一一

    十一

      十一の一

 高野の頂に響き渡る明け六つを肌で感じ目を開けば卯の正刻、大浴場の露天風呂へ足を運び、山を彩る朝化粧は薄明に輝く朝靄の繭に包まれながら、高所の夜に冷やされた水を頭から被る。三度繰り返して身を清め、部屋に戻ると枕元に備えた短刀を手に取った。
 丈は九寸刃紋は匂い出来の丁字乱れが華やかに舞う、昨夜のうちに柄は抜き五寸の刃を残して奉書紙を巻いている、紛う事なき抜き身の刀。
 目をつむり、胸をはだけ、悠然と開腹の所作を踏む。
 左腹より右へ、然る後鼓動に震える鳩尾を真上から突き下腹臍の下まで。刃先は僅かに噛ませ肉を切るようにしかと抉ると、裂けた皮膚から覗けた白い身に一寸遅れでさながら湧き水を掘り当てたかのような血が滾々と溢れてくる、この十文字を以て一度の死を身に刻む。
 朱に濡れた刃を拭い血隠しに厚く巻いたさらしの下に仕込めば、既に死身にて我も無し。他念一切消え失せ真に残るは盤と四十の駒ばかりなり。


 ――読日新聞文化部・幸田成行記――
『結論から書くと、浅井響という存在は紛れもない天才である。プロ棋界という天才しか存在しない世界においてもなお、ズバ抜けた天才なのである。
 中学生デビューのプロに対して何を今更、と思う人間も多い事だろう。或いは「アレが天才でなければ何が天才だ」と憤然とする人間すらいるかも知れない。特に近頃では現役都立高校生のタイトル挑戦という話題で一般のテレビまで賑わしているのだから、浅井の天才は棋界の常識に止まらず既に日本の常識になっているのかも知れない。
 その神童が、今、生まれて初めての苦境に立たされている。

 五という数字がある、それが或いは六になるかも知れない――と書けば、勘の良い読者は大抵気付くことだろう。王竜戦第一局から始まった浅井の連敗記録のことである(十月十四日・十五日王竜戦第一局、続いて二十日赤兎本戦準々決勝、二十六日旭日杯オープントーナメント二次予選一回戦、二十八日棋天戦二次予選二回戦、そして十一月一日・二日王竜戦第二局)。
 奨励会時代を含めても、これまで浅井は公式対局で三つ以上黒を繋げたことが無かった(二連敗はこれまでに五度。奨励会一級で一度、初段で一度、プロ入り後に三度)。これは浅井の天才を証明するエピソードに他ならないが、だからこそ、今抱えている連敗も重い。

「天才は一度崩れると脆い……みたいな設定、ありがちやんな」
 とは、前夜祭会場で声を掛けた本局立会人小寺二冠の発言である。浅井とは年度初戦で当たっており(神座本戦一回戦)、その時は二冠の貫禄を見せつける鮮やかな勝利だった。世間を騒がす神童も二冠からすればまだ青いという評価なのだろうかと思いきや、
「けどまあ、そういうひ弱い天才ってタイプともちゃう気がするなあ」
 既に十二分に認めていることが窺える言葉だ。
 ――実際に手を合わせてみて、どんなタイプだと感じましたか?
「生粋の勝負師。上っ面だけ見るとまんま今時の優等生棋士やけど、中身はとんだ極道や」
 ――随分と険呑な表現ですね。
「比喩や無しに、将棋が無かったらまともにお天道様拝めとらん人種やと思うで」
 この小寺二冠の評に、私は少々の戸惑いを覚えた。
 確かに、浅井と言えば相手の手を容赦なく殺し尽くす檄辛な棋風でも有名だが(代表例として挙げられるのが前期順位戦最終局で立花(姉)に指した【成香冠】)、普段の彼は盤上とは打って変わって礼儀正しい好青年である。「将棋がなければお天道様を拝めない人種」という評に関して言えば、むしろ、「一般社会でも生活できるプロ棋士ランキング」で浅井は間違いなく上位に入る、というのが、私の感覚なのだ。
 ――意外です。地に足の着いたタイプだと思いましたが。
「せやねんけど……まあ、彼と将棋で勝ち負けしてみりゃ、嘘は言うとらんと解りますわ」
 つまりは、「凡人が浅井の真の顔を知ることは未来永劫有り得ない」と言うことらしい。小寺二冠らしい、ウィットに富んだ返しである。(続く)』


 顔色がひどいと心配する立花の母に何の問題もないと答えるも、情けない面のまま対局場に行くのでは相手にも迷惑であろうと、唇に薄く紅を引き頬は白く塗り整えて貰ううちに、言われてみれば死に化粧というものがあったと思い出す。
 余計なことを言わないようにと心懸けているのだろう立花の母ですら、紅を引くその手が震えている。男の化粧をすることに慣れていないなどという理由ではないだろう、その程度のことならば難なくこなす器量を持っている女性である。
 はっきりと怯えている。目の前の現実離れした現実にたじろいでいるのである。
「大事な時間なのに、こっちがこんなんで、ごめんなさいね……やっぱり、旦那と子どもじゃ子どもの方が大事みたい」
 これでも精一杯の冗談なのだろう。
「おじさんとは心中しても良いくらいに思ってるから、おじさんの時は動揺しないんだよ」
 一つ、落ち着かせるように、こちらも冗談を置いてから、
「大丈夫だよ。今日は、きっと良い将棋が指せる」
言葉に一切の偽りはない。研ぎ澄まされた精神はむしろ最良の状態である。


『――午前八時五二分。対局場となる金剛峯寺奥殿に現れた浅井は全身から異様な雰囲気を醸し出していた。袖から覗けた腕には血管の網目が透き通るように浮き上がり、化粧で隠しているものの恐らく顔面も蒼白であろう、あまりにも整いすぎている、鮮やかすぎる色面からはまるで生気を感じられないのである。
 人形、或いは死体。口には出さないまでも誰もが死という言葉を連想する様相であった。命を懸けた人間の気迫というものは恐ろしいまでに静かで、そして見る者の肌が粟立つ程に美しいのだ。
 賑やかしでやって来ている、浅井をただの高校生と勘違いしているような一般の取材陣などは、その雰囲気だけで文字通り絶句していた。竹中のような人格者ばかり相手にしているものだから、将棋を凡百の娯楽の延長と勘違いしていたのだろうか、将棋記者としては少しばかり良い気分である。そして同時に、小寺二冠の言葉が朧気ながらも理解できた気がした。
 ただの天才に、堅気の現代人に、この狂気は決して出せまい。
 第三局の先手番は竹中名人。

 棋界内部でも注目度の高い一戦だけあって控え室には早朝から多数の棋士が詰めており、お隣の囲碁界からも立花鑑連名人本因坊が遊びに来ている。張り詰めた空気の対局室とは一転、碁好きで知られる関西の長老・京極九段を筆頭とした、碁に興味のある棋士を相手に、和やかな空気で指導碁が行われ、打ち方すら知らない若手の乾四段には初歩から丁寧に教えている。全くの低級である私も思わぬおこぼれに預かり、これも記者の役得、本人は普及活動だと気さくに笑っていらっしゃるが、これほど贅沢な普及活動は他にあるまい。
 何故本因坊が将棋のタイトル戦にと思う方もいらっしゃるだろうが、棋界に詳しい方はご存じの通り、本因坊の二人娘はどちらも将棋の正棋士である。浅井、島津、そして立花姉妹の四名は奨励会時代から関わりが深く、昔から立花家で行われている彼らの集まりは別名を本因坊研とも呼ばれている(当然中身は将棋の研究会である。なお六角門下の浅井を除いた全員が結城門下)。このような事から本因坊と浅井は幼少の頃から深い縁があり、今回は観光がてら応援しに来たとのこと。明日の現地解説には二人娘が揃って招集されていることもあり、控え室は浅井持ちの向きが強くなるかも知れない。
 閑話休題。
 これまでの三局を中飛車・角換わり・対抗型と来ている戦型に関して。両者共にどのような形も指しこなすタイプであるだけに戦前予想はまとまらなかったが、後手番の浅井が振れるかどうかが焦点であるという見方は一致していた。前局の浅井は先手ながら採用率の高い四間穴熊の形を取ったが、終始陣を圧迫される形で完敗の内容、それだけに後手番で振れるかどうかに注目と言った所だろう。
 参考までに本因坊に尋ねた所、振るならば二手目3二飛が見たいとの事だったが、これまでに浅井が公式戦で指した記録は無い。(続く)』


