一二

       十二

     十二の一

 はいどうぞ、と渡された茶碗を受け取った響が重い表情で箸を取る、折は師走の月半ば、立花家の食卓は朝七時。
「昨日は勝ったのだろう。そんな顔をして、どうかしたのか?」
 新聞片手に尋ねる鑑連に、
「しかも相手は因縁の肝付校長と来たもんだ、ボッコボコにぶちのめして清々しただろ」
横から口を出す銀乃介は、昨夜は来ていなかったが、対局の日は早起きしてしっかり飯を食うのが基本と常々語っている彼のこと、勝負に備えてコンビニ弁当以外の朝食を食べに来たのだろう。
「対局終わってから会長に会ってさ……まあ、めんどくせえなって」
 昨日の対局はB級二組順位戦七回戦。放送協会杯での一件よりも遙か以前から腹に溜め込んでいた肝付七段が相手の一局は、相手が序盤で犯したミスをネチネチと咎めてやり、二度とつまらないことを言えなくなるまでぶちのめしてやるという殺意も相まって、手数にして六二手という早い終局は午後六時の夕食休憩を迎えることも無い完勝――であったにも関わらず暗い顔をしているのはどういう事かと問われたならば、原因は局後ばったり出くわした連盟会長の存在に他ならない。
「そりゃ問題発言だ」
 口で言いながらも銀乃介にさほど驚いた様子が見えないのは、響の言わんとするところを察した故であろう。
「嫌いじゃないんだけどさ……実際あの人みたいにソロバン弾ける人なんて他にいないんだろうし、将棋への姿勢に関しては文句なく尊敬できるし、強かったし」
 二年に一度、連盟の会員である棋士達の投票によって改選される会長職は、既に五期目を数える松永久秀永世二冠御年六十五歳。十年前A級を陥落した際に、『一期でも名人を張った人間が棋界の頂点から外れる事は名人の権威に傷がつく』と、かねてから公言していた通り引退した棋士である。現役通算成績は圧巻の一〇〇〇勝超え、A級在位二十六期中名人は一期、獲得タイトル二十二期の永世二冠。中でも最盛期の三十三年前には長らく二階堂と六角の間を行き来していた名人位を奪取しての三冠制覇を成し遂げており、両雄が圧倒的であった棋界において、頂点に割って入ることのできた数少ない存在であった。
「ただなんていうか……雰囲気が苦手っていうか、そういう感じ」
 松永と話をしていると、何気ない日常会話ですら、痛くも無い腹を探られているような不気味さがついて回る。銀乃介や小寺のように真性のバカというタイプではなく、竹中のような生粋の紳士という訳でも無い、将棋指しというよりも政治家と言った方がしっくりくるタイプ。盤駒で向き合うのならともかく日常生活まで要らぬ読み合いはしたくないと、響は松永が苦手だった。
「合う合わないはどうしようもないだろ。酒の付き合い程度ならただの面白いジジイでも、政治絡みじゃ俺も関わりたくねーし」
 という銀乃介の言葉を聞いて、鑑連は、
「それも若さの証明だ、今のうちに味わっておけ」
新聞に目をやりながら、自身の若かりし頃を懐かしんでいるらしい口調。
「年取ると慣れるもん?」
「いや、年を取ると政治をやっている人間が現役時代を知っている層に変わるからな」
 片手の新聞を放さないまま、空いている手で味噌汁の碗に手を伸ばそうとするも、隣に座る立花の母にぴしゃりと叩き落とされていた。
「どういう意味さ」
 しぶしぶ新聞をたたむ姿へ更に問うと、
「盤上で勝てると解っていれば萎縮する必要も無いだろう」
溜める事も無く、頂きますと両手を合わせながら、いかにも自明といった風に答える。
 一寸の間を置いて、今度は響にもその真意が理解でき、この親にしてこの娘かと、不遜の代名詞のような存在、慈乃の方を見てみれば、味噌汁の碗を持ったままうつらうつらと舟をこぐ間抜けがいた。
 そのうちひっくり返すのではないかと眺めていると、
「――で、何の話だったんだよ」
銀乃介に呼び戻され、
「別に……新人王の表彰式のことと、話題が出来て有難いみたいな話と、あとは記念対局の話。相手が二階堂先生に変わったってのと、日程は王竜が決まるまで待ってくれるとさ」
嘘は吐かず、しかし陰鬱な気分の原因、即ち祖父の件に関するやりとりに関しては隠して答える。
「あのおまんこじいさんまだ将棋指せるのか。ボケて駒の動かし方まで忘れてそうだが」
「老いても枯れても二十一世ってことだろ」
「にしても、とことん師匠と縁がないな。こんだけ勝ってりゃ一回位どっかで当たりそうなもんだが」
「今はまだ良いよ、どっちみち名人戦以外じゃあの人の勘定に入らないだろうし」
 と、無自覚に言う響もまた、立花の不遜に染まっているのかも知れない。
「順位戦B級二組が何ほざいてんだか」
「朝っぱらから絡むにしても、タイトル戦くらい経験してからにしてくれって」
 普段と変わらぬじゃれ合いも、今朝は一味違っている。
「ちと調子に乗りすぎだな……ま、今日はワカラセてやるよ」
 言って食後の茶をすすり、煙草を吸いに席を立った銀乃介の背中へ向けられる、響の瞳は既に覚悟を定めたものに変わっていた。

