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              八の一

 始業式、校長の挨拶では当然のように響のタイトル挑戦が話題にのぼり、全校を挙げて応援するという言葉は確かに有難かったが、壇上に上げられてマイクを渡されたことには少々難儀した。御礼の言葉と共に、普段の棋戦と変わらずに臨みたい、ついでにこれを機会に将棋というものに少しでも興味を持って頂ければ嬉しいです、というような月並みな文言を並べてその場は逃れたが、どうにも立派に扱われすぎて始終落ち着かなかったのである。
『浅井君は本校の誇りです、学生の鏡です。皆さんも、何か一つのことに打ち込み励む中で、彼のように、真摯で、そして誠実な人格を築けるように、十分努力して下さい』
 聖人君子でも語るかのような校長の口調がまた辛い。
 タイトル戦というステータスの魔力なのか、棋士という人種が世間から飼い猫のような感覚で愛されていることが、響にとっては違和感でしかなかった。檻の中の珍獣を眺めるという方がよほどに正しい接し方であるのにと、自身がそう感じてしまうほどに。

 SHRを終えると同時に担任から呼び出され、久々の誘いを受けていた麻雀部のメンツに断りを入れてから、半ば担任の私室として利用されている音楽準備室へと向かう。
 担任は一年の頃と変わらず、支倉奈緒という二〇代半ばの音楽科教師である。教師生活三年目という新米教師は、昨年の響たちのクラスが初めての担任経験であり、本来であれば響のような事情のある生徒を受け持つはずもなかったが、彼女にはかつて奨励会に在籍していた弟がいることから、他の人間よりも棋界の事情を理解出来るのではないかという学校側の意図があったらしい。いずれにせよ苦肉の策だったのだろう。
 おっとりしているように見えてズケズケと毒を吐く遠慮のない性格ではあるが、そこは音大出のイメージにピタリと一致するような優雅な外見が緩和しているのか、生徒からは広く慕われている。
「公立の進学校だからね、こういうニュースが珍しいだけよ。生真面目に受け止める必要なんてないわ」
 教員用コーヒーを響にも差し出しながら、あらかじめミルクを一つ垂らしてくれている辺りは慣れである。学校絡みの話はほとんどここで行われる為、響はここの常連と言っても良いほどに足を運んでいた。
「将棋指しの人格なんて見本にしたら、日本は一晩で修羅の国ですよ」
 たとえば、タイトル襲位の共同記者会見で、第一声『おまんこ!』と叫んだ棋士がいた――その名を二階堂秀行。才覚だけなら同世代の六角より上を行くとまで言われ、酒と女さえこの世に存在していなければという文句と共に語られ続ける、紛れもない天才である――ことなど、間違っても校長は知らないのだろう。既に引退した人物だが、現在は現役時代の功績から連盟の名誉理事を務めている。『おまんこ!』でも名誉理事である。そんな奇行を取る人間であっても実力さえあれば全て許される、勝負の前には社会常識などケツを拭く紙にもならないという考えがまかり通っている、そういう世界なのだ。
「自分からそんなこと言わないの。まあ、話聞いてる限りでは私もそう思うけど」
 奈緒はクッキーを咥えながら笑顔を見せた。遠慮無くお食べなさいと冗談めかして言われたので響もポリポリとかじりだす。
「プロなんてそんな人種ばっかりよね。小さい頃からそれ一本でやったんじゃ人格なんて歪んでふつうよ」
「いや、俺もプロなんすけど」
「浅井くんか……うん、やっぱり歪むんだね」
 奈緒はそれなりに名の通った音大の出であり、学生時代は演奏活動一本で生計を立てる夢を見ていた時期もあったという。そういう人間だからこそ出た言葉。専門性の高い世界で上へ行く人種というのは、大抵どこかのネジが一、二本ゆるんでいるものだ。
「コンクールとか出るとね、本当に漫画みたいなマザコンとかがいるのよ。男も女も良い年した大人がオカーサンオカーサン言ってるんだから、思い出すだけでも気持ち悪い――」
 身震いしてみせるように自身の身体を抱くと、無自覚のうちに豊満な胸を強調する結果となり、純白のブラウスに押しつけられることで浮かび上がった鮮やかな下着のラインも含めて、響は思わぬ眼福に与った。