 ――先2六歩、後8四歩、先2五歩、後8五歩――
『控え室では浅井の8四歩に早くも驚きの声が挙がっていた。初手2六歩は後手振り飛車の幅を狭めながら相居飛車はどうかと打診する手、後手は提案に乗った形になるが、果たして先手は受けて立つことを想定していただろうか。やあやあ我こそは、と名乗りあってから斬り合うが如き古風なスタイル。浅井の将棋としては少々意外な幕開けだ。
「浅井君の相掛かりってどうなの?」
 吉川八段が尋ねると、
「アリです。公式戦でも二、三局指してるんじゃないかな」
島津七段が即答。棋譜管理用のパソコンを持ち込んでいる乾四段が早速検索すると結果は二局(後手二回)、まだ数は少ないが全勝という数字。
 ――VSでは良く指されるんですか?
 島津七段に尋ねると、
「そういや一昨日に丁度指したっけか。意外性を狙ってとかでは無いでしょう」
 ――死んでも振らないと公言している島津七段的に、浅井七段の居飛車はどうですか?
「そりゃ俺よりは弱いです」
茶目っ気のある答えである。
「ただ、振るイメージで語られますけど、元は居飛車ですからね。俺が散々虐めたせいで振るのを覚えたって感じで」
 ――というと、研究会を始めた頃から?
「積極的に振るようになったのは……中学に入る少し前くらいからだったかな、それからはこっちも大分余裕が無くなりました」
 浅井の振り飛車は切磋琢磨する仲間を乗り越える為に身に付けた技であった。人に歴史ありということか、中々に興味深い過程である。

「しかし、浅井君は何かあったんか。盤前でヤバイ空気出すのは元からやろうけど、今日はちと雰囲気ありすぎや」
 対局者の前では平静に見せていた小寺二冠も、やはり何か感じていたらしい。
「ホンマ今日の記録係の子は可哀想や……自分の対局ならともかく、あんなんと何時間も同じ部屋におったら気が狂うで」
「肌が白いのって、アレ化粧ですよね、口紅も。おしゃれって感じでは無いし」
「何か隠すような化粧だけど、体調悪いのかな」
「正直、死に化粧みたい。綺麗だけど怖いっつーか……島津は何か知らないの?」
 問われた島津七段は、
「さあ……でもまあ、それこそ死ぬ気でやらなきゃ今のアイツは勝てないでしょうから」
怖い事をサラッと言う。
「死狂いですよ、死狂い。第一関門は突破したという事でしょう」
 自前の扇子で膝を叩きながら、本因坊はどこか嬉しそうに語った。(続く)』


 ――先7八金、後3二金、先2四歩、後同歩、先同飛、後2三歩、先2六飛――
『正午前、竹中は浮き飛車を選択し、昼食休憩に入った。
 定番となっている対局者の食事紹介の為に関係者から聞き出していると、
「前から思ってたんだけど、対局者の昼食とかおやつの情報って本当に必要なの?」
と、笑顔の吉川八段がいじわるな事を言う。
「でも、俺も、六角先生が何を食べているかとか、ちょっと気になりますよ」
 乾四段からの有難い援護射撃である。ちなみに六角棋天の食事ネタは記者ですらも知り得ない連盟最大の謎(御本人の意向という訳では無いらしいが公開して貰えない。いっそ無愛想な謎キャラで売り出そうという連盟の戦略だろうか)。
「霞とか食って生きてそう」
「まさか。でも、健康にも気を遣ってないとあの年まで現役で指せないよね」
「ありゃ昔から酒も煙草もやらんから。本当に修行僧みたいな生活しとるわ」
「修行僧通り越して仙人みたいなイメージあるけど……やっぱ桃とか食べてんのかな」
 それぞれ島津七段、吉川八段、京極九段、小西六段の発言。
 六角棋天の食事をネタにして盛り上がっていると、
「そういや、この前の棋将の時はステーキ食うたみたいですよ」
小寺二冠から、思わぬスクープが飛び出る。
「自分も興味あったんで、六角先生と同じモンって頼んどいたんですわ。そしたら分厚いステーキ出てきて、ホンマビビりましたもん」
 あの年でステーキという事実に一同驚愕。体力を要する対局を勝ち抜くだけあって一流棋士には肉食が多いのだろうかと思いきや、
「私は、自分の対局の時はあまり食べられないなあ。胃が細くなっちゃって」
と吉川八段は言う。小寺二冠などは「食べ過ぎると午後イチの眠気が困る」とまで言っており、棋士にも様々なタイプがいるということだろうか。
 暫く続いた昼食談義に区切りがついても、初日はのんびりと進む序盤、控え室のムードが変わることもない。それぞれ昼食をつまみながら、本因坊直々の囲碁講座が続く。
「一日目ですから、しばらくはこっちもゆったりで」
 語る島津七段は打ち慣れているらしい。駒が石に変われども、鳴らす音の気持ちよさは変わらない。
「将棋でボコボコにしてばっかだと可哀想ですからね、たまには負けてやらないと」
 ――将棋の方はどうなんですか?
 楽しそうに五面を打つ本因坊に尋ねると、
「三段はありますよ」
 自信満々に言い切るが、その裏では島津七段が有り得ないというゼスチャーをしている。それなら私も後で一局とお願いしてみると(碁の借りを将棋で返したいのだ)、本因坊からは喜んでと返事を頂いたが、島津七段が小声で、
「手加減してやって下さいね、マジで……本当は万年級位者だから」
剛毅一辺倒に見えて気の回る男なのだ。
 ちなみに私の棋力はというと、俗に言う元奨である。尤も入品すら出来ずに挫折したのだが(大学二年の冬で二級だった頃、当時中学二年の島津が入会。凄まじい勢いでぶっちぎってくれたので就活が始まる前に踏ん切りがついた)、諦めきれずに将棋にしがみついているクチだ。新聞社の面接でも将棋欄以外やる気は無いとか答えたっけなあ、良くアレで受かったもんだ……って、私のことはどうでも良いか。失礼致しました。

 局面に話を戻すと、
「先手は縦歩や自然流(3七から右銀や桂を出していく)の選択肢もありますが、恐らく相腰掛け銀を選ぶでしょうね」
と乾四段。データを見ると竹中はこれまでに相腰掛けを十四局指しており十勝、かなりの勝率だ。この形は浅井にも一度ある。(続く)』


 番勝負だけを見るならまだ一つの余裕はあるが、ここが将棋指しとしての必死と定めた以上振る気は無かった。初手7六でも2六でも8四と決めていた。相掛かり後手だろうと望むところ、真っ向勝負で斬り合うのみである。
 余計な事をすると糸が切れるので昼食は要らないと確かに伝えたはずだが、流石にそうもいかないらしい、部屋の机には奢侈なまでの食事が用意されている。
 しかし、立派に用意して貰った手間は申し訳無いが、今は視界に入らない。
 食は生者の行うものであり、もしも何かを口にしたらば、その瞬間に生への執着が呼び起こされないとも限らない。これからの四十時間、食事も睡眠も、人間らしい一切を斬り捨てて臨まねば生き抜けない。
 精神を研ぎ澄まさなければならない。
 非合理的な選択に頼ってでも、この身を限界まで細く鋭く、一点を突き貫けるよう研ぎ澄まさなければならない。
 箸を持つ事も無く、響はひたすらに座して再開を待った。


 ――後7二銀、先3八銀、後6四歩、先1六歩、後1四歩、先7六歩、後8六歩、先同歩、後同飛、先8七歩、後8二飛、先4六歩、後6三銀、先4七銀、後5四銀、先5六銀――
『予想通り相腰掛け銀の形。後手は3四歩と角道を開く代わりに端を突いているが、浮き引きで飛車の位置に差がある以外ほぼ同型だ。ここから4五或いは6五で銀をぶつけ合う形(所謂ガッチャン銀)。お互い玉を厚く囲わずに攻め手を作っていく怖い将棋になった。
「竹中君はともかく、浅井君はこういう将棋も指すんだねえ」
 京極九段は感心したように呟いている。京極九段と言えば、以前浅井の指し手があまりにも露骨すぎると誌上で苦言を呈したことがあるが、今日のような形も指せる事を知って評価が変わったのだろうか。
「西でやってるから、先生を怖がってるのかも知れませんよ」
 吉川八段が面白がって言う。吉川八段は関西奨励会から父親の転勤絡みで関東へ移った経歴を持ち関西にも知人が多い、だからこそ言える発言である。
「勘弁しい。年寄りからかうな」
 ちなみにその対局は京極門下の佐々木六段を相手とした昨年度のC級一組順位戦。浅井勝勢の局面で佐々木六段の形作りを、受け駒を増やして叩き潰した点に関する発言だった。いずれにせよ浅井憎しからではなく弟子を可愛がる一念からの発言であることははっきり伝わる内容であり、吉川八段はからかっているが、浅井本人も気にしていないだろうことは、御本人の名誉の為に明記しておく。
「ちょお、ウチの師匠苛めんといて下さいよ。ただでさえ最近は血圧がえらい事になってねんから」
 傍で聞いていた小寺二冠が検討用の盤を放り出して、
「僕のこづかいから香典出さなあかんねんから、滅多な事あってもらっちゃ困るやろ」
麗しい師弟愛という訳ではなく、わざわざブラックジョークを飛ばしにやってきたらしい。小寺二冠と言えば京極門下の出世頭、小学校二年生から稽古をつけて貰っていたというのだからその縁も人一倍深いのだろう。慣れた手つきの京極九段が扇子で二冠の頭を叩けば、さながら熟練のコンビ芸である。
「別に気にしてないですよ、アイツなら。むしろ自分の師匠が六角先生だから、そういう一門の絆的なものが羨ましいくらいに感じてんじゃないですかね」
 島津七段が言うと、
「六角門下って一門会とかあるんですかね」
「いや、無いだろ……六角先生と浅井が二人で集まって何すんだよ」
想像するとシュールな映像で、流石に控え室も笑いを堪える事が出来なかった。
「結城先生のとこは? 少数で厚いイメージあるけど」
「年二回ですかね。年初のは結構キッチリやるけど、夏にやるのは本当にただの飲み会。研究は月一定期で集まってるらしいけど、飲みがありそうな時以外は行ってないんで」
「えー、何でさ。ちゃんと行けよ勿体ない」
「いや……行く度に説教されんすよ。将棋じゃなくて、趣味の方で」
「ああ、賭け事嫌いだもんね、結城先生は」
 島津七段は競馬・競艇・麻雀と、およそ大人の娯楽を人並み以上にたしなむことで有名だが、師匠の結城九段は棋界でも指折りの愛妻家で知られ、奥方や家庭を大事にするとの考えから賭け事の類には手を出さない。
「京極先生の所はどうなんですか?」
「このアホウがやかましくてかなわんわ……ちったあ下のモンに威厳示さんか」
 と、京極九段は嬉しそうに、またも小寺二冠の頭を叩く。ここから控え室は師弟関係について色々と語られていた。

