一五

         十五

       十五の一

《連盟・地下スタジオ》

 ――先2六歩、後3四歩、先7六歩、後8四歩、先2五歩、後8五歩、先7八金、後3二金――
 目の前のモニターを横切っていくコメントの群れを眺めていると、銀乃介はどうにも肩の力が抜けていく思いだった。双方向メディア、即ち、出演者と視聴者がお互いにコミュニケーションを図りながら番組を作り上げていく、というのがこの企業のウリらしいが、流れていくコメントの九割方は将棋の内容と全く関係がないものが占めているのである。居酒屋で友人相手に雑談している、そんな空気と錯覚してしまうのも仕方ない。
「横歩ですね」
 ――先2四歩、後同歩、先同飛、後8六歩、先同歩、後同飛――
「横歩取らずに相掛かり風に指す将棋も無くは無いんだが……今は、普通は取るんだな。明治の昔は横歩三年の患いっつってなあ、横の一歩を欲張ると立ち遅れてえらい目にあう、としたもんだが――」
 ――先3四飛――
 二階堂は考慮するそぶりも見せずに横歩を取った。
「ここで後手に与えられる選択肢には、3三桂、8八角成、そして3三角という、三つの代表的なものがありますね。ただ、最近のプロの将棋では後手が敢えて3三桂や8八角成を選ぶ理由が薄くなっているんです」
「ほう、どうしてだ。8八角成から相横歩で飛車角総交換ってのもオツじゃねえか、派手だし。やってくる人少ないけど、俺は好きだぜ」
「取るばっかりな人間は適当な事言えて楽ですよね、本当に」
「そもそも普通に指せば取られねえ歩だからな、矢倉と角換わりの二択を相手に選ばせてやるのが後手の正道だよ」
 横歩後手を滅多に持たない銀乃介の、随分と偏った言い分だった。コメント群は笑いに溢れ、千代は呆れた顔を隠せない。
「まったく……話を戻しますが、選ぶ理由が薄くなったというのは、横歩取りで元々優秀とされていた3三角で、更に優秀な形が発見されたからなんです。なので、今日もその形になると思うんですが」
 言い合っているうちに手は進み、
 ――後3三角、先3六飛、後2二銀、先8七歩、後8五飛――
『その形』は現れた。
「宣言通りの中座飛車、だな」
 横歩取り8五飛車戦法。相掛かりなどでよく見る浮き飛車よりも更に一つ上段、飛車を五段目に構えさせるこの形は、その位置取りから別名を中座飛車とも呼ばれる。

         ※
《特別対局室》

 響は、8五に飛車を引いた指先をそのまま盆へ滑らせると、持ち込んだペットボトルのミネラルウォーターをコップに注いだ。
 舐めるように舌を湿らせながら、見つめる先には互いに時間を使わずに辿り着いた予定調和の局面。
 しかし響にとっても、二階堂の挑発にのせられて、それだけで8五飛を選んだ、という訳ではない。
 3三桂、8八角成、3三角でも8四飛など、横歩取りに様々な形があることは事実だが、8五飛戦法が『後手番戦法でありながら勝率五割を大きく超えている』現状では、選択に疑問が生じる余地すら無い。
 だからこそ、響は二階堂の挑発が解せなかった。
 現役プロがこぞって研究を重ねている戦型に、まだ誰も手を付けていない超ド級の鉱脈、効果的で画期的な新手が、無造作に転がっているかのような物言い。現役世代を過小評価しているのか、それとも、己の能力を過大評価しているのか。いずれにせよ、常識で考えれば、百人近くの研究がたった一人の編み出した新手に潰されるなど、そうそう有り得る事ではない。
「緊張しとるか?」
 ふいに、声を投げられる。
「どういう意味です?」
「阿呆め、〝伝説の名人と指せる栄誉に震えてはおらんか〟と問うている」
「失礼ながら、全く」
「愛想のねえガキだ。こんなところまで似ていやがる」
 つまらなそうに言い捨てた二階堂の、その何気ない言葉が、響の意識を引き寄せた。
「俺は、浅井十兵衛に似ていますか?」
 果たして、そう尋ねた声色が、今までのものと微妙な違いを持っていることを察したのだろうか、二階堂は顎に手をやると、ぼうぼうに伸びた髭を撫でるようにしながら、
「そうさな……ワシに勝てたら十兵衛との思い出話、一つ聞かせてやるとしようか」
煎茶を片手に縁側で、近所の子供を相手にするような物言いで呟き、更に一言、
「煙草、吸うぞ」
返事は待たずに火を点けた。
      十五の二