 放送協会杯三回戦は本日夕方からの収録。対局相手の両者が同じ釜の飯を食らう、奇妙な食卓で、
「ウギャッ!」
と、案の定味噌汁をぶちまけた、慈乃の叫び声が耳を突き抜けたのは直後の事である。

     十二の二

『――さて続きましては最近お馴染みとなった将棋の情報、棋界最高峰タイトルの王竜戦、高校二年生にして挑戦者となっております注目の一六歳、浅井七段の話題です――』
 昼下がり、千駄ヶ谷会館の会長執務室には連盟会長松永久秀の姿があった。主婦向けの情報番組にチャンネルを合わせたテレビでは、ちょうど王竜戦の話題が流れている。
『本シリーズではスタートダッシュに失敗し二連敗、このままストレートかとも危ぶまれましたが、第三局、今映像が流れていますね、この高野山血戦を制してからははっきりと復調、第四局も連取して二勝二敗のタイに戻しました。
 その後第五局は王者竹中名人の意地が炸裂、二百手を超す長丁場を落としカド番へ追い込まれますが、先日の第六局でまたも星を取り返し逆王手、泣いても笑ってもこれで決着の最終局は再来週、新潟県内の旅館で行われます』
 将棋というものが大衆の娯楽から忘れ去られようとしている現代において、このような扱われ方はいつ以来だろうか。松永の脳裏にそんな考えが浮かんでいた。
 テレビの画面には第三局高野山の対局室、顔面を深紅に染めた響と竹中が睨み合う映像が流れている。
『将棋ってのは凄いもんですねえ。近頃は格闘技なんかを見てても、何だかなあって感じなんですが、この映像を見てると興奮しますから。覚悟が違いますよ、気迫が。私は親父と打った程度ですが、これを見て久々にやりたくなっちゃって、盤駒をね、ちゃんとした物を買ったんですよ。そうしたら、駒の動かし方を忘れちゃっててね、ひどいもんです、一から、初心者用の入門書を買って勉強してます……どうです、斉藤さんなんかは、ウン十年も前から趣味将棋でしょ、どうなの、最近のこのブームは』
 お笑い芸人出身の司会者が言う。実際、棋書の売り上げは十倍以上に跳ね上がっているとのことで、増刷が間に合わないという、印刷会社の嬉しい悲鳴が連盟にも届いている。
『そうだねえ、近頃じゃ若い人が指すんだよ、今時の格好したさ、僕なんかが見るとだらしない格好なんだけど、そういう子たちが将棋指してるの。
 僕は昔から、休みの日は道場通うのが日課なんだけど、むさ苦しい連中ばっかりだったんだ。でも近頃じゃ、若い子が指しにくるようになってさあ。女の子もいるんだよ、それもジョシコーセー、びっくりしちゃった』
『へえ、良いなあ。私も道場通ってみようかな。女子高生なんてねえ、もうビデオに出てくるようなパチモンしか見られない年だから、フトモモが恋しくて……いや失礼、これ昼の番組だったっけ。マリちゃんなんかはどう? まあ、モデルさんは将棋やらないよね』
『やりますよ。昔お父さんと指したこともありますし、定跡とかを本格的に覚えるようになったのは最近ですけど、インターネットで毎日指してます。私はね、群馬の出身なんで、四間党を目指してるんです』
『なんか専門的な事言ってるけど、群馬出身だと四間党ってヤツになるの?』
『そうですよ、群馬生まれは四間指さなきゃダメなんですよ』
『さっぱり解らないや。っていうかシケンって何、斉藤さん教えて』
『左から四マスの地点に振るのが四間飛車。なんで左から数えるかっていうと、振り飛車は元々後手番専用の戦法だって考えられてたかららしいよ、後手だと4筋に振るでしょう……どこで聞いたか覚えてないし、本当かどうか知らないけどね。群馬が四間ってのは、四間の革命起こした振り飛車の神様が群馬の出身だからでしょう』
『へえ……で、具体的にはどういう?』
『……話すと長いけど、ま、女子供は飛車を振りたがるという理解で間違ってない。要は適当にやっても形になる戦法なんですよ』
『適当に振っても形になるなんて、何十年前の将棋ですか。最近の振り飛車は序盤だってシッカリしてるんです、その流れを作ったのが群馬の神なんです。後手の時だけ何となく3四歩ついてから相居飛車はメンドイし角道止めて振っとこうかな、みたいなファミレス四間とは違うんです、老舗の味を目指してるんですよ』
『まあご立派だけど、どうせ定跡覚えるのが面倒臭いから適当に飛車振ろうとして、手軽なのが四間だったって程度でしょ?』
『私は先手なら石田もやりますよ、居飛車はおじさん臭いからやらないけど……居飛車を指したがる人って、なんかそれだけで加齢臭しそうだもん』
『居飛車がおじさん臭いっていうのが、いかにもガキだね。居飛車は男の浪漫だよ、2六8四を突けるかどうかで男の価値は決まるんだ』
 モデルをしているのだという、いかにも現代的な女が将棋について熱く語る珍妙な映像。芸能人など何を語るにも腹でソロバンを弾いているのだろうが、将棋を語れば利になると踏んでいるその判断を見れば、今将棋がどれだけ注目されているかも解る。
『いや、もう、訳解らないことを二人で話始めちゃったけど、本当に将棋凄いね。今までこの番組でも散々色々なブームを取り上げてきたけど、今回はそういうのとまた違う気がする。日曜午前中の教育テレビ、近頃じゃ視聴率二桁が当たり前になってきてるって』
 司会の男が語ると、アシスタントのアナウンサーがフリップボードを取り出した。放送協会杯の視聴率グラフだろう、直近のところで垂直に近い角度で跳ね上がっている。
『日曜午前中ですからね、日曜の午前中に、最高で十八パーセント、最近じゃゴールデンでも滅多に見ない数字ですよ、異常ですよ、しかもそれが将棋ですよ。日曜の朝から外に出ないで将棋見るなんてこの国どうかしてるんじゃないの、って言いたくなりますね』
 王竜戦第三局直後、流血騒ぎを面白おかしく取り上げるメディアの中で放送された放送協会杯二回戦は、会長権限で予定を繰り替え、響が解説に呼ばれた加藤八段と島津七段の一局を重ねた事が功を奏した数字である。その後もコンスタントに二桁の数字を叩き出し続けているというのだから、浅井響という特定の存在だけでなく、将棋全体が注目されている事も間違いない。
『だって本当に面白いんですよ』
『けど、素人じゃ見ても解らないでしょ?』
『いえいえ、プロの方が解説してますから。それに盤面解らなくても裏話とか聞けるだけでもうたまりません。少しでも将棋指すようになると、プロがヒーローに見えてくるんですよ、プロ棋士が世紀末救世主みたいに見えるんです。日曜朝から駒得気分ですよ』
『また訳の解らないことを……マリちゃんオタクっぽいよ』
 松永にとって、いや連盟にとって、高野山での流血騒動は僥倖だった。
 現役高校生のタイトル挑戦というだけでは、一時の話題として取り扱っては貰えても、一般生活に将棋を根付かせるまでにはあまりにも足りない。ましてや当事者があの六角に瓜二つの無愛想な弟子と来れば継続的な報道には至らなかっただろう。しかし、あの流血があった。将棋における普及の欠点、即ち素人が理解することの難しさという点を補って余りある――一目人を惹きつけることができるキャッチーな事件、インパクトのある視覚効果――あの高野山の事件は、広告に求められる全ての要素を完璧以上に満たしていた。
 だからこそ、この機会を逃す訳にはいかない。
『私みたいな女のコト、今はフジョシって言うんです』
『フジョシ、腐った女って書くヤツ?』
『それはホモとかが好きな人で、婦女子と引っかけてるのは同じだけどこっちは歩、将棋の歩にひっかけて歩女子。今の世の中、歩女子が最先端なんですよ』
『へえ、最先端か。そういえば、女性でプロをやってらっしゃる方もいるらしいし。将棋といえば男の世界ってイメージだったけど、凄いなあ、今は女のコも将棋なのか』
『電車の中とかでもねえ、本読んでる人をチラっと見たら、それが将棋の本だったりする。良い時代になったなあって、僕なんかは思いますね』
『なるほどねえ……で、王竜戦というヤツ、次でいよいよ決着ということで、まだ再来週まで日はありますがここで皆さんとおさらいしておこうとまとめてありますので――』