 局面に話を戻すと、
「ここでいきなり銀をぶつけ合うような事にはならないでしょう。何をするにも、まずは双方玉と右金に手をつけて自陣を引き締めてから、3筋の歩を上げて桂跳ねの余地も作りたいですか」
 ――小西六段は竹中名人の弟弟子にあたるわけですが、二階堂一門はどうですか?
「……酒の入った師匠を止める方法ってのが、最初に教わった技術ですね」
 ――その一言で何か伝わっちゃいますね。
「勿論、将棋を学ぶには最高の環境だってことも自信を持って断言出来ますよ」
 昨夜の前夜祭では大活躍だった小西六段である。(続く)』


 ――後3四歩、先4八金、後5二金、先3六歩、後4四歩、先6八銀、後4二銀、先5八玉、後6五銀、先同銀、後同歩――
『後手からガッチャンと銀をぶつけて6筋の位を取った。後手5二金に対して先手4八金と少々不格好な点は3七桂と跳ねた時に1三から4六という角の動きが見える為やむなし。先手はまずは3七に桂を跳ねてから、後手は4三銀から1三角を狙う。後手8六歩とした時に、同歩、同飛で、先手は銀を7七に上げなければならなくなる為矢倉への入城を視野に4三銀には6九玉……という流れが控え室で検討されている有力な変化の例。まだ優劣を論ずる段階ではなく和やかな空気は変わらないが、それでも考える材料は増えてきた。
「そういや浅井君ってまだ封じ手してないよね」
 封じ手時刻まであと一時間と迫っておりそちらの駆け引きも気になるところと、話題は浅井の封じ手に関して。
「今回狙ってきたりしないのかな、何のかんので一回はやっておきたいでしょ」
「まあ、二日制やるならね」
 ということで今回の封じ手は四手後の浅井だろう、というのが検討の結果。
「このメンツで封じ手やったことあるのって、京極先生と小寺さんと、あとは吉川さんか」
「私のは本当に記念みたいになっちゃったけどね」
 吉川八段の左近位挑戦は今期つい数ヶ月前の話。同タイトルを三連覇している小寺二冠へ挑戦したが、苦い経験となってしまった。
「浅井に先越されたなあ」
「まだ十七、いや十六だっけ……自分はなかなか入品出来なくて、不安で泣いてた頃だ」
 小西六段と乾四段がしんみりとした空気を滲ませながら言い合っていると、
「いやいや、封じ手ならば私もやったことがあります」
と、殊更に明るい調子で本因坊が手を挙げ、そりゃそうだと笑いが溢れる。このメンバーでなくとも、封じ手の回数では日本一を争うだろう。
「碁の封じ手ってどんなんなんですか?」
 若手らしい興味心を隠さずに乾四段が尋ねる。
「多分将棋と同じですよ。赤で丸つけて、ここにこうします、と」
 ――立花先生は封じたいタイプなんですか?
「私はどちらでも。基本的に夜は何も考えずに寝てしまうので、関係ありませんから」
 言った人間が本因坊でなければ聞き流しそうなものだが、棋士達には重みがあるものとして届いたらしい、
「やっぱ二日制は、図太く無いと勝てないよなあ」
吉川八段がぼやくと、
「またまたそんな、僕かて硝子細工のように繊細ですわ。立花先生かてそうでしょう?」
笑いを取らなければ気が済まないらしい、小寺二冠は相変わらずである。(続く)』


 ――先3七桂、後4三銀、先5六歩――
『想定通りの流れ、ここで浅井が十分ほど時間を使って封じ手を選んだ。控え室の予想は8六歩で統一されている局面、迷いが無いだけに初めての封じ手体験としては気楽で良いだろうという見方だった。
「封じ手間違えた例ってホントにあるんですかね」
 と、乾四段が呟いた。
「間違ってないか気になって夜眠れなかったとか?」
「実際はどうなんだろう」
 言い合いながら、碁盤を挟んでいる本因坊と小寺二冠に視線が向くと、
「よっぽど緊張していても、無いでしょう。書く時もそれなりに時間かけるだろうから」
と、本因坊。
「若手ビビらす為の爺さん連中の作り話なんと違うかなあ……ねえ、師匠?」
 小寺二冠は京極九段をからかって遊んでいる。
「一回試してみたことあるけどなあ、全く効果無かったで」
 しゃあしゃあと返す京極九段もさすがである。
 ――誰で試したんですか?
「島津君のお師匠さん」
 結城九段との二日制となるとどうやら三十八年前の棋将戦らしい。三十九歳のベテラン京極九段に二十七歳の新鋭結城九段が挑んだシリーズはフルセットの激戦となり、結果は結城九段が初タイトルを獲得している。
「ウチの師匠っすか……なんか、却って本気以上の力出されそう。キレるっていうか」
「せやねん。クソ真面目な人やから、カド番追い込んどったのがボコボコに逆襲されたわ」
 下手な駆け引きは要注意、ということだろうか。封じ手にはドラマが多い。(続く)』


 高野の夜、窓の外に近い月を見て、羽織りと袴だけ外し、長着のまま、布団の上で胡座を掻いて目を瞑る。目蓋越し淡い光を感じながら、流れを振り返るのでなく、先を読むのでもなく、ただ気を切らさないようにと、指し掛けの盤面を想う。
 浮かべた盤面に差す明かりの加減、時と共に海の底へ潜るかのように深さを増す青みが、やがて頂点に達すると反転し、今度は水面へと浮かんでくる。青が消え、白一色となれば目蓋の隙間から虹が見え、昨日聞いた明け六つが彼方から届く。
 それは一瞬の出来事だった。今日と昨日は別たれなかった。
 響にとってはそれこそが重要だったのである。


 ――後8六歩――
『封じ手はやはり8六歩。
「以下同歩、同飛、7七銀、8二飛、8七歩と作業を終えた時に1三角があります。先手はここで4六を受けるか、1五歩と突いてから4六角を待って受けるかですね。6九玉としていない事を考えると、1三角に7七の銀を6八へ戻して4六角に当てにいくのもありかも知れません。これなら角道も通るので4五歩から手を作れる」
 ――そろそろ差が出てくる頃でしょうか?
「まだ明言はしませんよ。外したら色々言われるんだから」
 吉川八段はこちらも先を読んでいたらしい、ガッチリ受けられてしまった。
 そこで矛先を変えて島津七段に尋ねる。
 ――1三角から4六角をどう受けるでしょう?
「1五歩から4七金ですかね。2四角と引かせて1四歩……でも、4五歩とされてどうも良くない感じがする」
 ――では、島津七段は現局面後手持ちということで?
「また巧いんだから……でもまあ、4七金もあまり良くは見えないし、1五歩と突かずに6八銀と戻すのかな……でもこれじゃあ、わざわざ銀上げたのに、あっち行ったりこっち行ったり、言いなりな感じでムカつきますね。自分なら1五歩4七金かな、多少損しても2五歩で指せる気がする」
 ――ムカついたら1五歩から?
「そうっす。竹中先生も人間なんだから、面白くない手は指したくないでしょ」
 島津七段らしいと言えばらしい答えなのだが、どうにも笑ってしまう。ムカつく、面白くない……そんな感覚で指し手を絞る人間がプロの第一線で戦っているという事実。恐るべきはその剛毅剛直の実現を可能とするだけのキャパシティか、或いはそれくらいの事を言ってのけられる逸材でなければ奨励会の壁は突破できないという事だろうか。
 島津七段に限らず、こういう感覚で指し手を決めるプロは意外と多い。
 竹中と長い付き合いのある小寺二冠曰く、
「あの人もなあ、人前では優等生やっとるけど、中身は結構やんちゃやで」
 ――何か、エピソードなどはあったりしますか?
「あー……小学生名人戦の時の話やねんけど。まともにやったら敵わんやろなって、初手8六歩と指してみたことあってな」
 ――喧嘩売ったんですね。
「そしたら彼、顔色一つ変えずに2四歩やもん」
 ――投げつけた手袋を拾って投げ返された、みたいな感じでしょうか。
「こりゃ敵わんって、そこからは普通に指したわ」
 ――結果は?
「その時は勝ったけど、その後暫く勝たせてくれへんようになってな。あの人は怒らすとホンマ怖いで」
 なるほど、「ムカついたから1五歩」、あるかも知れない。(続く)』