 ――先2六飛、後4一玉――
 先手が飛車の位置を戻す手に対しては玉を固める4一玉。このまま6二銀、5一金としてしまえば、玉の堅さでまず一つ、先手に勝る事が出来る。
 横歩取りのようなすぐに戦いが起こる戦型においては、『手数のかかる絶対的な堅さ』ではなく、『相手よりも相対的に堅い陣』を『可能な限り少ない手数で』整えることが重要になる。その点、陣を低く構え、金駒の連結を最低限に抑えたこの形は非常に相性が良い。絶対的な堅さの代表である穴熊が堅さと深さで勝負する形ならば、こちらの囲いは速効性と陣の広さが最大の長所。難攻不落の山城ではなく、あくまでも野戦陣地のようなものと考えればよい。終盤になれば陣が崩されることを織り込んだ上で、捕まらないように逃げ回る広さを、左右両翼に確保しているのだ。
 陣を整えた後は飛・角・桂と言った足の速い駒を動員して速攻を目指す。そしてその時にこそ、8五飛型の利点の一つである、攻めの鋭さが発揮される。
 『横歩取り』という戦型において、後手は歩を失った3筋に対する攻めを飛車の横利きでカバーする必要があるのだが、その為、8四飛型の場合などは、右桂を活用するキモとなる7四歩の突き出しに制限がかかる。しかし8五飛型であれば、3筋を五段目で受けることで、序盤での7四歩の突き出しが可能となり、攻めの速効性が引き上げられるという訳だ。
 ――先4八銀――
 何気なく指した二階堂の一手が、一つ、盤上の緊張を高める。
 5八玉ないし6八玉とするものだと思っていたが、既に変化は始まっているのか、それともただの手順前後か。戦前の新手宣言もあり、不気味なものを感じなかった訳ではないが、響は小考するそぶりも見せず、
 ――後6二銀――
いずれ仕掛けてくることは解っているが、相手が変化したとしても、こちらの手が変わる局面ではない。であれば、ここで時間を使うのはただの無駄。そう割り切った一手。
 指し終えてから、窓の外、鳩森の方角を眺めていると、
「少し、長くなるぞ」
聞かせる風でもなかったが、二階堂が呟いたので、響は気分転換のつもりで席を外すことにした。
 本来なら長くするような局面でもない――とすれば、先の3八銀、ただの手順前後ではなかったということだろう。