 テレビの中で調子よく語る司会の男の声に被せるように、執務室のドアが乱暴なノックと共に開けられた。
「邪魔するぞ」
 ドカドカと音を立てて入ってきたのは二十一世・二階堂秀行である。
「なんだ、辛気くさいツラしやがって。兄弟子が来てやったんだ、茶くらい出さんか」
「今の私に茶汲みさせられるのなんてアンタくらいですよ」
 と、苦笑しながらも松永はしっかり茶を用意する。半世紀近く付き合っているのだから抵抗のしようがないことも身に染みていた。
「十兵衛の孫か。最近よくテレビに出ている」
 テレビでは第三局の5七桂という手について解説がなされている。
 流血沙汰だけでなくこうして盤面にも触れるようになったのは報道が一週間も過ぎた頃。視聴者たちもただのバカではないということだろう、鼻血だけでなく将棋の中身についても解説して欲しいという声がいつの間にか大きくなっていたと、報道関係者からは聞いている。
 一過性のブームで終わらせない為にはこの上ない流れを間近に見、内心で喜びながらも、
「浅井響は浅井響。高校二年十六歳のB級二組で王竜挑戦、棋界の大事な金の卵ですよ」
しかし返す表情は、知れず堅くなっていた。
 二階堂はふんと鼻を鳴らすと、
「そんなに意固地にならなくても良いだろう、現に十兵衛の孫が金の卵なんだ」
からかいを隠さない言い様である。
「軽々にその名を出さないで下さい。知らない人間にわざわざ聞かせる話じゃない」
「隠そうとするから却って滑稽なんだ、お前は寝小便したガキと同じさ」
「なるほど確かに。なら、秀行さんや六角さんは十兵衛の女って訳ですね」
 言い放った瞬間に、瞬時にして色の変わった、獰猛な眼光が突き刺さると、松永は俄に乱した平静を取り戻す為の一呼吸の間を置いてから、
「少しは二十一世という立場を自覚して頂かなければ。貴方や六角さんは既に将棋の歴史なんですよ、生きながらにしてね」
決して圧に竦んだ訳ではないということは、堂々とした態度から溢れる余裕で解る。
 いかに二十一世を相手にしているとは言え、松永は自身の棋力を侮っていない。見せないことにこそ、演じてみせることにこそ、松永という人物の怖さがある。笑顔の裏、握手の逆手には、必ず一撃の毒刃を隠しているのである。
「こんな世界で育った癖に、一体誰に似たんだか……お前は少し真面目過ぎる。ここまでくりゃあ先は長くもないんだぜ、ちったあ気楽に生きてみろ」
 弟弟子の性質など知り尽くしている二階堂もまた、これ以上踏み込もうとはしない。
 いつの間にか将棋の話題を終え騒がしいだけのものとなっていたテレビを消すと、室内は午後の温かな日差しに伸びた二つの影が静かだった。
「良い天気だ……久々に鳩森でも参ってくるかな」
 窓外を眺めながら、ふと漏れた二階堂の呟きに、
「今更神頼みするほどに追い込まれているのなら、取りやめても構いませんよ。年明けになりますから、今から探せば代わりも見つかるでしょう」
知らぬ人間が聞けば解らないだろう、真剣なふうを装って人をおちょくるのは松永の趣味でもある。
「一日座っとる体力が無くなったから引退しただけのことよ。半日で指すなら、今のAのメンツは余裕で勝ち越せる」
「そりゃあ初耳ってやつですよ。しかしまあ、そういうことなら、テレビ棋戦限定で復帰してみますか? 無論予選から出て頂きますが」
「テレビ用のじゃ短すぎて将棋を指した気にならん」
「あっちじゃ長いこっちは短いですか……年寄りなんだから、アンタももう少し可愛げを持ちなさいってね」
「なんのなんの、アッチもコッチもまだまだ現役よ」
 ハッハッハ、と豪快に笑いながらマッチを擦り煙草に火を点ける、その仕草に、松永はふと嘆息した。
 半世紀。言葉にすれば一言、しかしその間にどれだけの時があったであろうか。自身の筋張った手の甲を見れば、老いと共に身に付けた賢さが重なるようである。しかし目の前の、十は上の、あとは死を待つばかりとなった老人の、自身よりも明らかに老いた枯れ枝のような手からは、何故か若々しさすら感じてしまう。
 憧れなのだった。勝負とは別のところで、この兄弟子、その生き様に、松永は心底から憧れていた――
「昨日、浅井君に会いましてね。老いぼれ相手でも油断するなと言っておきました。連盟の宝が引退棋士に負けるなんて、大損失ですから」
「こっちとしても、ジジイと侮ったから負けたなんて勝負はしたくねえな。十兵衛殺した才能だ、しっかり味わっておかにゃ死にきれん」
――だからこそ、十兵衛と、その名を聞いた時には一瞬計算を忘れる。
「勝って下さいよ」
「なんだい、言うことが変わりやがった」
「勝って、いい加減悪い夢から醒めて下さい。何度でも言う、貴方が二十一世なんだ」
 あくまでも淡々と、内の昂ぶりを表に出すような事は無い普段通りの口調は、二階堂で無ければその真意を測りかねたろう。
 二階堂は苦笑した。
「まったく、器用なんだか不器用なんだか解りゃしねえ」
「情の厚い人間ですから、基本的には」
「まあ、安心しろ。ワシの強さは手前が一番良く知ってるだろう」
「嫌という程」
「構想は仕込み済み、仕上げをとくとご覧じろ、ってな……ビックり仰天は約束してやる。開祖の師匠もあの世で驚く、そんな新手だろうぜ」
 開祖の師匠、という言葉に松永の眉がぴくりと反応する。
「横歩、ですか?」
「後手8五飛が流行りすぎてなあ、どうも見てて面白くねえ。前々からぶっ潰してやろうと思ってたんだが、良い機会だから放出してやる」
「8五飛って……アンタが引退した後で流行り始めた戦法でしょうに」
「引退して時間が経ったら銀腹に効きが出来るんかい? 問題なんざありゃあしねえよ」
 これだから、これだからこの人に憧れてしまう。
 勝負において圧倒的に強かったという訳ではない。勝率、勝数、タイトル数、現役時代の成績ではどれを取っても六角には及ばない二階堂であるが、しかし二階堂秀行その人を誰しもが二十一世名人と認める理由はここにある。
 常識を越える新手を、魔法のようにひねり出してみせるのだ。
「解りました。通例なら新人王が先手ですが、こちらは引退棋士、あっちは現役タイトル挑戦者、ならば先手は貴方が貰うことにしても問題ありません……あとはその場で『老いぼれに横歩取らせる度胸もねえか』とでも焚き付けて下さい。そういうのは得意でしょう」
 現役バリバリの人間ととうの昔に引退した老人の手合い、その上、現代将棋の最先端は一年あれば定跡がまるで変わっているような戦型で挑むというのだから、先手を貰う程度のことは盤外戦に入るまい。
 松永としてはそう考えて口にした提案だったが、二階堂の返答は予想を遙かに超えて、
「後手なら後手で色々用意してあるぞ。手損角換わり、近藤流五筋位取り中飛車、角交換型四間、どれもこれも自信作よ……お前が横歩見たいってんなら任せるが」
新手なんぞ幾らでも用意してあると、現役が聞いたら涙目になって抗議してきそうな内容をあっけらかんと言い放つ。
 昔から、特にマスメディアの前では良い格好をしたがる人間ではあったが、身内の前でわざわざ虚勢を張ることもないだろう。
 ハッタリではない。
 今更ながら思い知った兄弟子の化け物ぶりに、松永の吐いた息は感嘆を通り越して呆れにまで達しており、
「頭の中に隠してる構想、お迎えが来る前に全部吐き出してって下さいね」
悪態をついてみせたというよりも、心底から漏れた言葉である。

