八の二

 新学期が始まって間もなく、いつものように立ち寄った立花家で慈乃を相手に持ち時間一時間で指していた時のこと。普段なら研究の間は決して入ってこない立花の母が突然顔を見せ、呼び出されるままに大きな鏡台の置かれた部屋に着いていくと、部屋一杯に強烈な樟脳の匂いが立ちこめていた。
 箪笥の整理でもしていたのだろうかと考えていると、服を脱いで頂戴、と言われドキリとする。
 慌てて振り返ると、立花の母は平然とした表情で、
「ああ、パンツは履いたままで良いからね」
「何……どういうこと?」
「響くん、タイトル戦の和服持ってないでしょう」
 言われてハッとした。タイトル戦は一般的に羽織袴で臨むものだが、響はきちんとした和服という物を用意していない。
「今から仕立てたんじゃ間に合わないから、鑑連さんのお古になっちゃうけど」
 狼狽し動きのぎこちない響から学生服をパッパと剥ぎ取ると、箪笥から出したばかりなのだろう、部屋中に漂う匂いの元となっているらしい、深い紺色の長着を肩に掛け、丈を測っていく。
「うん、直せば大丈夫そうね。鑑連さんの身体が大きくて良かったわ……初めてタイトルに挑戦した時に着ていたのよ」
 縁起が良いことを伝えたいのだろう。嬉しそうな声色で言いながら、余りの部分を軽く針で仕付けると、早業師のように回した帯をギュッと絞り、流れる手つきで袴を取り出す。
「おじさんに悪いし、いいよ。安物なら今からでもどうにかなるでしょ」
 想定していなかった事態だけに響も戸惑いを隠せなかった。量販店のジーンズならともかく、鑑連の和服など、目玉が飛び出るような額であることは間違いない。
「適当に買った着物なんて一目で解っちゃうんだからダメよ、恥ずかしいでしょう」
 しかし立花の母はそんな断りの言葉などまるで耳に入らぬ風に、響の片足を膝に乗せるようにして抱えると、袴まですっかり履かされてしまう。せかせかと動き回っている割に息切れ一つ見せず、涼しい顔で作業をこなしていくその様は、まるで着付けを極めているかのような、見事な手際だった。
「それに、これを直してやれって言ったの、鑑連さん本人なんだから。着てあげて頂戴」
 袖を通した、長着よりも一段と濃く、さながら深海の深みがある留紺の羽織に桐箱から取り出した紐を掛ければ、
「本当に喜んでたのよ。挑戦が決まった時なんて、千代の前だって言うのに、慈乃と二人で大はしゃぎして」
眼前の鏡には、羽織袴をすっかり着こなした青年の姿が映っている。
「うん、似合ってる。和服の似合わない将棋指しは一流になれないって言うけれど、これなら古今無双にだってなれるくらいよ」
 藍より出でて藍より深い紺という色。鑑連がそこに込められたものまで意図しているのかとは定かでなくとも、果てない深みを有する色合いを更に突き詰め、染め屋をして留めと言わせた羽織の色は、盤上に広がる無限の宇宙をどこまでも潜り行きその果てを見んと欲する棋士の宿業を暗示するかの如く、求道者の身を包むにはこの上なく相応しい。
 響自身、着ているだけで勝負師としての精神が研ぎ澄まされていくような感覚を確かに感じていた。身体に張り付くような洋服とは異なり、肉体の自由がしっかりと確保された緩い構造。しかし精神は反対に、腹に締めた帯の堅い感触で自然と引き締められる。どうして今までの対局で和服を着ていなかったのだろうと感じるまでに、和服は将棋に必要な道具かも知れなかった。
 少年が新たな武器を手に入れたような心地で、響は内心の興奮を抑えきれずにいる。
「鑑連さん、内弟子を取ったことがないから、響くんをそういう風に見ているのかもね」
 立花の母の呟きを聞いて、
「将棋はド下手クソの癖に、勝手に弟子扱いされたんじゃたまらないよ」
頬を赤らめながら溢れた言葉は、鏡に映る自身を見つめる少年のような瞳を知れば、喜び余ってのものであると明らかである。
