外伝 棋客十兵衛

 十兵衛の妻である香子は、孫の響がふらりと部屋に現れた時、告げられるより先に事態を察した。何となく予感があった。前日の夜、普段は口を開かない事も多い十兵衛が、明日響と将棋を指すと呟いた時からであった。
 香子は静かに、救急車の呼び方が解るかと尋ねた。響は小さく首を縦に振った。
「それじゃあ、救急車を呼びなさい。それと、お父さんにも電話で知らせてあげなさい」
 小さな孫の頭を撫でるようにして送り出してから、香子は穏やかな足取りで離れへ向かった。
 開け放たれた扉から覗く仄暗い室内、将棋盤に向いたまま動かない一人の影は、息をしていないことが信じがたかった。将棋盤に向かう十兵衛の姿は日常となんら変わらないものに見えた。
 香子は静かに近づき、かつてよくしていたように、十兵衛の左後方から盤を覗き込んだ。そうして暫く、妙な違和感を抱きながら盤面を眺めていたのだが、その正体に気が付くと、
「あら、負けてる」
思わず漏れたその言葉には今日一番の驚きが籠っていた。十兵衛の玉が詰んでいるのだ。
「あなたが負けたの、初めて見たわ」
 恐らく香子には、亡骸に向けて話しかけているという意識すらなかっただろう。純粋な驚きから漏れた独り言に違いなかった。
 あまりの衝撃から、反応するはずもない亡骸をただ眺めているだけになると、孫のためにわざと負けてあげたのだろうかと、あるはずの無い考えが頭をよぎり、打ち消すよりも先に苦笑した。
「十兵衛さんに限って、そんな事有り得ないのにね」
 死してなお将棋盤の前から動こうとしない、いつかの光景と重なる十兵衛の姿に、半世紀以上昔の出来事への、思い出し笑いだった。



        ※

 昭和十四年、梅雨の時期。
 その日は近年一番の大雨のおかげで近所の川が氾濫を起こしかけており、家の男衆は皆そちらに出払っているから、家はひどく静かだった。
 これ幸いと香子が居間で少年倶楽部を広げていると、女中のお富が、そんなものを読んでいたら総司親分に叱られる、と言った。
「総司親分が買ってきてくだすった本があるだろう、そっちを読みなよ」
「少女倶楽部はつまらないのよ、内容がいちいち面倒くさいの。それよりこれ、この漫画、お富も一緒に読もう、面白いから」
「大体、こんな高い物どうしたのさ」
「爺ちゃんが買ってくれたの、オトウサマには内緒でね」
「大親分にも困ったもんだ」
「どこがさ。困ったのはオトウサマの方だろ。算盤弾けても啖呵を切れない男なんかこの家には必要ないって、みんな腹では思ってるよ」
「アンタなんて事を、自分の親に向かって」
「私が言わなきゃ誰も言えないじゃないのさ。オトウサマが番頭役に着いてから、訳の解らない稼業に手を出して、インテリの坊やが出入りするようになって、皆戸惑ってる。この家を、筒井の一家を本当に考えてくれているのは皆爺ちゃんの代からの人間なのに、オトウサマはそういう人に失礼なことばかりする。仁義を知らないのさ、あの人は――」
「香子!」
 お富の声色がはっきりと変わり、それまで饒舌に話していた香子は雷に打たれたように固まった。
「口が過ぎるよ」
 男衆すら黙らせるお富の雷は、決して多くを語らない。その眼光で相手を射殺す。
「けど、お富だって――」
 言い淀みながらも続けようとする香子には、それなりの理由があった。
 若い頃に母を亡くし、以来母代わりとして香子を育ててきてくれたお富に対し、総司が侮辱的な言葉――曰く『物の数え方すら解らない馬鹿女』――を吐いた、つい先日のことを怒っているのだ。
「――だっても何もない。総司親分はアンタの父親だ、父親に対してそんなふざけた口を叩く子供のことを許しちまったら、それこそ私の義理が立たないんだよ」
 こう言われてしまっては香子も続ける事は出来ず、むっつりと黙り込んだ。
「大体、アレは総司親分の言う通りさ。これからの時代、幾ら女でも、字は書けない計算も出来ないじゃダメさ……香子は私みたいになっちゃいけないよ。来年からは女学校にも行かせて貰えるって話だろう」
 お富の威勢の良い声の裏側に潜む悔しさに気付けないほど、香子という少女は愚かではない。読んでいた雑誌を片付けると、戸棚の奥に仕舞っておいた少女向けの雑誌を静かに開いた。

 家が騒がしくなったのはそれから一刻ばかり経った頃だった。玄関口から聞こえる喧噪の様子からすると、どうも男衆が帰って来ただけではない。お富を中心に女中たちも何やら騒がしくなっている。
 香子は読んでもいなかった雑誌を閉じると、そっと廊下に出た。
 玄関口では、男衆が輪になって何やら抱えてきたモノをおろしている最中だった。
「お嬢!」
 誰かが叫ぶと、十数名の男衆が一斉に頭を下げる。
「ご苦労さま。構わなくて良いよ……大騒ぎだけど、一体何を拾ってきたのさ」
 言いながら輪の中心をのぞき込むと、ずぶ濡れの人間、青年だ。息があるのか解らない。
 まさか土左衛門ではなかろうかと、流石に香子もギョッとする。
「どきな!」
 湯を張った桶を担いだお富が、香子を押しのけて青年の前に座った。襷をかけたその姿はさながら野戦病院の看護婦である。
「死んでるの?」
「バカな事言ってんじゃないよ、誰が死体にこんな真似をするかい。香子は客間に布団を敷いておいで」
 おっかなびっくり尋ねた香子の尻を叩きながら、お富は声を張り上げる。
「お嬢にそんな真似は、あっしらでやりやす」
「つまらない事気にしてないで、まだ川の事があるんだろう、動ける奴はそっちに戻りな。それと一人は医者だ、薮田の先生ならここの勝手も解ってる……ほら何してる、さっさと動くんだよ!」
 男衆も戸惑っていたが、尻を叩かれた香子が客間へ駆け出すと、慌ただしく動き出した。