 ――先同歩、後同飛、先7七銀、後8二飛、先8七歩、後1三角――
『「さてここだ」
 京極九段が盤を前に呟く。控え室を代表する発言である。
 控え室で主に検討されていた手順は、1五歩4六角で4七金と上がるか、或いは1五歩とせずに6八銀と戻して4六角に4五歩5七銀かという二つ。うち1五歩4七金の変化はやや後手指し易いのではと見られており、6八銀から5七銀ならば手戻しだが形勢としては互角と見られている。
 控え室の人気を聞くと6八銀と戻すが三票(乾、小寺、京極)、1五歩から4七金が三票(小西、島津、吉川)。
 議論を続けていたところ加藤八段がひょっこり顔を出し1五歩から4七金に一票。現地解説の為にやってきた立花姉妹は姉(千代五段)が6八銀、妹(慈乃新四段)は1五歩から4七金を支持した。(続く)』


 ――先1五歩、後4六角、先5七銀、後2四角、先1四歩、後1五歩、先7五歩、後1四香、先7四歩、後同歩、先7六銀――
『先手は1五歩から5七銀と打つ手を選んだ。控え室では、持ち駒の銀を打つのは楽しみが無くなるという理由から、あまり検討されていなかった手。そこから7七の銀を上げて6筋の位を取っている歩を牽制、角道を通し左銀と右桂で攻めていく構えのようだ。
「取り敢えずタダで取らせる訳にもいかないし、なんかで受けるとして。どっちみち4筋歩で突かれるんだから今かわしておいた方が得、とすればここは5四銀ですかね」
 控え室の検討は一致している。5四銀後の変化としては4四角から3三桂、2五歩、1三角、4六歩、8六歩、同歩、同飛、8三銀。或いは5五歩から6三銀、6五銀となれば7三桂と後手が右桂を跳ねていくようなものも検討されている。
「感触としては現状互角、強いて言うなら若干後手良し――」
 と、小寺二冠から。ようやく形勢に関する発言を聞き出せたが、
「――でもひょっとしたら先手が良いかもしれんなあ」
どっちですか、とでも言わせたいらしい。チラッチラッとわざとらしくこちらを伺う。
「後手が良いです」
 ハッキリと後手持ちを宣言したのは慈乃四段ただ一人。
 ――力強く断言、と書いても構いませんか?
「力強く後手良しです」
 このやりとりを聞いて、
「そうか、こっから先手良くなるんか」
京極九段が乗っかると、控え室は爆笑の中で先手有利の変化を検討し始めた。(続く)』


 ――後5四銀、先7二歩、後同飛、先5五歩、後6三銀、先6五銀、後3三桂、先5四歩、後同歩、先4四角――
『後手が3三桂と先に跳ねた事で角の攻めは一端保留するかとも見られ、代わりに2五歩などが検討されていた所、思い切った4四角が出て昼食休憩に入った。
「これだと普通に5五銀打で後手良く見えるんだけど、まだマシな方なのかな」
 角と銀の交換だが、先手に良い変化は見えない。控え室では、5五歩とせずに4四角とする手や、飛角交換を行ってみる線なども並べられていたが、どれも現状よりはっきりと後手が良くなってしまう。
「どうも後手のペースでしょうか」
 吉川八段が言う。今回は立花妹のように笑われることもない。
「ただし一局として見る場合、最近のアイツは信用できないから。昼飯入って仕切り直しですし、午後から解りませんよ」
 島津七段からは辛い一言が出るが、皆が思っていたことなのか、真っ向から否定しようとするのは慈乃四段一人である。
「お前のは検討じゃなくて応援だろ」
 確かに、棋界における一般的な友人関係とはまた違った印象を受ける。浅井と慈乃四段は同期でも無いのだが、幼少の頃から机を並べている仲ならではという事か。

 食後、京極九段と碁を打っていた千代五段に尋ねると、
「普段から大体一緒にいますから……外ではもう少し大人の振る舞いを欲しいのですが」
困惑がありありと伝わる表情である。
 ――微笑ましいじゃないですか。棋士同士の結婚なんてことになったら、こちらとしても有難い話題なんですが、どうでしょう?
 高校生を相手に気が早すぎるという笑い話のつもりだったのだが、
「女ですから、そういう見方をされることも仕方ないのでしょうが、まずは成績で扱ってあげて欲しいですね。つまらない騒がれ方はされるだけ損ですから」
記者としては耳の痛い言葉。ともかく妹の才能は人一倍買っているらしい事は伝わった。
 追いやられるように離れた所で、
「気の強い娘で、申し訳無い」
と、これは二人の父である本因坊。
「自分が勝てないからああいう言葉が出るんだろう。女なんだから、あんな態度しか取れないなら勝負の世界に来るべきじゃないんだ」
 ――いえ、私の聞き方が失礼だったので、そんなことは。
「貴方に気を遣っている訳ではありませんよ。親としても、棋士としても、本音です」
 優しい父親かと思っていたが、優しいだけではないということか。
「それなりに勝てているのならああいう態度も認めますが、棋戦では大した成績も残せず話題性だけで大切にして頂いているのが現実。今日の解説にしてもそうでしょう」
 鋭い、と言われればそうだろう。実際に、王竜戦の現地解説会は衛星中継されるだけに連盟としても力を入れており、高野山で行われている対局に関東所属棋士をわざわざ招集したのもそれが理由に違いない。
 殊に少子化の現代では昔のように「女に将棋は指せない」などと言っていられない状況がある。そこに来て立花姉妹と言えば女性初の正棋士(しかもそれが姉妹)であり、女性でも男相手に対等に戦えるというイメージ戦略を促進する為には、欠かすことの出来ない存在だ。
 しかし、本因坊の言葉は、実の娘に対する評価としてあまりにも辛辣過ぎる。
「周りを黙らせるモノを出せないなら、三段を抜けられたのが間違いだと思って早く引退すれば良いんだ。貴方たちも、どうか甘やかさずに現実を教えてやって下さい」
 どうしてか、私にもひどく痛かった。
「お隣でも、勝負事の世界は知り尽くしている人だから。結局は親バカなんすよ……本人のプライドが人一倍高い事も理解してるから」
 聞き耳を立てていたわけでは無いだろうが、後で傍に来た島津がぼそりと言った。
 そうではない。「記者として」、「立花姉妹の扱い方を注意する意味もある本因坊の言葉が」痛かったのではない。
 私は、かつて奨励会員だった。立花千代や島津銀乃介とは奨励会時代に対局したことがある。そして、彼らにはまるで敵わなかったのだ。
 ――女で初めて棋士になって、ギリギリでも四割は保ってるんだから、実力だって十分過ぎるだろ。お前とか浅井基準で語るからおかしくなるんだ。
「盛りを過ぎたロートルとフリーの人たち相手にどれだけ勝っても、成績で評価とは言われませんよ……アイツと同程度の戦績の男を、タイトル戦の解説会でメインに据えます?」
 ――一度は順位戦で昇級だってしてる。
「運が良かったってのが世間の評価でしょ、性悪な連中に至っては話題作りに組み合わせ考慮したとまで言ってる。実際、あの時はあたりも良かった」
 ――その理屈じゃB1以上じゃないと評価されなくなるんだぞ、無茶言い過ぎだ。
「無茶でもなんでも、やれなきゃ言われる立場なんだから仕方ない」
 ――……奨励会抜けても弱いって言われる世界とか、想像できねーわ。
「将棋で金稼いでるんだから、それくらいじゃないと」
 ――俺、並の女流が相手なら、今でも平で勝ち越せるくらいの自信あんだけどな。
「聞かなかった事にしておきます。エッチなお姉ちゃんならともかく、タマ落とした野郎の愚痴は付き合う気ないんで」
 プロをゴールだと思っていた人間と、プロとして生きている人間の違いだろうか。
 昼食休憩で気が緩んだか、思わず昔の感覚で、情けない愚痴まで飛び出して、目の前の彼らが暮らす世界の厳しさを、かつて自分の目指した場所を、遙か天の彼方に見上げる。

 対局者の昼食は両者共にごま豆腐と雑煮らしい……と書いていて、対局者の昼食を必死になって調べる私が彼らと同じ世界にいるつもりなどと、そもそも烏滸がましい話であることに気が付いた。(続く)』