              ※
《地下スタジオ》

「――そもそも、横歩取りって戦法名自体おかしいよな。後手が誘導してんだから、横歩取らせ、だろう」
「よく言われる話ですけど、確かにそうですよね。先手も拒否したければ角道止めて無理矢理矢倉とか、あることにはあるんですが、やはり不自然ですし、自然に指そうとしたら横歩を取ることになる。でも、呼ばれ方は横歩取り」
「語感もあるんだろうけどな、不思議なもんだ……と、どうでも良いこと話して大分経つが、あのじいさんまだ指さねえか」
 呟くように吐いた銀乃介の言葉は、状況に対する苦しさからのものだった。もう少し進んだ局面での長考であれば、局面を一から振り返るなどして間を保たせることも出来るのだが、この序盤ではそれも出来ない。
「かれこれもう一時間近く考えていますか……三時間勝負ですし、そこまで考え込む局面ではないような気がするんですが」
 困ったような表情で続けた千代には、しかし、一つの予感もあった。
 例の新手である。8五飛を潰す、とまでぶち上げた以上、今までの常識を超える新手を用意していることは間違いない。そしてそれが、限定的な局面でのみ有効な新手ではなく、戦法そのものを見直さざるを得ないような新手であるとするならば、この序盤での長考も頷ける。
 銀乃介もそのことには当然思い当たっていた。だからこそ、必要以上に茶化すことが出来ない妙な緊張感が苦しかった。
 視聴者のことを考えれば何かしゃべらなければならない。しかし、二階堂の秘めている、次の一手が気になってまともに口が回らない。
 時刻は十四時も半分を回ろうとしている。
「ネット解説も楽じゃねえな、ったく」
 銀乃介がぼやいてから、数秒の間があったろうか。無限に続くとも思われた、重い空気など素知らぬ風に、二階堂の手がゆっくりと盤上に伸びた。
「ようやくか、待たせやがって……って、マジかよ」
 呆気にとられた、という表現が、一番正しかった。銀乃介が軽口を忘れてしまうほど、その手は想像を越えていた。
「冗談キツイぜ」
 ようやく喉から押し出せたのは、ただその一言。
 それでも、いつまでも惚けている訳にはいかない。向けられたカメラの存在に気を立て直し、言葉を紡ぐ。
「……これが通るなら、本当に、8五飛は今日で終わる。そういう手だ」
 それが洒落や誇張ではないことは、絶句した千代を見れば解る。彼女はおそらく、目の前のカメラの存在すらも、頭から消えてしまっているのだろう。
 ――先3六歩――
 口が、ぽかんとあいている。

          ※
《棋士控室》

 二階堂の3六歩にどよめく室内、全ての視線は現名人・竹中重治に注がれていた。二階堂の直系である彼ならば事前に何かを知らされているかも、という期待からのことだった。
 しかし継ぎ盤の前に座る竹中は落ち着いた表情で、
「これ、予定と違いますね」
さらりと言う。
「竹中先生にも秘密にしてたってことですか?」
 誰からか出た問いに、
「それは無いと思いますけどね。師匠の練習相手って、現状だと私だけですし」
静かに応えると、しかし、と視線を滑らせて、
「六角先生は、何かご存じですか?」
 部屋の隅で沈黙を守る、六角源太に水を向けた。
 途端に室内の空気が一段下がったのは錯覚であろうか。
 そもそも六角が控室に姿を見せている時点で全く異例と言って良い事態であった。若手棋士などは萎縮してしまい、おいそれと口を開ける雰囲気ではない。ましてや質問を投げかけるなど、竹中以外の人間には到底出来なかっただろう。
 一つ、二つと呼吸できるほどの間を置いてから、
「秀行の、いつもの癖だ」
六角はぼそりと呟いた。
「癖?」
「弟子なら知っているだろう。早石田の時もそうだった」
「ああ……名人戦の。確か、あの時も予定とは違う勝負になったと」
 半世紀以上前の、六角・二階堂両者による名人戦。
 当時、奇襲・ハメ手の類としてプロ間では軽んじられていた早石田流三間飛車を二階堂は独自の感性で指し回し、一つの戦法として確立、結果名人位を奪取した。
「あの角も、その場の閃きだったそうだ」
 言った六角に、懐かしむ様子は欠片も見えない。
「研究を超える閃き、ですか」
「違う……研究あっての閃き、だ」
 竹中はやや考えるような間を置いてから、
「目の前の将棋を勝つためだけに行う、指定局面に拘るものを研究とは言わない。研究とは、将棋そのものに対する理解を深めるために行うもの……今の言葉は、そういう理解でよろしいですかね?」
六角がそれ以上応えず、口を開くことも無いと解ると、竹中もまた、自身の継ぎ盤に向き直る。
 暫くして、居心地の悪さをごまかそうとする数名の若手棋士から、大げさな談笑の声が漏れると、室内はぎこちなくも元の空気に戻っていった。
 竹中の対面、継ぎ盤の後手が静かに5一金を示す。
「君は、この手、3六歩、どう思う?」
 目の前の、後手を持つ少女に、竹中は問う。
「とても、良い手だと思います。まさかこの将棋で出るとは思いませんでしたけど」
「さすがの浅井君も、これには面食らっただろうね」
「響ちゃんなら、動揺はしないと思います」
「何故?」
「こういう将棋も、たくさん指していますから」