 学校から帰ってきた香子が挨拶をしに祖父である順慶の部屋を訪ねると、正に例の客人と将棋を指しているところだった。
「香子、ただいま戻りました」
 順慶は短く、おう、と応えると、またすぐに将棋盤へと沈んでいく。対面に座る青年は香子にそっと頭を下げた。
 あの雨の日に拾った青年は、姓は浅井名を十兵衛というそうだ。聞けば年は一七とかで、東北の農家の出ということだが生まれてすぐに里子に出されたため生家については本人も確かな記憶を持っておらず、奉公に出された家もほどなく恐慌で一家離散の憂き目を見ると、以来、今の香子よりも一回り幼い頃から一〇年近く、流浪の棋客として過ごしてきたのだという。
「参った。やはり十兵衛殿は強い」
順慶が投了した直後、香子は待っていたと言わんばかりに十兵衛の手を取った。
「ねえ十兵衛、今日はメンコで勝負しよう」
 しかし十兵衛は取り繕う事もせず、
「今は大親分との将棋の時間です、お嬢」
香子の手を無造作に振り払った。
 大親分を前にしても一家の孫娘にぞんざいな態度で返せる。そういう肝の据わった所が、香子を惹きつけてやまないのだ。
「何さ、私がメンコをやろうって言っているんだよ」
「お嬢、俺は今、手前に出来る数少ない事で筒井の家に報いようとしているんです。堪忍してください」
 それを聞いた順慶は勢いよく膝を叩くと、
「その若さでよう言うた。十兵衛殿はまこと仁義というものを弁えた御仁ぞ」
いたく感激したように唸った。

 香子がやっとの思いで十兵衛を借り出せたのは小一時間も粘ってからのことであった。
 すっかり日も暮れてしまうと、香子は最早メンコという気分も失せてしまっていたから、夕食を待つ間に縁側から夕焼けを眺めていた。
「あれは何をしているんです」
 ふいに尋ねた十兵衛の指している方を見ると、若い衆が何人かで山車を引っ張り出していた。
「祭の準備さ。筒井の家は代々ここらの普請一切を取り仕切っているからね、香具師稼業こそ一家の魂なのさ」
「なら俺も手伝います。こんな風にぼんやり眺めていたんじゃ申し訳が立ちません」
「ダメさ。十兵衛の気持ちは嬉しいけれども、それはいけない。言ったろう、祭は筒井の魂なのさ、客人に触らせることは出来ないよ」
 香子がさらりと言ってのけると、十兵衛は珍しく目を伏せて、
「とんだ心得違いをしました、お許しを」
謝罪した。十兵衛が筒井の婿になるなら話は別だが、とでも続けようかと考えていた香子であったが、初めて見た、十兵衛の年相応に不慣れな対応に狼狽してしまい、ほおずきの様に頬が染まると、言葉は何も出なくなった。
 夕焼け時で助かった。そう思った。梅雨も明けたか、雲一つない茜空の下ならば、筒井の香子が不覚にも漏らした女らしさを綺麗に隠してくれるだろう。
「しかし一体、あの日何をしていたのさ。川から流れてくるなんて桃太郎じゃあるまいし」
 話を変えるように水を向けると、十兵衛は一寸の間を置いてから、下手を打ちました、と答えた。
「将棋で負けて追われたのかい」
「勝って追われる渡世もあります」
「相手は誰さ」
「お嬢は新聞を読めますか」
「人並みにはね」
「では、連盟の佐々木金治郎という名前は」
「佐々木、佐々木……どこかで見た気もするけれど。それに連盟ってのはなんだい」
「つい十年も前に出来た、将棋を稼業とする連中の団体ですよ。佐々木はそこの、関西の親玉です」
「するってえとその西の親玉が負けた腹いせに手を回したってえのかい」
「いや、佐々木は知らない事でしょう。面子に傷が付くことを恐れた……連盟自体というより、その周りの連中が勝手に動いたのだと」
「ひどい話だ……しかし、やけに慣れている風じゃないか。そんな目にあったのに淡々と話せるなんて」
「十年近く、このシノギを続けていますから。渡世の沙汰など得てしてこんなものですよ」
 幼い頃から様々な人種が出入りする家柄故であったろうか、香子はこの年にして人物の真贋や性根を見抜く眼力に長けていた。その眼を通してみても、目の前の十兵衛は一切の虚勢を感じさせず、ただあるがままを話しているようにしか感じられないのである。
 それは浅井十兵衛という青年がいかに過酷な半生を過ごして来たかという証明でもあり、また、外見の若さとは不釣り合いなその深みが、青年の不思議な魅力を醸し出している。
 香子がぼんやり見惚れていると、十兵衛は気付かぬふりをして続けた。
「先程、お嬢が帰ってくる少し前に、大親分から盆のお誘いを頂きました」
「棋客としてかい? そりゃあ確かに、是非受けておくれよ」
「私に務まるか不安で、迷っています」
 香具師稼業の筒井一家であるが、片田舎の一切を取り仕切る元締めともなると、刺激を求める人の常か、当然周囲からの要望で定期の盆を敷かない訳にはいかなかった。
 そうして、近所の寺を借りて開催している月に一度の盆では、のんびりゆったり見ても楽しめる催しの一つとして、将棋の外乗りも行っており、今までは都会に出向いて適当な指し手を見繕っていたのだが、確かに十兵衛が受けてくれるのならば手間が省ける。
「不義理と思われるでしょうが、俺は、将棋には嘘を吐けない性分です。ですから今までも胴元から好かれなくて」
 真剣な表情で打ち明ける十兵衛に、香子は思い切り吹き出して、笑い転げた。何を心配しているのかと思ったらそんなことか。
「そりゃあ十兵衛、無用な気苦労ってもんさ。さっきも言ったけど、筒井の稼業は香具師だ。盆はあくまで娯楽の為、それをシノギにしている訳じゃない。筒井の盆で一番大事なことはね、来て頂いたお客さん達、ここの地域の人達に楽しんで貰うことさ。その為にも胴元の都合で八百長を仕込むなんて真似、絶対にあっちゃあいけない。
 爺ちゃん……いや大親分にも聞いてごらん。絶対に、私と同じ事を言うから」
 香子が長く語り終えると、十兵衛が呆けた顔で見つめており、どうしたのかと尋ねると、
「お嬢は本当に、まだお若いのに、大した方だと思いまして」
 途切れ途切れになっている辺りが、言葉に込められている実感を滲ませていて香子にはむず痒い。
「及ばずながら指させて頂くと、大親分にはお答えします」
「受けてくれるのかい! そりゃあ良かった、何よりだよ。その時は、私もお小遣いを全部使って十兵衛に乗らせて貰うからね」
 応援のつもりで口にした約束だが、十兵衛の反応は薄く、
「そうですか」
と一言だった。香子は、気を害する、というのはまるで違うが、違和感、そう表現するのが適切であろう。十兵衛という人間からすると感謝の口上を返してくるものだと想像していたのだ。しかしそれは言うなれば、十兵衛が自らの勝利を疑ってすらいないからこそに違いなかった。
「本当に大丈夫なんだろうね」
 冗談のつもりで煽ってやると、十兵衛は何とも無い風に頷き、
「将棋の負けは、生来一度もありません故」
誰が聞いても真実と悟る、一分の虚勢も無い、平静のうちの言葉。香子の肌は粟立った。