 珍しく子どものような照れ隠しを見せた響に、立花の母も笑いを堪えるのに必死だ。


 夕食の頃になると呼ばれた訳でもないのに当然の如く銀乃助が現れ、六人で食卓を囲む。慣れた光景のはずが、今日は響の様子がおかしかった。始終そわそわとして落ち着かない風で、生娘のように口をもごもごとさせたかと思えば、結局何も言わずに終わるのだ。
 そんなことを何度も繰り返しているうちに、とうとう銀乃介がキレた。
「タマでも落としたのかこのカマ野郎は。言いたいことあるならはっきり言え」
「ご飯食べてるときに汚いこと言わないでよ、変態」
 慈乃が脇から入り込むと、
「うるせえ、コイツがタマ落として困るのはお前だろうが」
「ほら、そうやってすぐセクハラする。そんなんだから響ちゃんに先超されるんだよ」
「バーカ、その気になりゃいつでも獲れるから弟分に先譲ってやったんだっつーの」
「王竜は本戦にも出られなかった癖に何言ってんの。バーカ、セクハラオヤジ」
「うるせえチビ。そんなにセクハラして欲しきゃ乳でかくなってから出直せっつーのガキ」
「信じらんない、何言ってんのバカ、バカバカバカバーカ、ハゲろ!」
泥仕合が始まり、
「二人とも、それ以上煩くするなら外行ってやりなさいね」
味噌汁をすすっていた千代が一度目の釘を刺す。これが三度目になると容赦のない平手が飛んでくるので大抵の場合はそれより前に治まる。
 今回も、銀乃介は面白く無さそうな舌打ちを一つ鳴らしたが、泥仕合は切り上げて矛先を響に戻した。
「おい響、お前のせいでこうなってんだ、いい加減しゃんとしろ」
「そうだよ響ちゃん、なんか今日はおかしいよ」
「確かに。響も言いたいことがあるならちゃんと言いなさい、でないとまた煩くなるから」
 そうして三人に追い立てられて漸く、
「着物、有難く頂くよ。助かった」
ぼそりとそれだけ、誰に向けたのかも解らないような言い方だった。
 事情を理解している立花の母が、肩を震わせて笑いを堪えていると、
「ん、そうか……気に入ったなら何よりだ」
鑑連もぼそりと言う。
 高二男子と四十代の中年親父が繰り広げる、思春期真っ盛りできたてホヤホヤカップル的な初々しい会話は、周りで見ている者の背筋を泡立てるのに十分な破壊力を有していた。
「後で扇子もくれてやろう……同じ時に使った物だからな、使えという訳では無い」
「貰えるもんは貰うよ」
 短いやりとりを終えると、二人はまたぎこちなく食事に戻った。銀乃介などはあまりの気色悪さに鼻筋がひきつっている。
「実はね――」
 堪えきれないといった風に語り出した、立花の母からの説明を聞いて、慈乃はいつもの調子で和服姿を見せろと響にまとわりつき始め、銀乃介は俺の時は一番高い物をよこせと騒ぎ出す。
 静かに箸を置いた千代が二度目の警告を発したのはそれから間もなくのことだ。


 夜も更け、響は済し崩しに泊まっていくことになった。
 縁側で月を眺めながら鑑連と二人杯を交わす。
「畑違いの人間にくれて良いのかなって気がしてさ。おじさんのなら、碁打ちで欲しがる人もいるだろ、お弟子さんとか」
 響の手には譲り受けた扇子がずしりと重い。決して開くことはなく、掌に感触を馴染ませるように何度も握りなおすだけ、何が描かれているのかも知らされていない。鑑連曰く『勝負所で開いて見ろ。まじないがかかっている』とのことで、その言に従うつもりだ。
「碁はなあ……扇子はともかく、今はタイトル戦でもスーツの方が一般的だ。和服なんて私と他に二、三人しかいない」
 その点では娘二人が将棋に行ったことも悪くなかったな、と続けたのは普段から和服党の人間としてなのだろう。
 近いようで知らない世界、響にとっては意外な事実だった。
「知らなかったのか」
「だって、碁打ちって言ったらおじさんのイメージだったし」