「そうそう、一つ言っておく事があった」
 帰り際、思い出したように口を開いた二階堂に、
「何です、こっちは忙しいんですから、用件があるならさっさと伝えて下さいよ」
応じる松永は、いつまでも話し込んでいるわけにはいかないということだろう、言葉通り書類に目を通しながらである。
「ったく、人が話してる時くらいは作業やめられんのか」
「本当に忙しいんですよ。夕方からは文科省で補助金絡みの説明して、今週末は新人王の表彰式もありますし、その上に王竜の件もありますから。取材やら何やら、例年の倍以上処理しなければならないことが出来ましてね、浅井のお陰で嬉しい悲鳴です」
「浅井……浅井か」
「何です。また例の話ですか」
 役人への説明用にまとめられた書類を舐めながら、細まった目は文面に散りばめられた細かな数字のせいなのか、それとも、それによってうまく内面が隠されていると見るべきなのか。いずれにせよ、松永は二階堂へ向き直ろうとしない。
「お前はよ、ちっとばかし誤解してんだな」
 一息の間に響いた、書類をめくる音は冷ややかであったが、二階堂は気にとめず言葉を続ける。
「確かに屈辱だったさ、背負ってたモンに傷をつけたってのも感じた……でもな、十兵衛と指す将棋は、少なくともアイツと盤挟んでるその時間は、そんなモンどうでも良くなるくらい有り難かった。源太のこたあ知らねえが、ワシにとっちゃあ至福の時だったよ」
 松永は書類から手を放すと、疲れた目を労るように目蓋を揉んだ。暗い視界に見えてくるのは、田舎の初夏、行燈の明かり揺らめくほの暗い蔵、決して存在するはずの無かった名人の上座には隻腕の男。敗れ去った名人、棋譜を記す自身の指の震え、言いようのない絶望感――匂いや質感まで当時のまま、蔵の中で起こった一挙一動を仔細に思い出せる。
 五十年近く昔の、忘れがたい記憶。
「将棋ってのは、とどのつまりが色恋沙汰とおんなじところに行き着くんだろうよ」
「どういう意味です」
「女相手につまらん台詞を並べるよりも、黙って相矢倉組んでる時の方が、よっぽど相手の事を考えねえかい? 愛を語るに言葉は要らぬ黙って将棋を指せばいい、ってなもんだ」