          二


 転がり込んだ棋客の青年も、一家の食卓にすっかり馴染む程度に時が経つ頃には、既に数度の盆を経てその並々ならぬ棋力を周囲に認められており、皆からも十兵衛、十兵衛と気さくに呼ばれるようになっていた。香子は惚れた男を取られたと騒ぐようなこともなく一家の風景に溶け込んだその様をいつまでも続いてほしいものと願っていたのだが、香子の父、即ち一家の跡取りである総司はそうでなかった。
「盆のあがりがまた減ったぞ。全くとんだものを拾ってしまった」
 今日もまた、朝食の席で顔を合わせるなりあからさまな視線を十兵衛に当てつけながらそうぼやき、彼はこれから一週間はこのことを一家で吹聴して回るのだろう。そうして却って昔気質の者が多い一家の不評を買うのである。
「結果が解り切っているのだ、勝つ方に乗るに決まっている。全くとんだものを拾ってしまった」
「しかし若、あがりを気にして配当を下げたら筒井の名前に傷がつきます。それをしないのは、若の度量の大きさってもんですよ」
 気の回る者が助け舟を出そうにも、むっつりとした顔を崩さない。周りが言わなければすぐにでも配当を下げてやりたいのだろう。香子はそんな父の内心を見透かしたように、
「オトウサマ、それなら十兵衛を負かす強い将棋指しを連れてくればよいのです。うちの全財産で相手に乗れば、今までのアガリなんて御釣りが来ますわ」
わざとらしいお嬢様言葉でピシャリというと、満面の笑みを見せながらそそくさと食卓を去って行った。