「私の場合、わざわざスーツを着て対局する方がおかしいからな」
 愚痴という風ではなく、単純に合わないからスーツを着ないという口ぶり。鑑連は普段から和服党の人間なので、碁を打つ為にわざわざスーツを着る必要も無いということだ。
「とにかく着物のことは気にするな、お前より他に託せる人間が思いつかなかっただけだ。私ほどに強くなりそうな若手というと、今の碁界には見当たらん」
「よく言うよ」
 本気か洒落か、響には判断がつきかねたが、仮に本気であったとしてもその発言を許される人物である。
「響の才が碁打ちとしてのものであったら、こうして酒を交わすことすら無かったろうが」
「誉め言葉として、有難く」
 互いに注いだ杯を、月に掲げてから一息で。
 今、酒を交わすこの二人の姿を知らぬ誰かが眺めたならば、それはどのように映るだろうか。親子のようであり、年の離れた兄弟のようでもあり、戦場で馬を並べる唯一無二の友のようでもある。盤も年も違えども、棋士というものの、勝負師同士の奇妙な絆が二人の間には確かに存在していた。
「おじさんは、何の為に打つ?」
 響がそれを尋ねたのは、明確な意志を持ってのことだった。鑑連ならば、この偉大なる棋士であれば、自らの抱える矮小な悩みなど即座に看破して笑い飛ばしてくれるだろうと信じていた。
 一呼吸置くように、ずいと杯を出して要求した鑑連の、注がれた酒を一つ舐めてからの答えは、
「タイトル挑戦が決まってからふて腐れるのは、大抵、うまく行き過ぎている若造だ」
盤外の慧眼冴え渡り全て見抜いたことを示している。
「確かに下らなく思える事もあるだろうが、騒ぎたい連中には騒がせておけば良い。そのお陰で金が転がり込むのだから、私たちは碁を打てる、将棋を指せる」
 その通りだ。生きて行く為には、金が、社会の存在が必要なのだ。
 ――自らの為だけに将棋を指していると気が付けば口座に貯まっているもの、それが響にとっての金である。金という問題を意識したことのない青年が社会との折り合いに悩むのは、むしろ当然のことだろう。究極、自らの道を歩むだけで自然と金が入ってくるような環境で若くから育ってきた響には、社会という存在の重要性が根本の部分で実感出来ずにいるのだ。故に、プロ制度が成立する前提となる条件、即ち出資者の存在を、ただただ疎ましいものとしてしか受け止められず、事によっては将棋という物を食い物にする巨悪でしかないと考えることまである。
 ――自身が抱えるこのような精神構造、それ自体は、響もとうに理解はしている。理解した上で、それでもなお必要性の実感を得られないことが、響にとって処理出来ない問題となって表れているのである。
 無言のまま応じない響に、鑑連は言葉の方向性を変えた。
「安吾を知っているか」
「作家のことなら、名前だけはね。読んだことはないよ」
 昭和の無頼派と呼ばれる文豪だったか。将棋に関する作品を幾つか残していると聞いているが、響は小説というものが嫌いなのである。
 文章を一々目で追うのは、なんというか面倒臭い。
「私があれを読んだのは中学生の頃だったか、将棋に関する文章でな……やつめ、名人戦を物書きの玩具だとぬかしやがった」
 膝を立てるようにして、杯に残った酒をぐいと煽りながら、普段の鑑連からは少々思い浮かばないような、豪快な作法になっていた。
「私は、当時から碁打ちだったが、身内を馬鹿にされたようで腹が立った。こっちが必死にやっているものを玩具とは何事かと、物書き風情が偉そうに何を言うかと、はらわたが煮えくりかえる思いだった……しかし、少し置いてから考えてみると、立派だった。安吾は立派だった、全くの正論だった。やつは正直に白状した。少なくとも今時の連中のように、偽善がましい恩着せがましい顔をしなかった」
「棋士が、それを認めても良いのかよ」