 女抱くなら美人が良い、将棋指すなら――と、一人になった室内で、松永は独りごちた。







      十二の三

 ただいマルゼンスキー、と夕餉の仕度をしていた立花の母に声を掛けると、
「響ちゃんは?」
別方向から、呪い殺してきそうな視線を向ける慈乃が現れ、やれやれ、と銀乃介は溜息を吐いた。面倒臭くなることは目に見えている。
「んだよ、物騒なツラしやがって。おかえリンドシェーバーぐらいで返せっつーの」
 朝日杯レコードのマル外コンビで華麗に決まると思ったのだが、
「響ちゃんは?」
競馬のケの字も知らない慈乃は当然取り合ってくれず、飲み屋で語らう競馬仲間が恋しくなる。
「知るかよ、アパートで泣いてんじゃねーか。んなことより酒だ酒、響の涙で酒がウマイってな……ってことで今日は俺が勝ったから。おっちゃんは?」
「碁の勉強してるんじゃないかしら、呼べば来るわよ。今日はお疲れ様でした」
「おばちゃん喜ばす為なら苦になりませんよってね、へっへ」
「あら上手言って、今晩の肴は頑張っちゃうか」
「全くいい女だね、おっちゃんが羨ましいぜ。んじゃ、先に始めてっから」
 冷蔵庫からビールをひょいひょいと取り出すと、なおも突き刺すように睨んでくる慈乃のことは忘れたふりをして立ち去った。