 ――後5五銀、先5三歩、後4四銀、先5二歩成、後同玉、先5六銀引、後4六歩――
『午後一番の手は予想通り5五銀から。控え室では角銀交換になる5五角、同歩、5三歩などの手順も検討されていたが、5三歩から後手陣守りの金と交換になった。浅井が先手陣を睨む楔の歩を打ち込んだのは午後二時半、三時からの予定となっている現地大盤解説の時刻が近付くにつれて後手が良いという声が大きくなってきた。
「この歩は先手厳しい」
 4六歩の評判が良い。次に5五歩としてジワジワ侵出していく狙いだろう、先手は銀の引く場所を確保する為に6六歩と見られる。
「八十一マス全部使って、駒が生き生きしてるね。これぞ相掛かり、これぞ将棋だ」
 加藤八段が惚れ惚れとしたように呟いた。
 控え室で高まってきた後手良しの空気に、
「アイツがポカしなきゃね」
先程と同じような言葉を繰り返した島津七段を、
「島津はアレだろ、浅井持てないくらい浅井が心配なんだろ?」
加藤八段が豪快に笑い飛ばす。ツンデレか、と誰かが茶化すと、割と当たっていたらしい、恥ずかしがって控え室から逃げ出した。
 ――敢えて後手が気になる点をあげるとすればどこでしょう?
「玉が不安定やから、そこ引き締めんと。逆転なんぞ幾らでもある状況や」
 年中ふざけていそうな人間だが将棋に関する発言は信頼出来るだろう。
「そもそも先手があの人やもん。必勝やと思っとったら必敗でしたなんて将棋はザラやろ、第一局も実質一手でああなったんやし」
 小寺二冠の言葉からすれば、まだ接戦、とした方が正しそうだ。
「ついでに、控え室の検討は外れるのが本筋っちゅう話もあんねん」
 ――私の仕事が無くなってしまうので、勘弁して下さい。
「そう言われると、頑張って当てないかんな」
 ――では、今の局面はどちらが良いでしょうか?
「ふん、せやなあ……どっちもええ、これぞ名局や」
 盛り上げるだけ盛り上げて、オチまできちんと作ってくれた。
 控え室と同じホテルに用意された解説会場には百人を超える数が集まっている。(続く)』


 ――先6六歩、後5五歩、先6七銀、後4三金、先7七桂、後6四歩、先6五歩、後5四金、先6四歩、後同銀、先6三歩、後5三玉――
 角金交換となった5三歩から玉を釣り出されている。角を切る見返りとしては足らないと考えるのが普通だが、或いは圧倒的な終盤力を誇る竹中にはこれで十分という事か。彼の布都の一振り八丁念仏の鋭さは既に一度叩き込まれているが、なればこそ、前へ出て身を躱す以外に道が無い事も知っている。畢竟どこからでも来るというのなら深さがあろうと顔面だろうと変わりなく、跳ね出してきた左桂からの攻めも真っ向から受けて立とうと、言葉の代わりに玉を前へ。
 不思議なのは身が震えない事である。奨励会からプロに入ってこの方、危険な躱し方は好む方でなく、致し方ないという局面にあって、丁寧すぎると言われるまでの、あらゆる可能性を全て塗り潰すベタ読みで、十分に無事を確かめてから指すのであっても、その道を選ぶ際には心底から凍えるような気分であったのが、今日はまるで震えない。
 感覚で剣先一寸の間合いを完全に見切る白刃取り――今ならば出来る。
 それは確信であった。

             ※
 大盤の駒を動かしながら、千代はふと昔の事を考えていた。
「――と来まして、今のこの形ですね……一通り説明も終わりましたし、少しお客さんに聞いてみましょうか」
 高校二年の冬と言えば、自分は三段リーグに初めて参加した頃だったか。女性初の快挙は男にしても早い方だと周りからは誉められるばかりだったが、当時の自分と同い年の響は今、既にタイトル戦の舞台に立って、互角以上の戦いを繰り広げている。
「現状先手が良いと思う方、どうぞ手を……ひいふうみい……やっぱり大勢いらっしゃいますね。何と言っても竹中名人ですから、「難解なら取り敢えずの竹中持ち」なんて言葉がプロの間でも本当にあるんですよ。十分有り得ると思います」
 奨励会には研修会時代も含めて十年在籍、平均的と言えば平均的かも知れない。鑑連の繋がりから結城九段に弟子入りし、碁の経験などは殆ど何の役にも立たない世界だったが、碁を打つ時間を丸ごと将棋に換えたら、積み重ねる速度は他よりも確実に上になった。
 奨励会に上がってからも、「女は女流制度があるから気楽で良い」という声が絶える事は無かったが、そういう人間を実力で黙らせていくのが快感だった。女流にならないのかという誘いの声は、勝ち星を固めて昇級していく中で薄れていき、入品を決める頃には完全に消えていた。
『仮に四段になれなくても、女流じゃなくてアマとして指してくれ』
 三段リーグ在籍中、退会して去っていく仲間から、かつては女ということに散々厭味を言われた人物だったが、その人物からそう言って貰えた時、当時は照れ臭さが勝り「嫌だ」と笑って返したが、初めて、心の底からこの世界で生きていきたいと思った。
「じゃあ次に後手が良いと思う方……あー、やっぱりそうですねえ……うん、どうしても後手の歩が先手陣に迫ってますから、よく見えますか」
 銀乃介と出会ったのは中学一年の頃。どうにか四級まで這い上がった頃だったか、夏の将棋祭の対局コーナーで、棒銀しか指さない癖に無茶苦茶に強い変な素人中学生がいると話題になっていた彼から、女でも入れるのだから奨励会なんて大した事ないと吹っ掛けられて、コテンパンにしてやったのが出会いだった。その後はやたらとつきまとわれるようになり、気が付けば弟弟子になっていて、追い着かれないように必死になったが、結局はあっさり追い抜かれた。
 それでも、銀乃介はまだ良い。口では適当な事を言いながら、影では人一倍将棋ばかり指している事を知っている。将棋指しが将棋に時間を使うことなんて当たり前なのだから「一日にどれだけ勉強している」なんてことを話題の種にはしたくないと、そういう言葉を当たり前のように吐くタイプであるから、まだ救われる。
「控え室でも、後手が良いかなという話を先程までしていたんですが、どうでしょう……最近調子悪いみたいですし、ここからどう崩れるか解りませんよ。なので竹中名人持ちの方はまだじっくりと、それこそ第一局の7七桂みたいな手が飛び出るかも知れませんし」
 慈乃などは憎悪すら覚える。あれほど将棋をバカにしている人間は内でも外でも見た事がない。もしも妹でなければ、顔も見たくないと、面と向かって言っているだろう。
 と同時に、妹だからこそ、身内だからこそ、諦めもつく。慈乃レベルにまで狂った存在であれば、『神の世界設計に生じたバグ』なのだとも思える。
 しかし、響はそうではない。あくまでも真っ当に、人間として、圧倒的に強い。
「浅井七段は将棋を離れれば普通の高校生なので、これくらいなら言っても大丈夫です」
 会場が笑っている。プロになってから将棋よりも話術ばかり巧くなったような気がする。
「あっさり決まってしまってもわざわざ山を登って来て下さったお客さんに悪いですから……敢えて後手の悪い所を言っておきますと、ちょっと玉が怖いんですよね。一応形にはなっていますが、どうもうわずっている感じで」
 自分がこの将棋を指せるだろうかと考えれば、答えはとうに出ている。現名人位を相手に相掛かり後手など、持つ度胸も、資格も、最底辺でもがいている自分には与えられない。
「今日の浅井七段は積極的というか、随分と命知らずな感じで。普段は割と、自陣の奥で陰気に籠もっている王様なんですけど、竹中名人に巧く釣り出されているのもありますが」
 その癖一丁前に解説しているのだから、一体何なのだろうか。
「では、ここからは小寺二冠にもお話を伺いましょうか。西ではヒーローでしょうから私が言うまでもありませんが、皆さんどうぞ拍手でお迎え下さい」
 こうして人前に出る事が本当はたまらなく怖いと言ったら、センチメンタルだと笑われるのだろうか。自分がこうして普及の場に立つ度に、所詮客寄せでプロになった女と陰口を叩かれているようで、成績が悪くても女というだけでチヤホヤされていると馬鹿にされているようで、怖いと言ったら。
「どうもどうも、毎度毎度の大入り大入り、おおきにおおきに。いやあしかし、名局やで、こりゃ立会人が良かったんやろな、間違いないで」
 父は決して口に出さないが、早くこの世界から足を洗って欲しいと考えているのだろう。父が響を可愛がってみせるのは、自分に対する勧告のような意図もあるのだろう。それは心底から娘を愛してくれているが故の行動なのだろう。
 そしてその事を響に伝えれば、くだらないと一言で済ませるだろう。
「それで、次の一手とかやるん?」
「そうですね、そろそろやろうかって感じで」
「景品もあるらしいから、本気で当てに行った方がええですよ……どうせしょっぱいモンやろうけど、わざわざ山登って来て下さった記念くらいにはなりますわ」
 小寺の調子の良い喋りに沸く会場の笑い声を遠くに聞きながら、ふと、負けてしまえば良いと思っていた。そう簡単にいくものではないことを思い知れと、普段は内側に押さえ込んでいる卑屈が表に浮かんだ。
 どうも今晩は自棄酒になりそうだ。
 モニターに映る対局室の響が、千代には果てしなく遠く映る。
             ※