「――ねえ、浅井くんもマザコンだったりするの?」
 響の顔を覗き込むように前屈みの姿勢を取ると、ボタンを一つ外しているブラウスからはこぼれ落ちそうなやわらかおっぱいの深い谷間が覗けている。手を伸ばしてはならないという意識が一瞬でも抜け落ちたなら、その瞬間に理性のタガなど月の果てまでぶっ飛んでいくことだろう。
「別に、そういうのは」
 おっぱいはすごく好きですけど、などと口走りそうだったのを堪えて表情を保つ。実のところ――幼児プレイ! そういうのもあるのか――という心境だったが。
「あっそう、つまんないわね」
 退屈を隠さない態度は教師としての資質を疑われかねないが、学生からすれば気が楽だ。
 奈緒は指先についたビスケットのカスを擦り落とすと、引き出しから一枚のプリントを取り出した。修学旅行の簡易予定表である。
「で、修学旅行なんだけど……どうなりそう?」
 どうやらこれが本題らしかった。
 王竜戦七番勝負は十月から最長で十二月末まで、一方で高校二年の二学期と言えば修学旅行の時期であり、こちらは十一月十日から五日間の日程で京阪方面を巡る予定となっている。時期が重なることから修学旅行を欠席するかも知れないと、決定戦に勝利した時点で奈緒には連絡してあった。
「第三局が十一月の十・十一日なんで、初日と二日目に被ります。それと前夜祭にも出席しないとまずいみたいで、九日の学校も少し早引けするかも知れないです」
「途中参加とかはどうとでもできるけど、第三局ってどこでやるの?」
「高野山金剛峯寺。本殿に上げて頂いて指すらしいです、そこは結構楽しみなんすよね」
 空海の寺、と言えば日本人なら誰でも解るだろう。高校生の身分としても正しく日本史でやっている範囲であるだけに、響をして人並みの好奇心を抱かせていた。
「和歌山か。丁度良いかな、直で来られるし。宿さえ解っていれば一人で大丈夫でしょ?」
「そこは問題ないですけど……体力的に少し不安で」
 行きたくないという訳ではなかったが、響は参加を見送るつもりでいた。自身にとっても未体験となる二日制対局の直後となるのだから、精神的な面で即座に高校の友人と騒ぐ気分に切り替えられるか不安であるし、肉体的にも合流すれば迷惑になるほど弱っているかも知れない。
 そういった点をどのように伝えれば良いかと迷っているうちに、奈緒の言葉は早かった。
「焦る必要なんて無いの。何だったら一日休んでからでも、四日目の朝から来られるんだから。ね、お願い! 四日目に撮る集合写真、卒業アルバムにも載っちゃうのよ」
 挙げ句ダメ押しするようにそっと手を取られてしまえば、これで墜ちない生徒はいない。若い女教師には生徒を操る魔力が宿っているものだ。そして響も例外ではなく、この魔力には抗えない。
「解りました。ただし、いつ合流できるかは本当に解らないので、頭数把握しなきゃ処理できないようなことは待たずに進めて下さい。別料金払う程度なら構いませんから」
「うわっ……可愛くないことサラッと言うわね。周り引かせるわよ、そういうの」
 打って変わってげんなりした表情で、握っていた手を放り出す。
「プロですから。歪んでてふつう、なんでしょ?」
 言葉通りの歪んだ笑顔で、響はそう応えた。
 それから暫く、クラス内の事柄から私生活での料理失敗談まで、下らない話をしているうちに、いつの間にかかっていたのかBGMはチャイコフスキーピアノ協奏曲第一番――奈緒は当初、この曲をチャイコンと略す癖が抜けきっておらず、チャイと聞いてもインドのお茶しか浮かんでこない響と話が噛み合わなかった――クラシックなど滅多に聞かない響もすっかり慣れた曲である。
「慣れてくると悪くないね、こういう曲も」
「浅井くんも目覚めたか。良いことだ」
 仕事らしい書き物をしながら、奈緒の横顔が嬉しそうに緩む。
「先生はやっぱりクラシックしか聞かないの?」
「んなこたないよ。ドラクエのサントラとかも家にはコンプしてあるし」
「ドラクエって、ゲームの?」
「ドラクエの曲は大学時代の友達にも好きな子多いんだって、割とホントに」