《特別対局室》

 3六歩を見て、響は納得したように小さく頷いた。
 玉上がりを省いての3八銀、そしてこの序盤での長考。新手があるとすればなるほど。客観的に見れば、可能性の一つとして十分以上に有り得る一手だ。
 しかしそれだけでは、心を落ち着かせるのに到底足りない。
 何故なら、この一手は、玉周りにこれ以上手を加える必要はないと宣言するものだからである。
 即ち、居玉での開戦。いかに横歩取りとは言え、囲いを重視する現代将棋に真っ向から反逆する思想。通常のプロであればまず切り捨てる読み。いかに冷静な思考を持っていても、通常であればこの一手、動揺しないはずがなかった。
 だが、響に動揺はない。
 何故なら、彼はこの局面を〝知っていた〟のである。
「指したコッチがヒヤヒヤしてんのに、つれないもんだ。少しは驚け」
 冷静に盤を眺める響が不満だったのか、二階堂が言う。
「知り合いに、こういう将棋を好きなヤツがいるもので」
「予習済みか……そんじゃあ、この後どうなるか、お前は知っているのかい?」
「いえ。そこまで掘り下げていませんから」
「なんだい、知ってりゃ教えて欲しかったんだがな」
「俺に聞いてどうするんですか。研究してきたんでしょう?」
 尋ねた響を、二階堂は威勢良く笑い飛ばした。
「実はな、予定してたのは別の手だ」
「じゃあ、これは?」
「お前と盤を挟んでいたら、ふいに浮かんできたもんでよ。何となく、指してみた」
 聞いた響の力が抜ける――何となく――その理由まで慈乃と同じだ。
        十五の三

 ――後5一金、先3七桂――
 後手は既に囲いを完了し、攻めの体制を整える状況にある。自然に指すならば7四歩から右桂の活用を図る局面で、響の手は止まっていた。
 ――仮に7四歩と突けば7三角成と先手からの角交換、後同桂に先3五歩がある。一見タダ取りで歩損を解消できそうなものだが、3五同飛とした瞬間に4六角が飛香両取り、後2五歩としても構わず先3五角後2四歩と飛車を取り合い、先3四歩に後3六歩で先手の攻めが一手早く桂損以上が確定。ならば先3五歩には後4四角でどうかと読みを入れる。
 後4四角は後9九角成を見せながら2・3筋の逆襲を狙う手。先手は6六角や7七角の合わせ、或いは、香車を拾わせても7七桂と跳ねれば馬を封じられる計算でこれを放置し、3六飛と回ることもあるだろうか。加えて、以前慈乃と指した時には先3五歩とする前の7七桂も見えていた。後8四飛に2三・2四と叩かれての先3五歩。
 いずれにせよ、後手が明確に良くなる展開は見えず、また、ここまで読んでも、右桂を活用する展開がまるで見えてこないことが引っかかる。
 そして右桂が動けないのなら、わざわざ7四歩として先手の3五歩を許してやる必要も無いのではないかと、そんな考えが浮かんだ。
 何より現状で優先すべきは、先手からの3筋攻めを良いようにさせてはならないということ。右桂の活用に楔を打たれたと認めるのも癪だが、敢えて勝負に乗ったところで確実に良くなる未来が見えないのなら、その筋は捨てるべきだ。――
 一心に読みふける響を尻目に、二階堂は雑魚寝をしていた。曰く、ずっと座っていると腰が痛くなるから、とのことで、響も気にするでなし、指したら教えるとだけ伝えて放置している。
 ――最大の問題は後7四歩と突いた瞬間にチラつく先3五歩にある。であるならば発想の逆転、7四歩を突く前に3五歩と突かせたらどうなるか。
 『敢えて手損する』という発想。一手損角換わり等を指しなれている身としては別段と抵抗のない考え方。たとえばここで後8六歩と合わせて先同歩、後同飛と7六の歩を狙う。先手は3五歩として飛車の横利きを通すしかないが、そこで改めて後8五飛と浮いた歩に狙いを定める。この局面を見れば後7四歩を突いていないため後3五飛としても両取りは消えており、仮に先3四歩とすれば後8八角成から先同銀に後4四角で先手が飛び上がる。現実的には先3四歩は有り得なく、7七桂と跳ねる筋が濃厚、そこで3五飛と歩損を解消しながら相手の出方を伺う。先手から2五飛とぶつけて飛車交換の手順に桂を活用される展開も見えるが、この局面、相手玉は相当に狭い。ひるまず1五角の飛び出しから飛車を打ち込んで勝負。早め早めの展開に持ち込めば、囲いを省いて攻めに出た姿勢を咎められるのではないか。
 本筋を定めて読みを集中。枝を切り捨て、より深く、より先へ……――