 家に帰るなり十兵衛を探し回る香子をお富が背後から呼び止めた。
「ちょいと香子、あんた総司親分に何言ったのさ」
「別に何も言ってないさ。オトウサマが好きなお金儲けの方法を教えてあげただけだよ」
 香子は事も無げに答えるとすぐさま十兵衛を探しにまた廊下を歩き始め、お富はその後を着いていく。
「総司親分の様子が変なんだよ、朝は怒鳴り散らすくらい不機嫌だったのに、ふっと昼前に部屋に籠もって、いきなり外に出て行って、さっき帰ってきたら気味悪いくらいに笑顔と来たもんだ」
 お富の歯に布着せぬ物言いに思わず吹き出しながら、
「あの人の笑顔なんて気味が悪いや、でも大したことじゃないでしょ」
「いや、今回ばかりは本当に妙だよ。さっき部屋の掃除に入ったんだけど、どうも一人で籠っていた時に、古い新聞を漁っていたようなんだ」
「新聞っていつのさ」
「三年前の」
「きっとあれさ、思い出せなくて気になる事でもあったんだろ。それで思い出せなかったことが解ってスッキリしたから笑顔になった、そんなところさ」
「うーん、そうかも知れないけどさあ……見ていた記事、どうも将棋に関する記事だったようなんだよ」
 将棋という言葉に反応したように、香子の足が止まった。
「あんた、親分を焚き付けるような事をいったんじゃないのかい。どうもあれはよからぬことを考えている雰囲気だよ」
 お富はいつになく深刻な表情で告げた。
 しかし香子は、一寸考える風でもなく、
「まあ、大したことは出来やしないさ」
その言葉を流した。
「何さ、随分貫禄があるじゃないか」
「そりゃあ、本人が負けたこと無いって言ってたし、実際に見たからね」
 仮に総司が今朝の発言を真に受けて、新聞に載るような強い将棋指しを探してきたとしても、十兵衛が負けるようなことは有り得ないと思ったからこその言葉だった。それほどに、これまでの盆で見た十兵衛は神がかっていた。
 最初の相手はこれまで筒井の盆で看板を張っていた指し手であり、通算の勝率で言えば七割を超える程。これまでの強さを知る常連達は全く勝負にならぬだろうとハナから決め込んでおり、十兵衛の配当をうんと上げたにも関わらず誰一人として乗る者が出なかった。お陰で香子は大勝したのだったが、その次の盆で同じ相手とまた組むと、今度は十兵衛が申し出た二枚落ちの手合でやはり乗り手は少数、しかし十兵衛はこれもあっさりと勝ち、そこでようやく十兵衛の強さが周囲に知られ、次の盆も次の盆も、当然のごとく十兵衛は勝って行った。最近の盆では相手に乗るものなど一人もいなくなっており、催しをしらけさせないようにと多面指しなども企画したし、それでも駄目ならと十兵衛だけが目隠しの上駒落ち将棋で五人指し……等々趣向を凝らしたのだが、一度として負けないのである。
 誰とやろうと、何をやろうと、十兵衛は一つの将棋として負けなかった。
「あれにはきっと、将棋の神様か何かが憑いているのさ」
 そう口に出すだけで、香子には盤に向かう十兵衛の玲瓏とした背姿が朧に浮かぶ。
「ませた子だよ」
 からかうようなお富の眼差しに気が付き、香子はそそくさと立ち去った。


 祖父の部屋で見つけた十兵衛は、盤に向いてはいるものの、やはり違う。幸せそうな、作り物ではない笑顔を見せてはいるが、あの背姿ではない。そう香子は思う。
「暮らしには慣れたか」
 祖父もまた楽しいのであろう、その表情は崩れてはいないが、最初の頃と比べると情がこもっている。たとえば孫と同じような感覚で十兵衛を捉えているのだろう。
「本当に有難いことです。この家の方は、皆親切です」
「そうか。気に入ったならここで暮らして行けばよい。香子を貰え」
 真顔で言う祖父に、
「お嬢が聞いていますよ」
困ったような十兵衛。あれだけ引っ付きまわっても、他人に言われると恥ずかしいのは人の常か、自分の頬が赤いのを、香子は感じる。
「見れば解る」
 その言葉は十兵衛に答えたものか、それとも十兵衛を促すものか、香子には解らない。


 冬の日は短く祖父との将棋が終わり二人で話すわずかな時間は既に夜、先ほどの祖父の発言からいつものような言葉は紡げず、何をするでもなく庭を眺めるようになる。年越しの準備に陽が落ちても灯りを点してせわしなく蔵をひっくり返す若衆を見ながらふと、あそこで十兵衛が指揮を執る姿を思い浮かべる。それは香子にとって幸せな夢想だった。だからだろう、自然と香子は背中を押された。
「大親分が言っていたことはさ、十兵衛さえ良ければ、わたしはうれしい」
 言ってから、ああしまったと後悔するような女では、香子は無い。まだ女学校にも上がる前の身ではあるが筒井の女である。口にした事はたとえ何であっても責任を取るという覚悟は備わっている。
「十兵衛……さん。十兵衛さんが貰ってくれるなら、わたしは、きちんとした女性になります」
 いつぞや見た少女雑誌に教わるようなものではなく、感じたままを口に出したのだった。込めた覚悟が本物であるからだろうか、不思議と頬が赤らむことは無かった。やはり祖父の血筋が濃いのだろうと香子は思った。
「餅をつくのですか」
 十兵衛が言った。蔵からは臼と杵が引っ張りだされていた。
「正月の振る舞い餅です。盆も開きますから、十兵衛さんも忙しいですよ」
 香子が答えてから暫く、十兵衛は有難うございますと言った。
「一家に加えて頂けるなら、私は本当に幸せ者です」
 ふと香子は十兵衛の表情を見た。月明りに照らされた、穏やかな、普通の男の顔である。