 音大生がゲーム音楽を好むというのも意外なことだと感じながら、コーヒーが切れたのでお代わりに立ち、私も、と突き出されたカップを受け取る。
 サーバーから注いでいると、奈緒がふと書き物の手を止めて言った。
「好きだからやってるんだけどさ、何かしらの目標が出来ちゃうと、やっぱり楽しいだけじゃなくなるのよ。好きな楽曲を聞いてるはずなのに、現実思い出して嫌になったりね」
 自身のカップにはミルクを一つ、奈緒のものには角砂糖を一つ。
「それでドラクエっすか?」
 ありがとうと受け取った奈緒からは、一瞬、しかし確かに憂鬱な色が見えた。
「そんな感じかな……勿論それだけじゃなくて、単純にドラクエが好きなんだけどね」
 両手で抱えるようにしたカップで口元を覆う、或いは表情を隠したかったのか知れない。
 耳に感じる煌びやかな旋律からは、この華々しい音楽を紡ぎ出す人々が外部には理解し難い葛藤を常に抱え込んでいることなど、到底想像も出来ないが、目の前で語られた体験はその世界で戦ってきた人間のものに違いなく、この矛盾、相反する事象は、響の心中に秘められていたとある問いを浮かび上がらせた。
「先生にとっても、やっぱりコンクールとか大きな舞台って特別だった?」
「また突然ね……どうして?」
「何となく、最近周りに置いてけぼり食らってる感じがして……将棋みたいに勝敗がつくものでもないんだろうけど、参考までに聞いておこうかなと」
「置いてけぼりって?」
「タイトルに勝つことだけが目標みたいな言われ方されると、どうして将棋を指しているのか、解らなくなりそうで」
 結局は世間に迎合した見せ物としての指標に過ぎない。解り易い図式の為に商業として作られた制度に過ぎない。将棋の本質とは何の関係も無い。むしろ将棋というものを檻に閉じ込めているのと同じではないか。称号を得たからといって、不敗の頂に辿り着ける訳ではないのに。――ここ最近、そんな考えばかりが浮かぶ。
 しかしそれは他者の過去に踏み込むにはあまりに不用意な言葉だったか知れない。舞台に上がることを認められた人間が、その権利を得られなかった人間に尋ねる。この構図の残酷さを響は失念していた。奈緒という大人の優しさに甘えてしまっていた。
 響の問いに、奈緒は、なるほどねと呟くと、背もたれをギシギシと軋ませながら伸びをした。そのままの姿勢で、宙に向け大きな息を一つ吐き、天井の蛍光灯をぼんやりと眺めながら、
「私じゃ参考にならないんじゃないかしら。規模が小さいのではそれなりに賞貰ったりもしていたけど、大きな舞台にはほとんど縁が無かったから」
でなきゃ高校教師なんてやってる訳がないでしょ、と続けた言葉は、生徒に向けるものとしてはあまりにも直球である。
「一回だけ、学生の頃に出た国際コンクールでファイナルに残ったけど、私の場合は浅井くんと正反対で、欲が出てダメだった……だから本音を言うと、浅井くんみたいな考え方ができる人種を見ると、羨ましいし、その何倍も妬ましい」
 奈緒はそう言うと、恥じらいと憂鬱の混じり合った表情を隠すような、作り笑顔だった。
 響は、自身の下らない青さで必要のない恥を掻かせたことにようやく気付き、悔やんだ。
「ダメだったお陰で教師になってくれたなら、俺たちは有難いっすけどね」
「何よ……ひょっとして口説いてる?」
 一転して軽い調子になる辺りが本当に良い教師、優しい大人だ。
「だとしたら、どうなの?」
 まけじと乗ってやる。
「年収幾ら?」
「把握してませんけど、今年は八桁行くんじゃないかな」
 税金などの関係は全て立花家を通した会計事務所に任せてあり、響自身は去年幾ら稼いだのかも把握していない。高校生の身分で稼ぐ額としては冗談のような数字だろうという程度にしか考えたこともなかったが、今年に関しては王竜戦という高額棋戦を勝ち抜いた事もあり、去年一昨年に輪を掛けてとんでもない額になっていることは確かだ。
「高校生で年収八桁か……むむむ」
「何がむむむだ。恋愛と金を秤に掛けるなよ、ダメ教師」
「まだまだ、プロと言ってもガキンチョか」
 馬鹿な会話をしながらも、響はこの担任に心から感謝している。