 書院造の離れは月の光を楽しみたいと蛍光灯の明かりは点けず、淡い電気灯籠を頼りに猪口を舐めつつ碁盤を囲む。
 床の間を背にしているのは現役本因坊、下座の将棋指しがパチリと黒を打つと、
「ここ、手抜けないぞ」
と盤上離れた一点を指した扇子が蝶の優雅さで宙をくるりと舞ったかと思えば、軽やかに銀乃介の頭を叩いた。
「おっと、こりゃ失礼」
 待ったを言うことも無く、打ったばかりの石を動かす。呑みながらの手遊びだけあって堅い空気ではない。
「考え事か?」
 足を崩し、脇息にもたれた姿勢の鑑連は、問いながら白を打つと、明かり障子を透かす月明かりを眺めているかのようだった。
「ん、まあ……潮時かな、って感じのことをさ」
 呟くように銀乃介が言う。鑑連は手元の扇子を遊びながら、その表情にはさしたる変化も見えない。
「地力で言えば今期も昇級ほぼ確定、それ以前にタイトル獲るか知れねえ。俺が昇級してすれ違ったとしても、ここまで来ればシード貰う棋戦が大半だ、となりゃ数も増える」
 小考の後にパチリ、碁盤に黒が置かれた。
「仮に関係が変わるとしても、お前達ならそうつまらんことにはなるまい」
 言葉と共に返す白は一息程度の短い間での着手。
「まあ、俺らはな。最初から、お互いが殴り合いの相手のつもりで付き合ってるし、北斗三兄弟みてーな関係よ」
 さりげなく三男の存在を忘れながらパチリ。
「そういう認識が出来ているなら尚更だな……どのみち飯を食いに来れば会うんだ、無理に意識する方が却っておかしなことになる。外食ばかりでは良い将棋も指せんぞ」
 パチリ。
「ま、そりゃそうなんだけどよ。響がどうこうってよりも、慈乃がさ」
 うーん、と一つうめいてから、パチリと置いても言葉は続き、
「アイツ、プロにならない方が良かったんじゃねえかな」
それまで止まることなく返していた鑑連の手が、ふと止まった。
「根本的な所で将棋に飽きてるっつーか……『やり込みすぎて後はラスボス虐めるくらいしかやることがなくなった冒険の書』っつーか……まあ、それに近い感覚なんじゃねえかって。気付いたのは最近だけどさ」
 暫く、雑に握った碁石を胡桃のように掌で擦ってから、
「本来なら、その楽しさは、私が教えてやらなければならなかったんだろうな」
と、打ちながらの静かな言葉は、
「おっちゃん責めるつもりで言ったんじゃねーさ……ま、響はあの性格だからよ、慈乃があのままじゃそのうち取り返しの着かないことが起きんじゃないかと、ちっと思っただけのこと……っと、ここでこういうのはどうだい」
しかしその真意を悟られる事はなかった。気付いてくれた方が楽だったろうか、それとも気付かれずに安堵したのだろうか。それすらも定かではなかった。
「お前も、強くなったんだな」
「お、やっぱりいい手だったか。こりゃ本格的に二界制覇も狙ってみるかな」
 調子の良い笑顔を見せる銀乃介に後ろめたさを感じたのか、鑑連はその表情を隠すように勢いよく猪口を傾けた。


 直に日付も変わろうかという時刻になれば碁を打ちながらの晩酌もお開きとなり、半ば私室と化している部屋へ戻ろうとしていた銀乃介に、背後から恨みの籠もった視線が突き刺さった。
「いい加減諦めろって、俺睨んでも出た結果は変わらねえぞ」
 これ以上無視したら枕元まで着いて来られそうだと、観念して振り返れば、当事者でもないのにふて腐れた表情を隠さない慈乃が居る。
「フグみてえなツラしてんじゃねえよ、元からひでえのが余計に見れたもんじゃねえ」
 軽くからかったつもりが、
「銀ちゃんに言われたくない!」
思わず耳を押さえてしまいそうな程のキンキン声で怒鳴り返される。
「時間考えろバカ、近所迷惑だろブス、ブスブスブス」
「ブスブスうっさい、ハゲ、変態セクハラオヤジの癖に、ハゲハゲハゲ」
 一応声のトーンは収まったが、言葉の中身はひどいものだ。
「ハゲてねーから、お前の目腐ってんじゃねーの? ハゲってのは吉川さんみたいな人のことを言うんだよブス」
「吉川先生はハゲてないよ。ちょっと散らしてるだけだよ、ハゲてないよ」
 吉川八段もよもやこんな馬鹿げた話で槍玉に挙げられるとは思うまい、B級一組の苦労人は薄毛が気になる三十代である。
「お前の気遣いは却って人を傷つけるからな、吉川さんの前でそういうこと言うなよ……んじゃ俺は寝っから、おやすみ」
 話を適当にすり替えてやり過ごそうとしたのだが、
「響ちゃん泣かせたのに、何で笑ってられるの」
馬鹿げた内容を大真面目な声色で言われると、折角の酔いも醒めてしまう。
 特大の溜息を吐いてから、
「仮に情けなんぞかけてみろ、泣くどころか絶縁されるぞ……お前も、付き合い長いんだから、いい加減少しは理解してやれよ」
言っているうちに、どうしてコレが響に惚れたのかと考えていた。一から十まで、まるで正反対の性質だというのに。
「解らないよ。響ちゃんとは友達なんだから、将棋は仕事だから仕方ないけど、わざわざそんな風に喜ばなくても良いじゃん」
 このすっとぼけた義憤も、心底から感じているのだろう。それが慈乃だ。
 銀乃介は、諦観と言った方が良いだろう、最早怒りすら沸いてこない。
「ま、好きに言ってりゃ良いけどな……とにかく、俺はもう寝る。そんなに響が心配なら明日ツラ見に行ってやれよ、鬱陶しがられて叩き出されるのがオチだろうが」
 これ以上相手をするつもりもないと、今度こそ背を向けて部屋の戸に手をかける。
 このまま慈乃が変われないのなら、本当に潮時なのだろう――それは以前から内に秘めていた、ひどく冷めた感覚だった。いざその時が来ても躊躇うことなど無いと思っていた。渡り鳥のように、笑って次の飯場を探せば良いだけのことだと、そう信じていた。
「銀ちゃんなんてハゲれば良いんだ、ハゲ、ハゲろ」
 しかしいざその時が眼前に近付いても、相変わらず間抜けな事を言い続けている、この人間としてあまりに欠落した妹弟子を見ていると、何か一つでも教えてやりたいと、勝負師としては外れた感情が湧いてくる。
 戸に掛けていた手を外し、一つ息を置いてから振り返ると、
「将棋に関しちゃお前ももう四段だ、偉そうに教えてやれることもねえけど、人生の先輩として、一つだけ教えといてやる」
「何急に、大人ぶって」
「愛ってヤツにはな、ガチの殴り合いってのが必要なんだよ。男の世界ってヤツにしか、愛は存在しねえのさ」
「何言ってんの、意味わかんない」
「その時が来たら、アイツを信じて、殺すつもりで指せってことだ……お前が本気ならな」
言い終えると、今度こそ部屋に入って布団を被る。