 筒井が取り仕切る地区の年越しは、晦日から三が日の間を絶えず賑やかに過ごしながら一年の安寧を願うもので、この間には各地から芸人が呼ばれるなど、まさしく地区をあげての盛大なものだった。町からの見物客も大勢訪れ、辺境の片田舎と言って差し支えないこの地区が年で最も賑やかになる日でもある。
 自然一家の中にも団結力が強まり、誰も彼もが家中を騒がしく駆け回るこの師走の空気が、香子は好きだった。
「――お客様については前年もお越し頂いた貴族院の酒井子爵と梅田財閥本店の岡原局長、そしてお二人にご紹介頂いた日日新聞社の澤山社長は私が直接対応する。その他の旦那様方は皆に任せるので抜かりのないように頼む」
 皆を広間に集め、当日の来客について説明する総司もこの日ばかりは気が入っている。
「あら、人が増えたね」
 広間の外れに正座して聞いていたお富が呟いた。来客用の食事は彼女が取り仕切ることとなる。政治家や大手企業などを来賓として招き、地域に金を回すよう接待をする場ともなったのは総司の意向であったが、いかんせん始まってまだ数年といったものでありお富には苦労が多い。
「新聞社さんは初めてだけど、食べさせてやって見返りはあるのかね」
 お富の隣に座る香子は、相槌を打ちながらふと考える。子爵や財閥の局長などは確かに普請の際にも世話になったとかいう話を大人がしていたが、新聞社を食わせても見返りがあるようには思えない。
「――それと、澤山社長はお知り合いを何人か連れていらっしゃる。お富、承知しておくのだぞ」
 お富は深々と頭を下げた。


 香子が事の次第を知ったのは十兵衛からだった。曰く、日日新聞は以前十兵衛が話していた将棋を生業とする団体のタニマチで、今回連れてくるお知り合いとやらは件の団体の関西の長だという。
「ってことは、十兵衛を追っていた連中じゃないか!」
 えらいことだと素っ頓狂な声を上げる香子に対して、十兵衛は至極冷静だった。
「ええ、まあ。そうですね、盆の相手として来てくれるのだそうです」
「そんなすっとぼけたことでどうするのさ、アンタ連中に追われて死にかけたんだろう」
 動揺して話し方が以前に戻っている香子も気にするそぶりは見せず、
「そのおかげで拾って頂けました」
十兵衛は静かに微笑んだ。
 諦めてしまったのだろうか、総司に切り捨てられた事を怒りすらせず諦めるしかないのだろうか。総司への憤怒よりも十兵衛の境遇に悲しさを感じた。
 しかしそれは違うのだと、香子はすぐに悟った。十兵衛は確かに微笑んでいたが、その目が燦然と輝いていたのである。
「やはり彼らは一等強いのです」
 自らを殺そうとした相手が再び迫りくる事実などまるで目に入らぬ程、強者とまみえる歓喜に支配されている。
 自らの生を差し出してでも、この男は将棋を指そうというのである。
 尋常ではない。香子は心底から思い、気が付けば背筋に冷たい汗をかいていた。そのようなことは初めてだった。筒井という家に生まれ、並の女とは違う育ちを自負してきた彼女の矜持めいたものは、一瞬で吹き飛ばされていた。
 そして同時に、どうしたことか、それまでよりも深く、冷静に、十兵衛という男に惚れている自分に気が付いた。
「私はきっと、筒井の御家に大きな、本当に大きなご迷惑をおかけします」
 そっと瞳を合わせながら静かに伝える十兵衛に、この男にならば殺されても悔いはないと思う。
「お嬢とこうしてお話出来るのも、今晩がきっと最後になるでしょう。ですから、本当に、今日までありがとうございました」
 静かに言い切る。
「私と話せなくなることに、悔いは無いのですか?」
 女々しいと思いとどまる余裕もなく、そんな言葉が口を出る。
 この生き方は変えられないと、十兵衛はまるで迷うことが無かった。


 小さく深呼吸をしてから、オトウサマ、と襖の向こうへ問いかける。入れ、と短く言われるのを待ってから、香子は静かに襖を開けた。
「十兵衛から全て聞きました」
「そうか。お前に言われてカッとしたが、お陰で良い考えが浮かんだ。礼は言わんがね」
 当てつける風でもなく、子供をあやすような言い方だった。自分の才覚を高く評価するからこそ、総司という男は他人を見くびる癖があった。
「十兵衛を差し出して権力に取り入るのですか」
「あの男にそんな価値などあるものか、私はただ、本物の興行を皆に見せてやりたいだけだよ。一度負ければ盆も多少はマシになる」
「しかしその方々、聞けば十兵衛を追っていた連中だそうではないですか」
「それも誤解だ。将棋連盟の方々は、確かに野良将棋で十兵衛に敗れたそうだが、それも遊びでのこと。あまりに喜んでいたようで、言いふらしても十兵衛の恥になるからと忠告しようとしたら、勝手に川に落ちたそうだよ。まったく、抜けた男だ」
 そのようなはずがないことはすぐに解る。そも十兵衛は勝ったの負けたのなどを言いふらすような男ではない、そうした口があるならばもっと楽に生きているはずだ。そして何より、相手にとっては本気の負けで無いというのならば、このような田舎まで追ってくるはずがないのだ。
「わざわざこんな所まで追いかけて来て、そのような言い訳が通じるものですか」
「口が過ぎるぞ。こちらが頼んで来て頂くのだ」
「何故わざわざ頼む必要がありますか。相手は十兵衛を殺そうとしたのですよ」
「言っただろう、それは誤解だ……そもなんだ、お前はこの忙しい時期にそんなくだらない問答をしに来たというのか」
 聞く耳を持たぬ総司を、香子は節穴だと思った。この目で筒井の男どもをまとめることはできないだろうと、直感的に祖父と父を秤にかけて悟ってしまった。
「十兵衛が、筒井に迷惑をかけると言っていました」
 それを聞く総司は初めて頬を緩め、
「なんだ、ヤツも案外小心だな。それに勘違いをしている、仮に賭けるとしてもあいつに賭ける訳がない」
牧歌的な、あまりにものどかな笑顔だった。総司という男は人をまとめるのでなく、例えば一般的なインテリの家に生まれていたのなら、もしかしたら優しい父だったのかも知れないと、香子の中に芽生えた感情は既に他人のそれだった。
「相手に乗るのだけは、おやめください。私が申し上げたことですが、おやめください」
 ついぞ聞いたことのない娘の冷え切った声に、総司の緩んだ顔は固まった。
「なんだ、なんだ。お前は随分とあの男を買っているようだが、そんなつまらん忠告を私にしに来たという訳か」
 娘が自分を見放したことを悟ると、徐々に沸き起こる怒りが総司の声を震わせていた。
しかし総司は怒鳴れなかった、怒れなかった。それこそが彼の本質であり、筒井の家に合わない根源でもあった。
「安心しろ、十兵衛などとは格が違う、本物の将棋指しの方をお呼びするのだ。賭けなどにはせんよ、立派な興行として行うのだ。お前も、あんな程度の低い男ばかり見ているから考えが低俗なのだ」
 最後は吐き捨てるように、まるで拗ねた子供のように。それきりそっぽを向いた総司を残して、香子は静かに部屋を出た。
 廊下を行く香子の目には自然と涙が浮かんでいた。





