現役最高齢の古豪である。一番は響の後手番から諏訪神座の新石田流を受け切っての勝利となった。
 あと一つ勝てばいよいよタイトル挑戦と主催新聞社の興奮も高まるばかり、その他メディアもお蔵入りする可能性を考慮していないのか、現役高校生棋士タイトル獲得への道のりなどという仰々しい取材が申し込まれるようになり、無論響は連盟から厳命されている主催新聞社と将棋専門メディアのものを除いて全て断った。将棋の普及活動というものをきちんと考え、棋界の未来に繋がる行動を取れる棋士は立派だと思うが、現状ではそんな余裕も無く、また、タイトルというだけで騒ぎ立てる風潮も好きではない。という内容を銀乃介に語ったところ、彼は嫉妬を隠さずに拳骨を一つ響の頭へ落としていった。
 ――転じて立花家近所にある神社の小さな夏祭り。響は慣れない浴衣の袖をプラプラと揺らしながら露店で買ったイカ焼きを咥えて金魚を掬う慈乃を待っている。番勝負二局目は明後日、わざわざこの時期に祭も無いだろうとは思うのだが、約束をしてしまった以上は仕方がない。慈乃は例の約束通り、夏休み中のリーグ戦を全勝し、後の結果を待つことなく既にプロ入りを決めている。
「響ちゃんもやりなよ」
「いいよ、取っても水槽なんて無いし」
「うちの池で飼えば良いじゃん」
「市松に食われるだろ」
「市松はそんなことしないよ」
 市松は少しぶさいくなだけで良い子なのに、などとぶつくさぼやきながら、見れば既に六匹ほど取っているらしい。テキ屋のオヤジの表情も、そろそろ帰ってくれよ、という方へ変化するだろう。
「あ……破けた」
 良い頃合いだ。
 ほっとした表情のオヤジに入れて貰った、金魚袋のピンクの紐を手首から垂らして、次に慈乃が向かったのは型抜きの屋台。
「ねえ、響ちゃんもやろうよ」
「やらない。苦手なんだっつーの、こういう手先がプルプルしてくるのは」
 無視して歩き出せば慈乃も後からついて来た。
「響ちゃん、ぶきっちょだよね、字もヘタだし……タイトル戦の時に困るよ?」
 タイトル戦の揮毫を言っているのだろう。
「お前も、気が早いな……境内の方行くぞ、一休みする」
 受け流し、人混みから距離を取るように静かな暗い道を行く。馴染みの境内には影もなく、夏の終わりを告げるような弱々しい蝉の声が聞こえる。
 本殿への階段に腰を下ろすと、隣に座った慈乃が、いつの間に買っていたのか、綿飴に顔ごと突っ込むようにしながら言った。
「タイトル、興味無いの?」
 だって普段と全然変わらないからと、間抜けな癖に鋭い指摘だ。
「無くはないだろ、多分な……でも、解らない。タイトル戦とそれ以外の棋戦ってそんなにはっきり分けて考えないといけないもんかなってのは、最近の周り見てると、少し思う」
 そこで得る一勝、或いは一敗に、価値の差は存在しているのだろうか。少なくとも周りは、明確にあると捉えているらしい。それはつまり、将棋指しが不敗という頂点を目指すことが既に放棄されているという現実でもある。
「名人だって、今はタイトルの一つじゃん」
「そうだけどな……タイトル獲ればそれで名人ってのも、何か、違う気がするよ」
 祖父の存在を知ってしまってから、連盟の行っている順位戦、その先にある名人戦というものの価値さえ揺らいでいるような気がしていた。在野の真剣師に香を引かれた人間を名人と称する、その制度に何の意味があるだろう。
 名人とは、指定された対局を制すれば名乗れるものなのだろうか。年に一度代わるような交代制名人は、それは果たして名人なのか。究極、いずれは他者に負ける、それも一度ではなく何度も負ける人間を、名人と認めてしまうような制度に価値はあるのだろうか。
「ガキの妄想なんだけどな……名人に襲位した人間は、負けちゃいけない存在な気がする」
 祖父の存在を知ったせいだろう。生涯不敗という戦績自体は未だ確かでないが、少なくとも、祖父が実家で暮らすようになって、あの蔵で指した将棋には、負け将棋が存在していないのだろうから――ならば名人こそ不敗でなければならない。
「じゃあ、響ちゃんがなれば良いじゃん。不敗の名人」
「こんなの……人に聞かれたら何されても文句言えないような話だよな」
 響が自らの不遜に気が付き会話を打ち切ると、慈乃はそんな心中などおかまい無しという風に、脳天気に綿飴をむさぼり食っていた。