「どうして俺は甘いかね」
 舌打ち混じりに漏らした言葉など、翌朝の銀乃介はきっと忘れているだろう。








     十二の四

 週末、都内ホテルのホールにて行われている新人王表彰式は主催新聞社が同じとあってお隣の囲碁と共同で行われ、
「――私の新人王となりますと、もうかれこれ二十数年前のことになりますが――」
壇上で祝辞を述べているのは見慣れた鑑連であり、今期囲碁の優勝は立花門下の二十四歳三木直頼五段であった。
「しかしまあ、将棋の関係者が少ないね」
「その代わりに取材多いじゃん、浅井君の御陰だな」
などと小声で交わす、市ヶ谷の兄弟子達の輪に加わっていた響は、
「ウチの師匠俺以外に弟子いませんし、本人も来てませんからね。友達も呼んでないんで本当に知ってる人誰もいませんよ、精々会長くらいかな――」
と、聞かされた他人が気を遣いそうな内容はさらりと流し、
「――にしても、三木さんが取ってたなら一言位教えてくれりゃ良いのに。山中君なんて普段からどうでも良いメール送ってくるのにさ」
いつぞやの一件以来日常的にメールする仲にまでなっている、山中少年の話題へと移る。
「そっち忙しそうだったし、ヒビキの場合は当日会って驚かせたかったんじゃないの?」
「あー、それだろうな。アイツそういうガキっぽいとこあるから」
「ぽいっていうかガキなんだけどね、実際」
「皮被ってるし」
「それ、からかうのやめてあげて下さい。この前ガチで相談されましたから、流石に」
 腹を壊してトイレに籠もっているのだという、本人をよそに言いたい放題である。
「ところで浅井君、この同席を機に本格的にコッチへ籍を移すってのはどうだ?」
「本当に悪くないんですけどね……会員資格剥奪されちゃいそうなんで遠慮しときます」
 下らない事を言い合っているうちに鑑連の祝辞は終わり、お次は将棋、響の関係者からの祝辞となるはずだが、師匠にあたる六角は不在である。一体どうするのだろうと他人事のように壇上を眺めていると、どうやら代理は松永会長が務めてくれるらしい。
「でも、弟子の表彰式を完全無視する師匠ってのも凄いね……将棋ってそういう世界?」
 兄弟子の一人が何気なく呟いた。
「いや、ウチが特殊なんじゃないですかね……それに現役の人ですから、弟子に構ってる暇もないんでしょう」
「それじゃあ立花先生が暇人みたいだ」
「家だと酒呑んでる姿しか見ないですから、あながち外れてない」
 兄弟子達の、特に若い面子と一緒になってケタケタと笑い合っていると、
「おい……少しお喋りが過ぎるぞ」
といつになく威厳に満ちた声の鑑連が背後からのっそり現れ、兄弟子と顔を見合わせて肩をすくめる。
「――浅井君というとてつもない才能がいると、これは奨励会時代から言われていた訳ですが、私は既に引退していたので、早かったかなと九割悔しがり、そして一割は安心したのですね。どこの世界も一緒ですが、若い者に虐められずに済んだと――」
 松永の祝辞は終始好々爺といった雰囲気を漂わせており、取材陣もすっかり信じ込んでいるのだろう、仕事を忘れて微笑んでいる人物もちらほらと見受けられる。
 一般記者の間では『プロ棋士という人種は世間知らずの純朴な連中ばかりで、到底政治など出来やしない』というイメージがあるらしいとは、以前、将棋専門記者から聞いた話であるが、松永はそれすらも利用している。つまり、この祝辞も純度百パーセントの打算――そう考えているだけに、響はどうもまともに聞く気になれない。