 雪の降る寒い夜だった。香子は六十八度目の鐘の音を数えながら本日何組目かの客人を出迎えて部屋に通し、火鉢の支度を整えるとまた次の客の出迎えへ立った。
 日が昇る前に朝食を取ったきり一度も座る暇もなく入れ代わり立ち代わり訪れる客人の応対を行うのだから気が沈んでいる暇もない。いつも通りの筒井の年越し。今日は十兵衛とは一度も顔を合わせていない、そんな日は初めてかも知れなかった。
 玄関へ向かう途中総司とすれ違った。初めて見る顔を四人ほど連れていた。脇に避けて頭を下げながらちらと見、どうやら洋装の中年男性は新聞社の澤山社長で、初老の和装が件の連盟の佐々木会長だろうか、その後に続く二十歳程度の男が二名、こちらはどうやら佐々木の弟子か何からしい、控え目に後についている。
 どう見ても十兵衛が負けるはずがないと一目で知ると、胸中に沸いたのは安堵と失望がないまぜになった奇妙な感情だった。
「――我々が支援する以上、西の名人にこそ連盟の頂点として君臨して頂かなければ」
 談笑交じりにゆっくりと通り過ぎる間に、澤山とおぼしき洋装の男が総司に向けて言う。
「今回の祭を記事にして頂ければ、東の方々の誤解も解けることでしょう」
 総司の相槌に和装の腕が僅かに震えたようにも見えた。