 煮え切ったところで一度盤から目を外し、記録係の方へ向く。
「この一手、何分使ってますか?」
「今で、一時間七分です」
 決断しなければならない頃合いだろう。
 儀式的な所作で、小さく、深く、呼吸をしてから、盤に手を伸ばす。
 ――後8六歩――
「指しました」
 二階堂に伝えながら、盤上を人さし指で示す。
「おう……よっこいせっと」
 重たげに身体を起こした二階堂は、盤を一瞥すると、皺の濃い顔をゆるめた。
「なるほどねえ」
 意味深なつぶやきだった。対局中であるにも関わらず、相手の表情に意識が向いてしまうほどに。
「どうやら気が合うらしい」
 言い切るや否や、間髪入れず気合いの入った手が伸びる。
 返す響もノータイム。こちらは、さながら定跡形の進行であるかのような、落ち着いた手つき。
 ――先同歩、後同飛、先3五歩、後8五飛、先7七桂、後3五飛――
「勝負と行こうか、浅井響」
 ――先2五飛――
 あまりに堂々と飛車交換を挑んでくる姿勢に、自陣の狭さに目が向かないのか、と不安を覚えなかった訳ではない。
 しかし躊躇する訳にはいかなかった。読み筋通りの進行なのである。
 余分な時間は消費できない。
 ――後同飛――
 銀乃介ではないが、難解な局面でこそ、弱気な姿勢を見せる訳にはいかない。こちらが解っていないことを確信されてはならない。『もしかすれば知っているのでないか』という疑念を、相手の思考のどこかに残しておかなければならない。
 相手の精神を、片時たりとも楽にしてはならない。
 ――先同桂、後1五角――
 後戻りのきかない、死ぬか生きるかの大勝負という局面にあってあまりに悠然と、響は構えてみせている。
 二階堂が手を止めたことで、ノータイムの応酬は終わった。
「こりゃあ確かに、ヤロウの血だな」
 声に滲んだ歓喜と狂気の混色。その存在に気付いたのは、気付けるとすれば、対局室の浅井響と控室の六角源太、二人のみ。