 壇上での謝辞を終えた響がほっと一息、肩の力を抜いていると、
「浅井君、本当におめでとう」
声を掛けてきたのは松永だった。
 慌てて姿勢を正そうとするが、そっと手で制され、
「良い、良いよ。君も疲れているだろう。対局がどうも過密になってしまって、本来ならもう少し考慮してやりたいところだが、以前から決まっていたものはどうしてもな」
 詫びるように片手を立てながら、
「しかしタイトルホルダーになれば、予定を把握出来る分事務も考慮してくれるぞ」
傍から見る分には、朗らかな笑顔で言う。
「放送協会杯は残念だったが、王竜戦は頑張りなさい」
 会長なのだから当然ではあるが、昨日の今日で結果は既に伝わっているらしい。
 先日の敗戦を思い起こされたか、それは響本人ですら気付かないほどの、僅かな変化に違い無かったが、
「君の表情に出易い性格は嫌いじゃない。この世界ではそれ位の方が大きくなれるものだ」
松永はさらりと指摘する。
 私を苦手にしていることも知っている。そう伝えてくるような、含みのある口調だった。
 戸惑いを隠さない響に、意味深な笑みを浮かべながら続けた言葉は、
「立ち回りが下手な血筋なのだろうな、君は」
遠回しに祖父のことを示しているのだろう。
 やはりこの人は苦手だ。
 響が露骨に視線を逸らすと、
「ところで、記念対局の話なんだがね。二階堂さんが先手を欲しいと言っている……君は現役であちらは引退棋士だから、こちらとしては了承するつもりだが、構わないか?」
一転、話題は事務的なものへ。
「はあ、構いませんが」
 将棋における先後の有利不利は否定出来ないが、響自身は後手番の不利をさほど大きなものとして考えておらず、ましてや相手が引退棋士という立場で舞台に昇ってくることを考えれば、敢えて拒否する理由もない。
 松永は、ありがとう、と置いてから、
「君は、二階堂さんの現役時代を知らないのだったか」
瞬間、ふと雰囲気が変わったように感じたのは、響の思い過ごしだろうか。
「そうですね。生まれた頃にはもう引退なさっていたので」
 二階堂が現役を退いたのは今から十八年前。
 六十四歳という高齢で参加したA級順位戦は開幕から三連敗と衰えを囁かれるスタートも中盤から一気に盛り返し終わってみれば六勝三敗、星を潰し合っていた周りの状況にも恵まれ、プレーオフへと持ち込まれた挑戦権争い、現在B組二組で現役の斯波九段は当時二十九歳という指し盛りを相手に完勝し、勢い十分で長年の宿敵である六角へと挑戦した。
 しかし結果はストレートでの敗退。
 その後、次期順位戦に序列一位として参加する資格を持っていたがこれを放棄、フリークラスに転出することもなく、あっさり引退したのだという。
「君の若さにも、時の流れの速さにも、驚くものだ……さしずめ、あの人は夏椿かな」
「夏……?」
「祇園精舎の鐘の声、学校でやってないか?」
 平家物語だったろうか、と頭の中を探っていると、
「現役の強さというものを見せつけてやってくれ、そうすれば多少は大人しくなるだろう」
言い残した瞬間すら気付かせずに、いつの間にか松永は立ち去っていた。

 式典は進み記念撮影へ、関係者が一人もいない状況ではあまりにも悲しいと、囲碁組に気を遣って貰ったこともあり合同で済ませて貰う。
 シャッターを待つ僅かな時間、中央に並んでトロフィーを掲げる三木五段に、
「三木さん、夏椿って知ってます?」
「ん、花だろ。確か白い花だけど」
「平家物語と何か関係あるんですかね」
「夏椿で平家とくるなら、盛者必衰の花の色は沙羅双樹じゃなくて夏椿、っていう話かな」
唐突な質問に怪訝な表情を見せながらも、プロとして活動しながら国立大学を卒業したという兄弟子は、流石の教養をさらりと披露してくれた。
「沙羅双樹は元々曼荼羅なんかに描かれている仏教的な意味のある植物でさ、インドの方に実在する植物なんだが、日本の気候では育たないんだよ。だから平家で語られているのは見た目がよく似た夏椿だろうっていう話」
「へえ……初めて知りました」
「俺も聞きかじった程度だから確かなことは言えないけどね。で、突然どうした?」
「いえ、さっきウチの会長から言われまして」
 カクカクシカジカ説明すると、三木は、なるほどねえ、と呟き、
「それはひょっとすると、色々と含ませた言葉かも知れない」
「どういう意味です?」
「沙羅双樹が尊いとされているのは、釈迦が入滅した時に近くにあったからだそうなんだ。即ち涅槃の境地を示すメタファー、八十歳を超えた悟りの象徴としても読める訳だ」
「涅槃ですか」
 おまんこニルヴァーナ――他ならぬ二階堂の話題だけに、そんなどうしようもない言葉が浮かんでくる。
「会長さんは二階堂さんと同門なんだろ? それなら、そういう所に到達している人だぞと、年寄りの意地を見せているのかも」
 松永の言葉でなければ深読みし過ぎだと聞き流すところだが、しかし、なのである。
「若造なんぞには負けない、ってことですか」
「さあね、結局は推論だよ。一瞬でそこまで考えて口にしたなら大したお爺さんだ」
 宣戦布告と受け止めるには余りにも遠回しなやり方だが、いずれにせよ単純な記念対局というつもりではないのだろう。
「どのみち、関係無いんですけどね」
 全ての将棋は勝つ為に指すのだから。
 言った直後、準備が整ったという呼びかけに応じてカメラへと向き直る。




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