八の四

 付き添いに来て貰った立花の母に着付けて貰い、監視するかの如く張り付いている取材カメラと共に本堂へ向かうと、そこにも既にカメラを構えた記者が溢れており、対局直前になっても軽く二桁はあるだろうカメラのレンズを一斉に向けられる気味悪さには、覚悟を固めたはずの精神でも、流石に少なからず動揺を覚えそうになる。
「笑顔は要らん、適当に礼だけしておけ」
 ぼそりと耳打ちしてくれた立会人はA級八期在籍・王竜一期の経歴を持つ伊達重村九段、現在は響と同じく順位戦B級二組の棋士である。
 大先輩からのアドバイスに従い、一度頭を下げてからは眩いフラッシュの存在まで意識から消し去った。
 遅れて現れた竹中と駒を並べ、伊達九段の取り仕切りで行われた振り駒の結果は後手を引き、そして迎えた午前九時丁度、礼をしてから一分ほど目をつむって間を整えた竹中が初手7六歩と指す頃には、盤前はいつも通りの静謐を取り戻していた。

 竹中からしてみればこちらはタイトル初挑戦の若手、場に慣れないうちは急戦含みの手など指してこないとくくっているはず。ならば、後手番では小寺にやられた例の中飛車で揺さぶってみようと決めていた響の手は、
 ――先7六歩、後3四歩、先2六歩、後5四歩、先2五歩、後5二飛、先7八金――
こともなげに7八金型と堅さを選ばれ、どうやら流れは穏やかになりそうだった。
 響としてもまさか本気で動揺させる意図があった訳ではなく、自身がどの程度舐められているか計っておこうという程度のもの。ならば落ち着いた流れも望むところ、こちらを舐めている様子は全く無いらしいと知れただけで十分である。
 妙な緊張もなく体調も悪くない。普段通りの調子で臨めているはずであったが、しかし違和感は盤外から表れた。
 二日制・持ち時間は互いに八時間という長丁場においては、初日は駒組みのみで終わるということも一般的であるが、実際に指してみると、読みの量が増え過ぎてしまう、手が見え過ぎてしまうような感覚があり、変化の少ない序盤の局面に何十分と向き合っていると、今まで経験したことのないような勢いで肉体と精神の双方が削られていく。
 普段のリズムを崩すことの方が良くないと、極力無駄な読みは省くように心がけて手を進めたが、竹中はさすがに棋界の第一線で争う風格か、少なくとも表情は、一日制棋戦のそれとまるで変わった様子もなく、余裕すら感じさせる時間の使い方で淡々と指していく。
 ――後6二玉、先6九玉、後7二玉、先4八銀、後5五歩、先2四歩、後同歩、先同飛、後3二金、先6八銀、後8二玉、先2八飛、後2三歩、先4六歩、後3五歩、先4七銀、後7二銀、先6六歩、後5四飛、先6七金、後4二銀――
 まで二八手、竹中の手番で封じ手時刻を迎え初日は終了。
 持ち時間に関しては響が一時間ほど多く残しているが、それはむしろ経験不足の表れとするべきだった。

        ○

 二日制における実質の持ち時間は『プラス一晩』とされるのが正しい。ホテルに戻ってから、夕食を取る間も、入浴の間も、部屋で布団に寝転んでからも、頭の中で半強制的に行われてしまう読みを止められないからだ。
 勝負の為には休まなければならない時間であるとは解っていても、棋士にとって、指し掛けの盤面という存在は否応なく極限の緊張状態を強要するもの。しかも明日一番の正しい局面を知っているのは唯一封じ手をした竹中のみであり、響が幾ら先を読んだところでその半数以上は確実にムダになるのだから、考えれば考えるだけ消耗する一方だ。
 ――封じ手を相手に渡してしまったことが良くなかったのか。こちらの封じ手であれば、明日一番の局面さえ解っていれば、もう少し楽であったかも知れない。
 そんなつまらない盤外戦略を浮かべてしまうこと、それ自体が既に響の若さを浮き彫りにしている。
 このままではいけない。
 言いようのない不安に駆られ、気分転換用に持ち込んだ漫画本を取り出そうとトランクを開けると、見覚えのない短冊が一つ差し込まれていた。
『好手は盤前でのみ見える』
 まるで書の大家がさらりと書き捨てたような、気負いのない達筆である。いつ入れたのか定かではないが、荷造りは立花の母にも任せていたから、鑑連のものに違いない。
「エスパーかよ……ったく」
 正に今この状況を見透かしていたかのような助言に独りごちながらも、そこには松島に入ってから初めてとなる、心底からの息を吐いている自身がいた。先人からの一言が何よりも頼もしかった。相手が何を指そうともその場で答えを見出す、即ち普段通りの姿勢で臨めば良いだけなのだと勇気づけられた。
 途端、堰を切ったように眠気が溢れる。その眠気こそ環境に適応した証である。
 最早それ以上の思考を重ねることはなく、響は電気を落として布団に潜った。

        ○

 明けて二日目、立会人の伊達九段によって開封された封じ手は5六歩より。
 あけてみれば何のことはない平凡な手、やはり昨晩の選択は正しかったと、受ける手筋にも自信がつく。
 ――先5六歩、後同歩、先同金、後5一飛、先7八玉、後6四歩、先5八金、後5三銀、先6七金、後5四銀、先9六歩、後6三銀上、先3六歩、後7二金、先3五歩、後7四歩、先5七金引、後5五歩、先7七桂、後7三桂、先3四歩、後9四歩、先3七桂、後8四歩、先3八飛――
 千日手が見えているが、玉型ではやや勝るも元より後手番の響には拒否する理由がない。
 ――後4二金、先2八飛、後3二金、先3八飛、後4二金、先2八飛、後3二金、先3八飛、後4二金、先2八飛、後3二金――
竹中も躊躇う様子を見せずに淡々と千日手に合意、昼食前に六四手までで成立した。