 ――先6九玉、後7五歩、先4五歩、後同桂、先同桂、後同銀、先3七桂、後5六銀、先同銀直、後同歩、先4五銀、後4七歩成、先同金――
『先手は攻め駒を増やす為に左桂を7七に活用してきたが、後手は玉ごと前に出してでも跳ねさせない構え。こうなると、むしろ後手が7筋の桂頭から攻め易くなったが、先手は捨て身の地獄突きを見せそう簡単に土俵を割らない。
 両者一歩も引かないまま、じりじりと間合いを詰め合う。
「あのヘタレが、よくここまで腹くくったもんだ」
 怖い怖いと言いながら、しかしその目が楽しそうな島津七段。
「相手の刀が鼻先掠めるくらい、ギリギリまで踏み込んでる将棋ですよ。これで勝ったら格好良いですね」
 なるほど、この盤面は正にそういう将棋だ。形勢としては後手が有利だろうが、先手もしっかりと一撃で終わらせる体制を整えてきている、どちらかが相手の気迫に呑まれた手を指せばその一瞬で決着が付くだろう。
 控え室では、一見7六歩と突く手もありそうだがこれは王手飛車まで一直線、素直に5七歩成だろうという方向でまとまった。同金、同角成、2三飛成と先を取られても4三歩があり、或いは、同金とせずに2四飛と切って来る手もあるが、後手が悪くなる変化とは見られていない。悩む所では無いはずだ。(続く)』


 ここは5七歩成、或いは7六歩という手もあるだろうか。
 7六歩と突くのは、同銀、同飛、5四銀、同玉、5五歩、同銀、2四飛と切って同歩に6五角の王手飛車まで一直線。飛車を取らせることで手番が回ってくるが、どうにも即詰みがある形とは見えず一手一手でこちらの負け、紛れの無い流れだけに指せない。残った5七歩成は同金とするなら同角成、2三飛成と先手を取られ4三歩合が効くが、この変化を選ぶようなヌルい相手とは思えない、同金とせず2四飛と切って来るだろう。同歩から難解、一見こちらに良くなりそうだがアヤが多く紛れる可能性も高まる、玉をつり出されているだけ分が悪いと考えた方が良い。
 いつもより軽く、あくまでも流れを確認する程度の読みはほんの数分のうちに済んだが、しかし盤上を眺めているうちに、全く違う閃きが輝きと共に脳髄を貫いた。

 今まで、重要な局面では殆どベタ読みに頼っていた。仮に感覚の一手が浮かんだとしても、その変化を読み切ったという確信を持てなければ、強手は指さず引いて構えた。そのやり方で勝ち上がれる能力が異常なのだと銀乃介などは言うが、響からしてみれば、感覚に頼った一手を指し、かつそれで勝ちを重ねられる他の人間が異常に思えた。彼らは感覚という不確かなものに頼ることやそれによって引き寄せてしまうかもしれない敗北の存在を恐れないのだろうか。いつもそう思っていた。
 今ならば、解る。力任せのベタ読みだけでは辿り着けない次元というものが、将棋には確かにあるのだ。
 多くの棋士は力任せの限界を奨励会で迎え、実戦経験の中で培われる感覚の鍛錬に目を向けるが、響は力任せの勝利を可能にしてしまう器用さ故に、勝利に対する異常なまでの執着故に、敗北を死と同じほどにも捉えることから来る恐怖故に、盤上の感覚という存在を、好ましくない不確実性として、無意識のうちに封じ込めていた。
 しかし、将棋指しにとって、感覚という曖昧な存在は、同時に最大の武器ともなる。
 一切の我執を放棄し死を見つめ受け入れる。およそこの世に存在する最大の恐怖を乗り越えた事で、響は本来有していた無限の熱量を解き放った。彼がこれまで練り上げてきた剛力によって、その身を縛り続けていた鉄鎖は完全に引き千切られた。
 ――後5七桂――
 即ち、腹に刻んだ十文字が、棋士にとって真の武器となる存在を、心神に祀る一振りの刀を、響の将棋に宿したのである。

『十分ほどの考慮の後、浅井はなんと5七桂と指した。無論全く検討されていなかった手である。
 二十分後に迫った生放送のリハーサルを行っていた解説会場がざわめく。
 対局者に気を遣ってだろう、解説陣すらも無言になり、考えにくい一手だと受け止めていることはその表情からありありと伝わる。
「これ、浅井七段のポカですよね?」
 客席から、ノートパソコンを膝の上にのせた中年男性だった。
「ソフトの評価値、一気に逆転しましたよ。候補手にも上がってない、明らかにポカだ」
 わざわざ解説会にソフトを持ち込む神経は理解できないが、誰も言い返す事が出来ない。それほどまでに常識外の手だった。
「まあ……確かに筋は悪いっちゅうか、ちょお浮かびにくい手なのは確かやけど」
 あの小寺二冠ですらも反応に困っている。
「考えられるのは、飛角交換を牽制しているらしいことですかね。6九に桂が効いてますから、こうなると先手はおいそれと飛車を切れないんです」
 千代五段がフォローするが、成れる歩の頭を押さえる形、しかも角道を遮って得る見返りとしてはあまりに疑問だ。
「ソフトでは後手有利だったのに、一気に互角か先手やや良しまで戻ったんですよ?」
 勝ち誇ったような顔でソフト、ソフトと、一々カチンと来る物言いをする。これが良い年をした大人のすることなのだろうか、ゆとりよりもよっぽど狂っている。更に、
「タイトル戦に出てくるトップがこんな手指すようじゃ、プロなんてもうソフトに敵わないんじゃないですか?」
最早どうあっても引き返せない暴言まで吐いた。ファンサービスで控え室から顔を出してくれているプロ達の表情が一瞬で強張ったのが解る。立場がある以上、客に対して手酷い真似を出来ないのも仕方ないだろうが、
「ソフトソフトって、ソフトなのは手前のナニの硬度だけだってんだインポジジイ」
「良い年こいた男が、ソフトがねえと将棋も指せねえのか」
と考えていたのは私だけらしい、優等生が増えた現代棋界では珍しい、島津・加藤のキレ易い二人組がキッチリとぶちギレていた。
「俺たちみたいな一般人は真っ当に労働して社会に貢献してるんだ、アンタ達は将棋しか指せないんだから、ソフトより弱けりゃ批判されて当然だろ」
 言われてカチンと来たのか、なおも言い返すソフト厨。将棋の形勢に口を出す前にお前の人生をさっさと投了した方が良い、と助言してくれる伴侶か友人はいないのだろうか。四十は超えているのだろうに、ひどく哀れである。
 と、慈乃四段が口を開いた。
「そのパソコン、使えないから棄てた方が良いですよ。これが一番正しいもん」
 これまで無言を貫いていた彼女の、女子高生らしいといえばそうかも知れないが、裏を返せばプロらしさのまるでない、軽い物言いである。
「何言ってんだ。百歩譲ってこの手が好手だったとしても、まともな検討もしてないのにそんな断言出来るはずがないだろう」
 しぶとく粘るソフト厨、他の棋士達よりも与し易しと踏んだのか、慈乃四段に集中砲火を浴びせる。一方生放送の開始時刻までは既に十分を切っており、このままではマズイと会場中が事態の深刻さを意識し始めた。
 その時島津七段が声を張り上げ、
「そこのソフト厨。もしこの手が浅井の敗着になったらコイツの財布から十万くれてやるってよ。だから結果が出るまで暫く黙ってろ……お前も、断言した以上それで良いな?」
とんでもない事を言い出した。
「別に、それで良いよ」
 当事者の慈乃四段もまた、あっさりと受け入れている辺り、やはりただの女子高生では無いようだ。
「決まりだ。そんじゃ、ちゃっちゃと準備始めましょ」
 唖然とした表情の千代五段のことなど視界に入っていない風に、島津七段は淡々と場を仕切っていった。(続く)』