 年明けから数刻も経ってからようやく息をつけるようになり、香子が居間で夜食の握り飯を食べていると、寝間着姿の順慶がふらりと姿を見せた。ご苦労だったなとねぎらいの言葉を掛けながら腰を下ろすと、そのままじっと香子の方を眺めている。
 流石に香子はむず痒くなり、口の中の握り飯を無理やりに飲み込んだ。
「こんな夜中にどうしたのさじいちゃん、そんなに見られちゃ食べ辛いよ」
 冗談めかして言うと、祖父は穏やかに笑いながら、
「良いことだな、お前は多少色気を持った方が良い。でなけりゃいずれ十兵衛に捨てられちまうぞ」
そう返した。
「あの人は、どこかに縛られるものじゃなかったんだよ」
 既に結論が出てしまったことを伝えると、順慶はまんじりともせず、しばらく思案するような間をおくと一つ大きく息を吐き、そうか、と何かに納得したように呟いた。
「どうやら正夢になるらしい」
「何がさ」
「大したことではないが……夢を見てな。お前のツラを眺めておきたくなった」
「縁起でもない、やめてよ。まだまだ先は長いだろう」
「どうかな、もう長すぎるほどに生きた。記憶は無いが江戸の生まれだ、そろそろ退場の頃合いだろうよ」
「やめておくれよ、じいちゃんがいなくなったら筒井の一家は御終いさ。まだまだ生きてて貰わないと」
 当てつけるように言うと、順慶は困ったように笑った。珍しい、と香子は思った。祖父がそんな笑い方をすることはついぞ見た事が無かった。どのような荒事でもその身その腕一つで乗り越えてきた、何事も一喝で退けるが如き気勢が、この時の祖父にはまるで感じられなかった。
「ガキの時分には、江戸の名残のちょんまげ頭が残っていてよ、俺の親父もそうしていたが、俺は内心バカな親父だと思っていたのかも知れねえ。周りが変わって行く様に気付けていない親父を、どうにかしてやりたいと思っていたのかも知れねえ」
「何さ、突然」
「世間は変わる。今は当たり前のこともいずれは妙なことだと笑われる。時代とでも言うのかね、因果なもんだ。それが幸福とは限らんが、不幸であるとも限らんのだろう」
 訝し気な香子にもう一度、珍しいはずの苦笑を漏らしてから、
「総司が上手くやれるかどうかは知らんが、家や周りの連中を支えてやれるのは俺やお前の考えではない」
順慶は言い切った。
 正に鳩が豆鉄砲、といった表情になった香子を優しいまなざしで眺めながら、
「十兵衛は文字が読めん、知っていたか?」
そんな話を切り出す。
「出された家で散々な扱われ方をしていたんだろうな、ここらの小僧でも知ってるようなことも、アイツは知らん」
「それは、オトウサマやちょんまげのこととどう関係があるの?」
 辺りは深夜。年越しも一段落し明日の催しに向けて身体を休めている時間帯の家は久方ぶりに耳鳴りがしそうな静けさだった。
「まあ聞け……将棋は家の旦那が指しているのを見て覚えたそうだ、四つの頃だと言っていた。文字が読めずとも符号が読めれば棋書は読めるからと、旦那が留守の間に詰将棋の本などを盗み見ていたそうだ。そう何度も機会が無いから必死に覚えたと。
 家が潰れてからは大道棋で稼げることを知って、却って楽になったと言っていた。そうして縁日を荒らしまわっていたら博徒連中に目をつけられて棋客になり、勝ち過ぎて追われる生活が始まったってことだな。
 十年以上だ。誰だってあるガキの時分の経験を何一つせずに、アイツはその間、生きるために将棋を指し続けてきた。だからアイツには将棋しか無い、それ以外興味も無い……だから、あれだけ強いのだ」
 ぽつり、ぽつりと、時間をかけて語る順慶の言葉とともに冷え切った冬の空気が次第に香子の体温を奪っていく。垂れてきた髪をかき上げようと指を這わせると、頬に触れたのは氷のような感覚だった。
「生が道を極める事に直結している人間なんざ、きっとこの先の時代じゃあ出てこないんだろうよ。出てこられないだろうよ。それはきっと幸せなことなのだろうが、つまらんことだとも俺は思う。思っちまうのさ。俺はもう、ちょんまげ結ってた親父と同じになっちまった」
「そうじゃないさ、爺ちゃんは正しい。そう思う事は悪くない、私だってそう思う」
「良い悪いで世間が動くかよ。香具師稼業はもう終いだ、そういう時代が来ている」
「じいちゃん、冗談だと言っておくれよ」
 短いやり取りの間に身を乗り出していた香子を、その瞳を捉えながら、順慶はわずかに口角を上げた。今度は苦笑ではなかった。江戸の末に生まれた筒井一家の大親分に相応しい、不敵な笑みだった。
「お前はきっと最後の筒井だ、だからそれで良い。不幸な人生になるかも知れんが、そう生きたいヤツを引き留めるほど俺の頭は文明的には出来てねえ」
 そうしてすっと立ち上がり、背を向けると、
「十兵衛を支えてやれ。なんもかんも変わっていく時代に、でけえ仇花咲かせて見せろ」
そう残して、伝えるべきことは全て伝えたという事か、何事も無かったかのように去り際は静かだった。






 三十畳はあろうかという広間のような寺の御堂に盤を構え、観客が入れ代わり立ち代わりする中で対局は行われる。最も耳目を集める催しであるだけに境内は御堂に入りきれなかった人々に溢れ、火を焚き出店の品々を楽しみながら、枯れ枝で地に描いた盤に伝わる指し手を示していく。
「7八金打で先手投了だ、また十兵衛が勝ったぞ!」
 連絡役の男が怒鳴るように叫ぶと、境内にどよめきが起こった。
「一体誰だい、今日の相手は本物の連盟棋士だと言ったヤツはよ。十兵衛の連勝じゃねえかい。こいつはどうしたことだ、まるで相手になっちゃいないぞ」
「いや、確かに普段の盆より苦労していると見えるぜ。何せ平手だ、平手の十兵衛なんざとんと見ていない。それによく見ろ、手番が違えばこの局面は先手の勝ちだぜ」
「馬鹿野郎、この一手が埋まるようなら俺だって十兵衛に勝てらあ。この一手が埋まらねえから将棋ってのは面白いのよ」
「しかし連盟棋士に連勝するたあ、流石十兵衛大したもんだ。ひょっとして、名人よりも強いんじゃあねえのかい」
「それもすぐに解ることさ。噂じゃあ関西名人の佐々木金治郎も来ているって話だ、弟子がこれだけ負かされて出てこないような臆病者じゃあねえだろうよ」
 思い思いに言い合うその表情は一様に笑顔であり、或いは連盟所属の棋士を軒並みなぎ倒していく十兵衛をおらが村の英雄のように捉えてのかも知れない。
 職業棋士が在野の真剣師に敗れる――その重みに、無邪気な彼らは気付いていないのだ。