《地下スタジオ》

 ――先2三歩――
 手番が後手に回ってから既に数十分が経過している。
「形勢、どう見てます?」
「お前はどうなんだよ」
「強いていうなら後手かな」
「理由は?」
「……2九飛と打つのが詰めろになる……っぽいから」
「ガキみてえな理由だな」
「うっさいわね、生活かかってないんだからこの程度で良いの。そっちはどうなのよ」
「先手」
「一応聞いておくけど、理由は?」
「お前は後手持ちなんだろ?」
「そっちこそ正真正銘バカじゃない」
 いつものように言い合いながら解説の間を繋ぐ。
 モニターを横切る視聴者の反応で見る限り、手の解説に力を入れるよりも、いつも通りのやりとりを面白がってくれることがこの際は有り難かった。喋りに余計な意識を向けず、目の前の、未知の盤面を読み続けることができる。
 まず有り得ないとされてきた進行なのだ。先のことなどプロであってもまるで解らない。
「で、局面だけど、この歩。同銀だとどうなるかな?」
「2二歩やら3三歩って感じじゃねえのか」
「結構うるさくなりそうかな、いやな歩だから払っておきたいけど」
「なら同金としてみるか? こういう形も嫌いじゃないだろ」
「あまりにも非常手段って感じだもん。こんなの、外の勝負でいきなりは指せないでしょ」
「老けやがって……見てる人知らないだろうから一応解説しとくけど、コイツ、昔はこういう変態臭い手ばっか指してたんだよ。金とか銀を盛り上げて盤面をグチャグチャにしていく顔面受け将棋」
「やめてよ。せっかく表に出してないんだから」
「あんまり泥仕合が多いから、ついたあだ名が〝泥かぶり姫〟。当時の棋譜見れば一目で解るけど、とても女の将棋とは思えねえよ。マジでオッサンみたいな力将棋」
「やめてってば」
 ――後3三銀――
「躱しましたね。同銀じゃ後がうるさいし、同金はいくらなんでも、ってことかな」
「オッサン将棋も面白いんだがな、無難に指したか」
「しつこいってば」
 下らない言葉とは裏腹に、頭脳は冷ややかに盤へ潜っていく。

        ※
《棋士控室》

「躱すか……君の教えてくれた同金からの進行も面白かったけど、残念だ」
 継ぎ盤の前に座った竹中が対面に向けて言う。継ぎ盤の局面は先2三歩以下、後同金、先2四歩、後同角、先8二飛、後3後飛、先8一飛成、後2五飛まで。
「新四段、だよね?」
 竹中の問いに、慈乃は視線を合わせないまま小さく頷き、形式的に名乗ろうとした。
 しかし制するように、
「立花慈乃君、だろう。将棋史に残るだろう名前だ、当然知っている」
竹中の言葉は続く。
「浅井君に続いての三段リーグ一期抜け、成績は驚異の一六勝二敗。数字を眺めるだけでも、破格の新人だということは十分に解る」
「星の数なら、響ちゃんも一六勝二敗でした」
「内容というものがある……君の黒星は、昇段確定後の九月連敗だけだろう」
 竹中の含みのある物言いに慈乃は押し黙った。会話の内容に興味が無いというよりも、都合の悪い話題を避けようとしているような、積極的な沈黙だった。
「全勝、しようと思えば出来たんじゃないのかい?」
 続いた言葉は冗談ともつかない。
「棋譜を見ていただければ解りますけど、勝った将棋の殆どは終盤の指運ですよ。今季のリーグは、偶々です。もう一回やったら、きっと、頑張っても指し分けです」
 切れ切れに、消え入りそうな、しかし恐れから縮こまっているのではない、そういう声だった。応えるのが億劫なのだと、そう言っているようにも聞こえた。
 竹中の追求は止まない。
「浅井君や島津君と指していると、時々不思議な感覚に陥ることがあってね」
 独り言のように呟きながら、その目は慈乃をしっかりと捉えている。
「何か違うんだ、明確に違う。同じ将棋のはずなのに見えている世界が違う、とでもいうのかな……まるで彼らは、人ならざる者の将棋に触れたことがあるのではないかと、『その存在』を知っているのではないかと、そんなふうに感じることがある」
 そうして反応を窺うような間を置いたが、慈乃に反応が無いことを悟ると介さないような態度で続けた。
「彼らにその世界を見せたのは君ではないかと、今日盤を挟んでいて、ふと、そう思った」
「おかしな事をおっしゃるんですね、名人は」
「本当に、おかしなことだよ。私は仮にも名人で、君は新四段なのに」
 視線をまっすぐに合わせ、微笑みあいながら、
「一体、何者だい?」
しかしなおも問う。
「女性棋士第一号というお姉さんの存在が無ければ、浅井君という大スターが生まれていなければ、間違いなく世間の注目は全て君のものだった。仮にそうなっていたら、こんな風にひっそりと、控室の継ぎ盤で君と向き合うこともなかっただろう」
「それが、何か?」
「何もかもが仕組まれているような気がするよ……そう、将棋の神が君という存在を俗世から隔離しようとしているかのような、そんな意図を感じる」
 その時はじめて、慈乃の表情が変わった。これまで一方的に質問を投げかけていた竹中が、一瞬声を詰まらせる程の圧迫感だった。
「神なんて、どこにもいませんよ。少なくとも、私は、神の不在を知っています」
 言葉に込められた明確な意志に、竹中の肌は粟立った。
 それは、思春期の学生が口にする神の存在証明とは明らかに違っていた。たとえば科学者が、徹底的数理的証明を以て口にするような、そういう重みがあった。
「神の不在を証明できるというのなら、君は悪魔ということになる」
 或いは神か……それはただの言葉遊びだ。
 慈乃は何も言わず、静かに席を立った。その際垣間見えた、少女の冷え切った表情に、この継ぎ盤での検討が打ち切られたことを竹中は悟った。
「本気で指す機会を待っているよ。私たちにとっては、その方が言葉よりも余程に正確だ」
 背へ向けた言葉は検討の声に紛れ、二人以外には聞こえない。
        十五の四

