八の三

 十月中日。
 奥州は松島瑞巌寺の協力を受けて行われる王竜戦第一局、前夜祭は同所から徒歩十分の距離に位置するホテルの大広間を借り切って目下華やかに行われている最中であり、響は多くの愛棋家や報道陣に囲まれながら、ある時はインタビュアーにマイクを向けられまたある時は記念写真をねだられ、その騒々しい催しは、以前であれば苛立ちの元となっていたのだろうが、鑑連の教えを知った今となっては取るに足らない。一つ一つ、ほどほどに頭を下げておくばかりである。
 ――既に終えた対局室検分では、今回の挑戦による昇段を完全に失念しており、盤への揮毫の際に『六段浅井響』としてしまう大失態を犯したが、それにもまして響の字の汚さが話題となってしまった。立会人以下関係者が揃って絶句する小学生レベルのミミズ文字が当人にとっては会心の出来なのだからどうしようもない。高校生挑戦者という話題性だけでやってきたスポーツ新聞の記者などは、良い見出しが出来たとこの珍事を喜んでいたが、響が関係者一同から大目玉を食らったことも自然な流れである。この対局が終わったら鑑連辺りに巧い字の書き方を教えて貰わなければならなくなったと、精神的に落ち込みながら、白扇への毫は開き直った荒々しい字で『真』の一字、対する竹中現名人は如常から『如』の一字を取って応じてみせ、こちらは見事な合作となった。――
 フラッシュ責めが一段落ついてから会場の隅に逃げ、他の参加者が持っているグラスの中身を羨ましく眺めながらも礼装の学生服はごまかしようがなく、未成年らしくオレンジジュースを舐めていた時のこと、
「大丈夫ですか?」
優しく気遣われ振り返れば、声の主は竹中現名人であった。
「あ……はい。有難うございます」
 気配無く背後に立たれていた驚きよりも、竹中重治から話しかけられたという事実の方が響には大きい。
「今をときめく棋界の新星が挑戦者ですから、世間の注目も一際ですね」
「そんな、名人の人徳でしょう」
 竹中は棋界における有数の人格者としても有名であり、多忙なスケジュールを縫うようにして積極的に普及活動に尽力している点や、一般メディアからの取材も棋界の宣伝の為にと積極的に受け入れるその姿勢は、正に棋界の良心そのものである。
 謙遜という訳でもなく返した響に、
「どうやら、小寺さんから聞いていた通りのようだ」
突然出てきた小寺の名前。竹中と小寺は同い年であり、小学生名人戦などでも何度も顔を合わせた、言わば幼馴染みの関係でもあることは有名な話である。それほど昔から関わりがあったのにどうしてこれほどの差が出来たのだろうか、目の前の竹中の整然とした振る舞いを見ていると小寺のおっさん具合が悩ましく思い出される。
「ちなみに、何と?」
「とにかくかわいくないガキだと……随分気に入られているようですね」
 にこやかに頬笑まれるが、響としては有り難く受け止めるべきか憤るべきなのか、苦笑しか返せない。
「私はもう失礼するつもりです。浅井七段も、明日に疲れを残さないようにして下さい」
 去り際に残した一言は流石というべきか、内に秘めた昂ぶりを言外に伝える静かな殺気が滲んでいた。

 会場を後にした竹中を見送って一分と経たないうちに、
『おまんこ! おまんこ!』
廊下からとんでもない奇声が上がり、和やかだった会場の雰囲気が一転した。
『おいねえちゃん、おまんこ何色だ、見せてくれんか。ワシとおまんこしよう!』
 なおも叫び続ける声に、事情を察知した関係者が慌ただしく大広間から飛び出していく。
『老い先短いじいさんがこんなに頼んでいるんだ、おまんこくらい良いじゃないか』
 良いわけが無いでしょう、と止めに入った先輩棋士たちの怒声。
『やかましい、ワシはおまんこ舐めたいんだ。お前の女房連れて来い、おまんこ見せろ』
 徐々に激しくなっていく言動に反比例するかのように、会場のざわめきは、気が付けば収まっていた。元より関係者と愛棋家しか参加していない場であるから、この騒ぎの大元が誰であるかを察したのだろう。滅多に表に出るような沙汰ではないが、その実、棋界の内側では恒例行事なのである。心得た客などは『秀行先生の生おまんこが聞けた』という感動の呟きさえちらほら、めでたいめでたいと手を叩いてはしゃぐような人間まで居る。
 すったもんだの大捕物さながらに大広間に引きずられて来たのは、
「重治はどこにいった。アイツが言えば大抵の女はおまんこ見せるだろう、連れて来い」
二一世名人にして竹中重治現名人の師匠、二階堂秀行その人である。一体どれほど呑んだというのか、年相応にしわくしゃの顔は茹で蛸のように赤く染まり足下は絵に描いたような千鳥足、力の無い白髪はひどく乱れており、さながら浮浪者のような風体である。