「認めるも何も、結局そうだ。それが現実だ。外の人間からすれば、碁打ちも、将棋指しも、玩具だ、見せ物だ。
 しかし同時に、奴らが盤に触れない限り、どう騒ごうと思っていようと私たちには何の意味も成さない――そうだな?」
 響はようやく、鑑連の言わんとしていることを理解した。
「たかが碁、たかが将棋。棋士なんてものは、世間からすれば高級乞食だ。乞食をさせて頂いているのに、この上理解されようだなんて、烏滸がましい話だろう」
 乞食という言葉をここまで洒落た言い回しだと感じるのは初めての体験だった。言葉の意味が反転していく爽快感が全身を駆け抜けていく。
「藝術宗教そして棋士、どれもこれも勿体ぶって語られはするが、その実は乞食の行いでしかない……真に生を悟れるのは古今東西に乞食のみというのも、全く不思議な話だな」
 ここまで世の中を食った乞食では、最早乞食とは呼べまい。
 そして響は、世間というものを捨てきれずにいた自分を悟った。
 結局、世間に理解されようとしている自身こそ全ての苛立ちの根源だった。だから連中の騒ぎぶりに心を乱されるし面倒臭く感じもする、連中の低俗な言葉にも正しいものが混じっているような気がしてしまうから、取るに足らない一々に耳を傾けてしまう。
 しかしどうだ、『どうせ連中は盤に触れられない』と、それさえ気付いてしまえば、一切は風前の塵!
 鑑連のこの教えは、響の抱えていた青さを全て吹き飛ばした。これまで通りに一つ一つを勝っていけば、自分自身の棋道を歩いて行けば、それだけで社会はさながら猿山の猿に餌を与える観光客の如くめぐんでくれるのである。
 棋士とは乞食なのである、見せ物なのである。そしてそこに何の問題があるだろう。
 ――そうして響は躊躇うことなく鑑連の言葉を受け容れた。その言葉を平然と受け容れられる存在をこそ、世間は狂人と呼ぶことなど、欠片も意識しないままに。
「いやあ、スッキリした。よくもまあ、聞きたいところを的確に答えてくれるもんだね」
 腹の底からこみ上げるどこまでも愉快な感情を隠すことなく、手酌で注いだ杯をぐいと飲み干して、声を上げて笑う。気付いてしまえばどうして今までそこに目をつけなかったのかと思ってしまう程に単純なこと。たとえば、切らなければならない大駒を切った時の心境とでも言うのか、切るまでは内心ビクビクしているものだがいざぶった切ってしまえば本当にスッキリするもので、そういう後の酒は本当に美味かった。
 二つ目をまたも手酌で注ごうとすると、鑑連に徳利を奪い取られ、
「お前によく似た若造が、一昔前にいたんだよ」
という言葉と共に、両手を添えて受ける。
「そしてその若造が年を重ねて知ったことを、もう一つ教えてやろう」
「何さ」
「確かに、自分の棋道とは何の関係も無い存在には違いないが、自分の結果で喜んでいる身内の姿というものは、案外と悪くないものだ……とまあ、その程度に考えれば良い」
 まだ若い棋士の髪に手を置いて、そっと撫でるようにしながら、その様はどの師弟にも負けぬ情が溢れている。
「乞食でも、全てを捨てる必要など無いのだ。私たちの道を心から理解し応援してくれる人種も世の中にはいる。そうした人たちには、ただ道を行くことこそが恩返しになる」
「めぐんで貰って、その上善人ヅラ出来るなんて、棋士ってのは良い身分だなあ」
「だろう。俺もお前も、全く良い遊びを見つけたものだよ」
 と、苦労を知らぬ訳では決して無い、血に濡れながら修羅の道を歩んできた二人の天才は、自らの業を堂々と背負った上で威勢良く笑い合った。
「おじさんの才能が将棋に向いてりゃよかったのにな」
「こうして酒が呑めなくなるぞ?」
「その分指せりゃ釣りがくる」
「負け通しになってしまうぞ?」
「冗談きついね、酔ってるんじゃないの」
「どうも……私はもう少し謙虚だった気がするんだがな」
 響はぼやきを聞きながら、浮かべた月を呑み干した。