 ――先7九玉――
『浅井が5七桂と打ってから、竹中は二十分ほど時間を使った。
「ここはこの一手でしたから、この時間は5七桂の意図を読んでいたんでしょうね」
 生放送の始まった解説会場では千代五段による解説が粛々となされていく。
「残り時間は、両者共に三十分程ということで、お互いに余り残っていません。これから一時間半の放送枠ですから、決着の瞬間をお伝え出来ると思います」
 会場は先程までの騒動など無かったかのように冷静を取り戻しているが、しかし5七桂の評判が悪いのは相変わらず、竹中必勝ではという空気が濃くなってきた。
「第一局で負けてから、どうも調子崩してたから。終盤解らなくなっちゃったのかな」
 吉川八段が悔しそうな顔で言う。吉川八段は本タイトルの挑決で浅井に敗れているだけに、現在の浅井がふがいないという感覚もあるのだろうか。
 逆に5七桂を絶賛したのは、放送開始後ひょっこりと姿を見せた二十一世名人・二階堂秀行。
「猫が虎、蛇が龍に化けたかな……こりゃ今回は重治の負けだ」
 と、会場で局面を確認した瞬間に断言。弟子の為に相手の緩手を喜ぶような方ではなく、二十一世の目には本当に浅井必勝の手順と見えているのだろう。
 ――実はあまり評判が良くないのですが、この5七桂は一体どんな手なのでしょうか?
「知るか。ワシはもう引退したんだ、細かく読んだ訳がないだろう。現役に聞け」
 ――では、必勝と断言する理由は?
「勘だ、勘。あの手が指せるなら負けはない、名人とは読まずとも指せる人間のことよ」
 浅井の5七桂を聞いてから本局を一から並べ直してみるなど、二十一世はひどくご機嫌なようだ。
 その後も浅井の戦績などを眺めていたのだが、ふと、
「今年の新人王戦優勝したのか」
王竜戦が始まる直前に決めた、新人王戦の優勝が目に留まったらしい。
 ――ええ、昨年度まで五段でしたから。最後のチャンスでしたね。
「記念対局はどうするんだ。重治とは今やってるだろう」
 新人王戦に優勝した棋士はタイトルホルダーとの記念対局が組まれる。例年ならば名人が相手をする場なのだが、現名人は竹中だ。
 ――なので、今年は六角先生にお願いするらしいですよ。二十二世であり、現役のA級棋士であり、現棋天位であり。何より師弟対決ですから、盛り上がります。
 記者としても、一ファンとしても楽しみな対局なのだが、それを聞いた二十一世は、
「アイツらはただの一回、名人懸けた勝負だけで良い……代わりにワシが指してやるか」
そう言ってから、
「全く、将棋というものは有難い」
ふと漏らした言葉に込められた底の深さが、私の肌を粟立たせた。(続く)』


 ――後7六歩、先同銀、後同飛――
『五分ほどの短い間で、浅井は7六歩と突いた。これは控え室の検討で王手飛車が見えていた一直線の流れに乗る。
「どうも、この調子やと読み切った上での5七桂か。詰むや詰まざるや、二の太刀要らずの間合いやな」
 千代五段と大盤に向かう小寺二冠からは普段のおちゃらけた空気がすっかり消えている。
「控え室の検討では一直線の流れでしたから……最後の局面になった時に、5七桂がどう生きてくるのか。ちょっとまだ、検討では見えていないんですけど」
 歯切れの悪さからして、千代五段は後手の詰みがないと見ているのだろうか。
 詰めば後手、詰まなければ先手。小寺二冠の言う通り、両者共に二の太刀の無い必殺の間合いに入った。果たして首が飛ぶのはどちらの玉か。
 残り時間は両者三十分を切り、決着は間近に迫っている。(続く)』


 ――先5四銀、後同玉、先5五歩、後同銀――
 我が身ながら不思議な体験だった。
 普段ならば、仮に『読み切った上で掛けさせる』ものであっても、王手飛車など気持ちが悪いものだが、今はまるで動じていない。
 読み切っている訳ではない。この先に詰みがありそうな気がしている、それだけなのだ。
「時間は?」
 駒音だけが鳴っていた対局室に竹中の声が響くと、耳鳴りのように聞こえた。昨日今日と通じて初めての言葉だったか知れない。
「残り二十三分です」
「二十分になったら教えて下さい、読み上げは五分からお願いします」
 手は2四飛の一つ。悩む必要は無く、息を整えるということだろう。
「浅井七段は、残り十七分ですが、読み上げはどうなさいますか?」
「五分から、お願いします」
 三分後、記録係の呼びかけに反応して竹中は2四飛。響は一呼吸の間で同歩と返す。
 ――先2四飛、後同歩――
 6五角だ、打ってこい。
 駒台に飛車を乗せながら、言葉の代わりに盤の向かいを睨みつけた響の眼光を、竹中はまっすぐに見返した。
 唇の端を僅かに吊り上げる、挑発的な笑みを浮かべながら、
 ――先6五角――
面白い、乗ってやる。そう言わんばかりに、今までのどの駒音よりも高く響いたのとほぼ同時。ぶつん、と、大きな音だった。それは響自身の耳にも届いた。
 ぬるりと口周りを流れていた生温かい感触がやがて手の甲に落ちた。唇の隙間から入り込んできたのは鉄の味である。
「浅井七段……血が」
 既に記録係の声は耳に入らず、
 ――後6四玉――
下がることなく躱してから、無意識の行動だった、盤の手前に置いていた扇子を手に持つと、滝のように流れ出る血も気に留めず勢いよく振り開く。
 されど無骨に描かれた常住死身の四文字は今更に見ることもない。
『「6四玉……えっ、6四玉ですか?」
 指し手を聞いた千代五段が珍しく狼狽している。無理もない、指し間違いでないのかと誰しもが疑った。
 この局面、浅井は引いて6三の歩を払わずに6四玉と躱したのである。
「こりゃもう、狂気の沙汰やな。命知らずとしか言いようがないわ」
 小寺二冠は呆れたように言う。
「そういや、扇子なんて書いてあったん? やっと開いたやろ」
 第一戦から、恐らくは忘れていたのだろうが、浅井は一度も扇子を開かなかった。浅井の扇子に何が書かれているのか、というのが一つの関心事だったのである。
「常住死身……また、えらいけったいな字面やな。どういう意味なんやろ」
 常住死身。三島由紀夫が愛したことでも知られる葉隠の一節、同書の基本精神を表している言葉である。葉隠、大和魂というと、近頃では前大戦の敗北からか、戦争や特攻に結びつけて、偏狭なナショナリズムを代表する言葉として扱われてしまいがちだが、本来はそのような卑小な内容ではない。
 肥前の山本常朝が葉隠の内容を口述したのは十八世紀初頭、将棋で言うと四世五代宗桂や五世二代宗印の頃。時は正に江戸太平のど真ん中であり、当時の武士達は勇ましく合戦に出ることもなく、死の恐怖から完全に解放されてのびのび暮らしていた。ところがそれが良くなかった。簡単に言うと平和ボケして生活がたるんでしまったのである。生の実感が薄れてしまったのである。どことなく現代の世相と被るではないか。現代を生きる人間ならば共感するだろうが、過ぎた飽食こそは人間の精神を殺す。常朝は、人間が人間でなくなってしまうこの文明病・精神の危機に、敢えて死という劇薬を持ち出すことで人間の生を取り戻そうとしたのである。
「私がくれてやったんですよ」
 開いたか、やっと開いたか、と、本因坊は嬉しそうである。浅井の着物は立花鑑連氏が初めて本因坊を獲得した二十八年前に着ていた物であるということは、既に御存知の方も多いだろうが、扇子もその時に使っていた物だと言う。
 ――何故、常住死身なのですか?
「私は、臆病なんですよ。碁しか打てない人間ですから、碁に負けるのが本当に怖くて、ひどい時は盤に向かうのが怖いなんてこともありましてね」
 ――葉隠は、臆病な人間の為にこそあるとも言いますよね。
「死なば諸共、ではダメなんです、既に死んでいなければ。そうして初めて他の一切から離れて碁だけと向き合う事ができる……ただ、今の響には、もう必要ありませんね」
 ――様になっていると思いますが。
「言葉なんてものは飾りですよ、無くて良いなら無い方が良いんです」
 王手飛車の局面にあっておかしな話だが、本因坊の話を聞いていると浅井の勝利を疑えなくなってしまう自分がいる。
 浅井の雰囲気に引き摺られるかのように、異様な空気が漂い始めた解説会場に更にもう一報、浅井の出血に関して。鼻血自体は前例のあることなのだが、今回の場合は量が尋常でなく、放っておくと到底止まりそうに無いという情報である。記録係が声を掛けようにも両対局者極限まで集中しており耳に入らない為、立会人が権限を行使してまずは双方の持ち時間を止めた上で止血するという結論が出た。
「浅井血塗れの局ってか……ホンマに死人出たら困るし、ちょっくら行って来ますわ」
 普段ならば小寺流の冗談として聞き流す所だが、至って真剣な声色だけに会場から笑いが起きることも無い。(続く)』