「おいこら、おまんこ見せろ。おまんこおまんこ」
「お子様連れの方もいらっしゃるんです、いい加減にして下さい!」
「うるせえ! 馬鹿野郎! おまんこ見せろ!」
 叫んではいるがその先に特定の女性が居る訳ではない。どうやら本当に女性器が見たい為に叫んでいるというよりも、ただ淫語を連呼することが楽しいだけの、そういう言葉を辞書で見つけると赤線を引いてみたくなるような、小学生的発想であるらしい。
「重治はどこにいる。しげはるー、おまんこ見せろー!」
「もうお休みになられました。大体あの方がそんな馬鹿なことを手伝う訳が無いでしょう」
「畜生おまんこ、おまんこ弟子め。破門だおまんこ、おまんこで破門だ、おまんこ破門だ」
 聞いているだけでおまんこがゲシュタルト崩壊を起こしそうだ。
 今にしてみれば、竹中は絶好のタイミングで場を離れた形となっていた。神速の寄せと謳われフツと音を立てるが如く相手玉を断ち斬る終盤はかの香取の御神体にも喩えられる現名人のこと、盤外でもこの展開を読み切っていたのではないかとすら思われる。
 初めて実物を間近に見た衝撃で呆気に取られていた響に、
「浅井七段も早くお休みになられた方が……絡まれたら厄介ですから」
いつの間にか脇に寄ってきていた連盟の職員が忠告した。職員から腫れ物扱いされている名誉理事というのも無茶苦茶な構図だが、響としても全く同感である。
 それじゃあ失礼します、と人混みに紛れるように広間を立ち去ろうとすると、現役時代は異常感覚とまで評されていた二一世名人その人、妖刀の切れ味は未だ衰えず会場に漂う僅かな気の変化まで読み切ってみせたというのか、
「待てい、そこのおまんこ!」
正に逃げださんとしていた響の背中に突き刺さった。
「シュウコー先生、彼はダメです。挑戦者なんです、どうか勘弁してあげて下さい」
「知るかおまんこめ、すっこんでろ」
 懇願するように制止する先輩棋士たちの抵抗も虚しく、どかどかと近付いて響の眼前に立ち塞がるように仁王立ちすると、その人柄からは意外に感じられる、昭和の人間らしい小柄な体躯で、
「幸子さん元気か」
それが第一声――浅井幸子、祖母の名である。
「最初に会ったのは五、六十年も前だが、そりゃあ美人でなあ。今でもワシは幸子さんのおまんこを舐め損ねたことが心底悔しい」
「え……はあ……元気です」
「おまんこ賭けてやるって言われたから気合い入れて指したんだがなあ、ああ畜生」
「は……え……誰が?」
「お前のじいさんに決まっているだろう。それ以外に誰が賭けられる、このおまんこ野郎」
 何という賭けをしていたんだと一点、件の蔵将棋は思っていたよりも緩い雰囲気だったのだろうかと二点、そして、在野の真剣師に負けた事を屈辱に思っていないのだろうかという、特に大きな三点目。秀行はあまりに平然と語り過ぎている。
「おまんこ十兵衛のおまんこ孫がおまんこ源太のおまんこ弟子か」
 ギョロリと老いに窪んだ瞳で覗き込まれると、現状の振る舞いからは想像出来ないほどの、若造一人ひねる程度であれば往年の残滓で十分と語っているかのような、堅く太い芯を感じさせる眼力である。
「精々おまんこ共に恥を掻かせるなよ、おまんこめ」
 重く低い声で呟かれたのは、最早何もかもがおまんこ一色になっている、訳の解らない言葉だったが、しかし、伝えんとする内容だけは理解できた――尤も、祖父や六角に恥を掻かせないようにという心懸け、それ自体は共感するはずもないのだが。
 秀行は響から離れると、制止する関係者を引きずるようにして、再びおまんこおまんこと叫び散らしながら大広間を出て行った。
「秀行先生がこんなにあっさり引き下がるなんて、珍しいですね。何の話だったんです?」
 近付いてきた新聞社の将棋担当は、面白いネタを見つけたとでも言いたげな表情だ。
「師匠のことで、少し」
「なるほど……今回はお互いの弟子による新時代の代理戦でもある訳だ」
「そんなに大袈裟なことでは――」
 そもそも六角は現役なのだから勝手に新時代を始められても不愉快だろう。あまり過激に書かれては困ると釘を刺そうとした響だったが、
「――そう言わないで下さいよ、外野はこういうので盛り上がるんです。六角先生と秀行先生が争っていた頃は棋界の黄金期ですからね。新世代による黄金期代理戦、頂きました」
新聞ヤクザとはよく言ったもので、記者という存在はベテランになるほどこちらの言い分を聞き流す術にも長けている。軽くいなされ逃げられてしまった。
 困ったものだが気にした所で疲れるだけと割り切って、響は広間を後にした。