《地下スタジオ》

 ――先8五飛、後4四銀、先8一飛成、後3三桂、先6五桂、後2九飛、先1六歩、後4八角成、先同玉、後2五桂、先5八玉、後3七桂成、先3九歩、後2八飛成、先3八桂、後8七歩、先6六角、後7四桂、先8四角、先4八銀、先同金、後同成桂、先6八玉、後3九龍、先7五銀、後8五金、先7七玉、後8四金、先同龍、後3八成桂、先8一龍、後5九角、先8七玉、後9五角成、先3三歩、後同銀――
「――と来て現局面ですが、島津七段は形勢をどう見ます?」
 尋ねる千代に、
「どうも先手が苦しくなってる気がするな」
と銀乃介。
「その心は?」
「早い攻めが見えない。攻めるとしたら、7二金みたいに、ベタっと打ってズルズル迫るくらいしかない気がするんだが……お前、こういう手指したいか?」
 大盤の7二に金のマグネット駒をペタリと、力なく置きながら。
「まあ、見栄えする手では無いよね……で、対する後手は9五の馬がいかにも働きそうと」
 いかに未知の局面と言えどもここまで進めばある程度棋士の見方は一致する。後手優勢、先手は何かを用意しない限り苦しくなっていくだろう。
 ただし、棋士として最も気になる点はそこではない。真に検討すべきは、本局で二階堂が見せた新手の是非。
「3六歩についてはどう思う?」
「この局面をさておけば、手は成立しているんじゃないかな」
「取りあえず同感だ。本局は、後手が上手く指したのと、先手が少し気合を入れすぎた、ってところだろう……まあ、勝ち負けはまだ解らんが」
 ――先7二金、後7一桂、先6二金、後同金、先7一龍、後5一金、先5三桂不成、後同金、先4五桂、後5二金引、先2一銀、後8六歩、先8八玉、後3一金、先3三桂成、後2一金、先7四銀、後8七銀、先7七玉、後7八銀成、先同銀、後8七歩成、先6六玉――