 6四玉とした響の一手に、竹中は最後の持ち時間を使っている。恐らく読み上げまでは使うだろう。即詰みがなければ指せないはずの手。本当にここで飛車を取れるのか、竹中からすれば限界まで読まなければならない局面。
 突然、
「失礼する」
対局室に入ってきた小寺が、
「双方持ち時間を一度止めた上で、まずは浅井七段の血を止めることを優先したい」
言うが、両対局者共に最早外の声など耳に入っておらず盤上から目を外さない。
 焦れた小寺は溜息を一つ吐き、
「立会人権限や、止めるで」
と、盤に近付こうとしたその時。
「黙りなさい」
 静かに、しかしこの上なく明瞭な声で、竹中は言った。
「立会人困らせんな、血止めてからでええやろうが。鼻血で死ぬなんぞ笑い話にもならん」
「勝負に不純物が混じる。対局者として立会人の申し出を断る」
「アホ抜かせ。ただの鼻血やったらほっとくが、医者に診せろっちゅう上の判断や」
 竹中は言葉だけを向けながら、視線は盤上を向いている。小寺の言葉は全て右から左へ流れているだろう、止める気など毛頭無いのだ。
「こちらからもお断りします」
 盤から、向かいの竹中から、視線を外さない響が言う。
「四本足と盤の裏、貴方も棋士なら御存知でしょう。邪魔をしないで頂きたい」
 蛇口を開け放したような勢いで流れ出る血は既に顔半分を深紅に染めており、羽織袴は燃えるようになりながら、なおもその眼光は揺るがない。
「イチビんのも大概にせえよオドレら。立会人の決定や、従わんかい」
 どうあっても引き下がりそうにない小寺に、響は無言で胸元を開き、さらしを解く。
「弁えてないのはアンタだろ」
 現れた十文字、抜き身の刃を手に取ると、
「神が来ようと仏が来ようと、これは俺達二人だけの将棋だ」
振り下ろし、畳に深く突き刺した。

『両対局者が中断を拒否したという情報が入る。立会人の小寺二冠は終局近しということで解説会場には戻らず、このまま最後まで対局室に居る事になった。
 解説会場のモニターには、上半身を露出した浅井が、腹に仕込んでいた小刀を畳に突き立てた事がはっきりと伝わる映像が映っている。
「いやしかし、気合で勝てって話はしたけど、ここまでやるか」
 空気の重い解説会場で、小寺二冠に代わってマイクを握った島津七段が愉快そうに言う。場の空気を変えようとしているのではなく、単純に愉快なのだろう。
「お客さんたち、得したね。今ここにいるアンタ達は将棋史の生き証人だ」
 島津七段に呼応するように、
「いやあ、本当に良い勝負だ。私も将棋がもう少し強ければ良かったんだが」
客席の本因坊も、やはりどこか嬉しそうである。この会場において明るい顔をしているのはこの二人と、同じくプロ棋士の職にある中でも特に数名だけであろう。本因坊研の男達はどこか正気ではないのかも知れない。
「竹中名人は時間を使ってますが、読み抜けがないかの確認ですね。7六の飛車を取った時に即詰みが無いかっていうこと。即詰みさえ無ければ、後手玉は自分から詰めろをかけられに行きましたから、ぶっちゃけ実戦詰め将棋です」
 簡単にまとめるが、検討陣はまだ即詰みを見つけられていない。最も考えられるのは5七に打った桂の効いている6九に飛車を打つ、6九飛、8八玉、7九銀というところからのものだが、これは不詰みという結論でまとまっている。
 しかしこの異様な雰囲気、自ら死地に飛び込んだ浅井の様子を見ても、とても竹中勝勢とは言えない。
「ま、こんなん詰みが見えてるとしたら対局者だけでしょう」
 島津七段はあっけらかんと言ってのけた。(続く)』


「七、八、九……竹中先生持ち時間を使い切りました。これより一分将棋でお願いします」
 持ち時間を使い切り秒読みが始まる。記録係の声が震えているのは幻聴ではない。
 竹中は顔色一つ変えず、ただじっと盤を睨んでいる。
「三十秒」
 半分が過ぎ、
「四十秒」
三分の二が過ぎてもなお動かないのは、最後の十秒まで考えると決めているからであろう。不詰みであれば指し間違える事も無いという自負あればこその行為。最早この勝負両者共に文字通り必死のものとなり、つまらない動揺が沸く余地など無い。
「五十秒、一、二、三――」
 最後の十秒も半ばにさしかかった頃、竹中の手がふわりと浮かび盤上7六の飛車をつまんだ。ゆっくりとした動作で駒台に乗せ、動かした角の駒音も乱れない。
 ――先7六角――
 不詰みだ。盤上の先手角が静かに言う。
『7六角、竹中は不詰みと読んだ。
「さて、ここで不詰みならこっぱずかしいハッタリ野郎なんですがね。どうなりますか」
 最早解説する事も無い、要は浅井が何を指すかが全てなのだ。
 会場は既に静まりかえり、ただ息を呑んで浅井の一手を待っている。ふと、例のソフト発言をした中年男性を見ると、最早パソコンを見ることはやめたらしい、対局室の様子が映るモニターを食い入るように眺めている。もし仮に本局で浅井が負けたとしても、今後はプロをソフト以下だなどと罵ろうとは思わないだろう。
 将棋はそういうものじゃない、もっと楽しいものだ。これで良い、そう思った。
 終局へ向けて解説会場は静かな時を過ごしていく。次の一手で全てが決まる。(続く)』


 幼い頃、あれは七歳だったか八歳だったか、小学校に上がったばかりのはずだが、祖父の蔵に眠っていた無双に手を出した。当時既に雑誌に載っているような十数手詰め程度のものなら即答出来るレベルだったから、舐めていたのだ。
 間違いだった。三代宗看は甘くなかった。解けないのが悔しくて一日中考えていたら、ついには夢にまで出てくるようになった。
 ――詰むや詰まざるや。
 三十番一一九手詰め。初めて解けたのは学校の授業中、確か算数だったと思う。教師に指名された時、反射的に5九竜と叫んでしまい、職員室で説教されたことを覚えている。
 ――詰むや詰まざるや。
 解くのが楽しくて、気が付けば習慣になっていた。自分でも、遊び感覚で何百何千何万と作ってきた。
 ――詰むや詰まざるや。
 だからこそ一目直感で解る。駒台から拾い上げ自ら輝く6八へ、
 ――後6八銀――
打ち込んだ銀はぬらりと朱に濡れあたかも返り血を浴びたかのように鈍く光る。
 即詰み。銀の一閃が先手玉の首を刎ねた。

 竹中は一瞬驚愕の表情を見せたが、それからは僅かに二十秒ほど、盤面を舐めただけであった。それから短く、平静を取り戻す為のように、ああ、と呟き、ありません、と駒台に手を置いた。





『先手投了後、解説会場では読み切れず、対局終了後のインタビューで竹中本人から確認することになった。
 まず6八銀に8九玉と躱す場合は、8八歩、同金、7九飛、9八玉、8九銀、同金、同飛成、同玉、8八銀、同玉、7九角、7八玉、6九銀不成、6七玉、6六金の十七手。
 6八銀に同金とする場合は、5九飛(後手が6四玉として6三の歩を払わなかったのはこの為、先手は歩合が出来ない)、6九銀、同飛成、同金、同桂成、同玉、6八銀、同玉、5七銀――以下主な分岐例を二つ示す。
 5七銀に5九玉とした場合は6八銀打、4九玉、2七角打、3八銀打、4八金打、同金、同銀成、同玉、5七歩成、3九玉、4八金打、2八玉、3八角成、1八玉、2七銀打、1七玉、1六銀成、1八玉、2七馬、2九玉、3八金の三十三手。
 5七銀に同金とした場合は、同歩成、同玉、5六金、4八玉、5七角、3八玉、4七金、同玉、4六銀、5八玉、6九銀、5九玉、5八歩、同角、同銀不成、同玉、6八金、4九玉、5八角、3八玉、4七角成、2八玉、3七銀成、1八玉、2六桂、1七玉、1六歩、2六玉、3六成銀の四十一手。
 他変化含めて、全て間違いなく即詰み。
 一見タダの所に放り込む6八銀は竹中も全く考慮していなかったとのことだが、これに関しては指した浅井を誉めるよりない。終局後は感動で目に涙を溜めていたソフトの中年男性にも尋ねてみたが、恥ずかしそうに、勘弁してくれと顔を赤らめながら、あの時点でも悪手と判断していた、とその時のデータを見せてくれた。評価値が先手側に六百傾いて先手勝勢(二〇〇〇以上で検討を打ち切るらしい)。
「これからは参考程度に眺めることにするよ。アテになる・ならないの問題じゃなくて、ソフトの数値で判断するよりも楽しい見方を教えて貰ったから」
 それが良いだろう。将棋オタクがまた一人誕生したことを私も喜ぶ。
 ちなみに、反省した彼は局後プロの方々に自分から頭を下げに行き、当然大半のプロは冷めた視線を送っていたが(本人はそれも覚悟の上だったろう。でなければ筋が通らない、と言い張るような単純な性格だった)、ある意味でバカの代表とも言えるような性格をしている島津七段がその場で白扇に揮毫してプレゼントした事も、エピソードとして付け加えておく。
 5七桂からの読み切りに関して、本人のコメントが取りたかったが、出血がひどく対局後はすぐに医者の元へ向かった為に聞けず。三時間ほどして、体調が落ち着いた後に改めて聞いたところによると、ハッキリと読み切っていた訳ではなく、感覚として詰みそうだというものに頼って最後まで進めたらしい。それでも、何も知らせない状態で本人に投了図以下を指させてみたところ、全ての変化を完璧に指してみせたのだから完勝だろう。
 始まりから終わりまで、正しく将棋史に残る神憑り的な一局。
「これから暫く楽しめそうです」
 そう語った竹中の笑顔の裏には、浅井に劣らぬ恐ろしい気迫が感じられた。(終)』










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