《特別対局室》

 駒台の桂をつまみながら、響は二階堂の表情をちらりと見た。明らかに顔色が良くない、疲労だろうか、ただ座っているだけであるのに、呼吸のたびに肩が僅かに揺れている。
 ――後5四桂――
 指してから、声をかける。
「体調は、大丈夫ですか?」
「死にゃあしねえよ……俺は十兵衛ほど将棋の神さんに好かれてねえからな」
 響が言葉の意図をつかみかねていると、
「盤前で死ぬなんて幸せは、俺にはくれねえってことさ」
「そうですか」
「このジジイの事を思ってくれるなら、そんな下らん気遣いよりも、今、この将棋を思い切り指してくれや……楽しいんだよ、久々に」
 ――先5六玉、後5五歩、先同玉、後8六馬――
 ここまで進めば、後手が間違えない限り、もはや先手に勝ちはない。そしてこの局面は、響が間違えるような局面ではない。
「言ったろうが……今、楽しいんだよ。最後まで相手しろ」
 響の心中を察したか、二階堂が背を押すように言う。
「わかりました」
 年寄りと侮る必要はない。いつもの通り、遠慮無く叩き潰そうと覚悟を決めた。
――先3二銀、後同金、先同成桂、後同玉、先3三歩、後2三玉、先2四歩、後同玉、先1五角、後3五玉、先2六金、後3四玉、先3五銀、後2三玉、先2四歩、後1四玉――
 以て一二〇手、先手・二階堂秀行投了。
十五の五

 暗い世界で薬の臭いに気がつくと、重い目蓋が僅かに動いた。身体を起こそうと右の腕を動かすと、繋がれた管の鬱陶しさに腹が立った。
「間違ってもひっこぬくなよ。計器が狂うと医者がやかましい」
 無愛想な声の主をベッドの上からにらむと、窓際の源太は月明かりだった。
「なんだ、夜じゃねえか。ご苦労なこったな、もう平気だ、帰って良いぞ」
 秀行が虫でも払うかのような仕草で追いやろうとすると、
「聞いておきたいことがあってな、話してくれればその後は何をしても構わん」
心配していた訳ではないと、源太にも遠慮が一切無い。
「手前、兄弟子にその口はなんだ」
 おもしろくねえ、と舌打ちする秀行を無視して、
「あいつは、浅井十兵衛の孫か?」
源太の声が重々しく響く。
「ついに耄碌したか……ちょうど良い場所じゃねえか、医者にアタマ診て貰えよ」
 ケタケタとからかう秀行だったが、源太はそれを介さずに、
「あいつの将棋は、十兵衛を殺せるモノだったか?」
なおも、言葉を変えて問うた。
「辛気くさいヤロウだな、洒落の一つも返しやがれってんだ」
「つまらん会話をしに来たわけではないからな……タダとは言わんよ、差し入れもある」
 源太はそう言うと備え付けの冷蔵庫を開け、本来ならあるはずがない缶ビールをベッドの上へ放った。兄弟子の扱いは心得ている。しかしそういうところまで、秀行からすればとことんまでに面白くない。
 とはいえ酒さえ飲めれば文句がないのもまた事実。まだ感覚が完全ではない指先で缶を開けると、喉を鳴らして押し込んだ。
 見る間に一つ目の缶を空にすると、目で二本目を催促する。
「相変わらずだな」
 流石に源太も呆れたような表情を見せたが、小言は言わず、同じように投げてよこした。
 タブに指をかけながら、
「まだ、足りねえな。負けておいて何だが、アイツはまだ、十兵衛には足りない」
秀行は言う。お前も飲め、まだあんだろ。促され、渋々ながらも源太も手に持った。
「十兵衛の将棋は、人の枠を超えていた。アイツがそこまで行けるかは、そうさな、それこそ将棋の神しかわからんことよ」
 聞きながら、源太は馴れない手つきで缶を開けると、言いかけた言葉を押し込むように、静かに口をつけた。
sage