 陶器の割れる派手な音とともにびしゃりと、筒井家客間の障子を血飛沫が染めた。廊下を歩いていたお富が異常に気付き大慌てで男衆を呼び立てると、立ち入った客間では備えてあった伊万里の大皿が破片となって散らばり、その脇で二名の男即ち佐々木の弟子たちが顔を抑えてうずくまっている。
「このバカ共が、どうしてくれるか!」
 うずくまりながらも許しを請い続ける弟子たちをなおも足蹴にしながら、佐々木は怒りを隠そうとしない。やがて騒動は広まり、総司と連れ立って澤山も姿を見せた。
 香子は男衆の背に隠れるように様子を眺めていたが、この異常時に眉一つ動かさず貼りつけたような冷たい表情を崩さない澤山を見て、この男に常識が通用しないであろうことを、この男は目的の為ならば他者を害することを厭わないであろうことを悟った。あの日十兵衛を狙ったのは或いはこの男の差し金かも知れない。
「これ、これ、佐々木先生。どうされましたか」
 犬でもあやすような物言いは意図的なものだろうか、澤山はうずくまる二人の弟子など視界に入れることすらせず、冷めきった声色で言う。
「これは澤山社長、お見苦しい所を」
「こんな事をして何になりますか、全く無益だ。おやめなさい」
「しかしこやつらは、負けたのです。よりにもよって耳目を集める公開の場で、連盟棋士が真剣ふぜいに!」
 澤山は不機嫌を隠そうともしない、大きなため息をこれ見よがしについてみせると、
「あなたが勝てばよろしい」
佐々木を鋭く睨みながら、冷え切った、良く通る声で言った。
「聞けば東では西の連中は真剣にも勝てないと笑われているそうだね。そんな連中が棋士を名乗ったのでは出資してくださる方に申し訳が立たないと、旭日新聞さんと手を組んで言っているそうではないか」
「東の戯言など――」
「――戯言ではない!」
 怒鳴りつける澤山、すくんだのは佐々木。この構図こそ二人の力関係そのものであろう。
「我々は棋譜を買う為に君たちに金を出す。誰しもが知る名人の称号を管理し、新時代の実力主義を象徴する争奪戦を執り行うことで、その結果を読者に独占提供する権利を得る。そのことで他社ではなく我々の新聞を手に取る人間を増やす……お分かり頂けますね?」
 佐々木は肩を震わせて沈黙し、やがて静かに膝を畳むと、地に頭を擦り付けた。初老にもなろうという男が若輩に土下座をする構図のグロテスクさに、香子はそっと目を伏せる。
「佐々木さん、我々は貴方こそが名人にふさわしいと考えている。貴方を頂点とした関西将棋連盟こそが、日本の将棋の中心となるべきだと確信している。だから応援している。しかしこれは慈善事業ではない。これ以上の失態を重ねるなら、我々は将棋から手を引きます……在野の真剣師に負けた人間の棋譜など、金を払う価値は無いのです」
 札束で頬を叩かれた男は勝負師であるはずだった。地に伏した、犬のような名人がそこにいた。
「捨てられたくないのなら名人としての責任を取り給え……幸いにしてここには筒井さんという強力な応援もいる。貴方が勝ちさえすれば、それで良い」
 そう言うと澤山はしゃがみ込み、なおも頭を下げる佐々木の耳元で一言呟いてから場を去っていった。
 佐々木は一瞬青ざめたようにも見えたが、やがて無表情のままに立ち上がると、総司へ向けて、私が指そう、と言った。


 短い陽はもう暮れようかという夕暮時、日を改めての対局とすることも総司は提案していたが、佐々木はそれを飲まなかった。明日の朝一番に立たなければならない澤山や他の客人の存在がそれを許さなかったのである。挽回の機会は今しかなかった。
 香子が夜に対局が組まれることを伝えに走ると、十兵衛は人の出払った御堂で瞑想するがごとく座しており、解りましたと一言であった。相手が佐々木であると伝えても特段の反応は見られない。
 表の喧騒とは対照的な人の消えた御堂に二人ばかりあった。香子は何かを求めるのでもなく、十兵衛の後ろに座した。盤に向かう十兵衛の背には確かな美しさがあった。順慶の言う仇花とはこの背中の事だろうと香子は思った。
 いつ誰が掘ったかも解らない黒ずんだ不動明王の木像を夕陽が眩く焼いている。十兵衛の背を眺める時、明王が自然と視界の左端に収まる事に香子が気付くと、沈黙の長い御堂の中で像を焼く輝きのみが時の流れを示していた。
「あちらにも後が無いようでした」
 何気なく紡いだ言葉であったが、十兵衛は少しの間を置いてから
「結果は変わりません――」
そう応じた。返答を期待していなかった香子の胸が驚きにはねたが、
「――ご迷惑をおかけします」
それは香子に答えたのではなかったのだろう。十兵衛は、筒井への不義理に負い目を感じながら将棋を指しているのだろう。そしてそれが香子に対して溢れ出てしまったのだろう。短い、不器用な言葉ではあったが、振り絞るような痛々しい声色から解る。
「祖父が貴方を支えろと言っていました」
 何かを言わなければいけないと感じて、自然と口を出たのはその言葉だった。
 十兵衛の背はまるで盤と一つになっているかのように動くことは無く、静止した空間の中で像の輝きだけが弱まり徐々に色合いを変えていく。直に陽が沈む、人が来る前に行燈を用意しなければならない。香子はそう思ったが、その背が瞳を捉えて離さなかった。
 やがて黄昏が訪れ明王がその輝きを失う頃、十兵衛は静かに語った。
「奉公に出された家に、私と同い年の子供がいました」
 ふいに始まった言葉にはわずかな温かみがあった。香子は背中越しに頷いて聞いた。
「何をさせても優秀で誰よりも優れている、その子をそう育てる為に、私は毎日、理由もなく犬の様に地に這い、踏まれ、蔑まれ、その為だけに生かされていました」
「将棋は指さなかったのですか?」
「家が潰れるひと月ほど前に」
 結果は聞くまでもない。香子が次の言葉を待っていると、わずかに十兵衛の肩が揺れた。これを語る時、十兵衛は此岸に戻ってくるのかも知れなかった。
「喋れないほどボロボロにされて、翌日から馬小屋で残飯暮らしです」
 きっと穏やかな笑顔なのだろう。その表情を見たくなったが、見ようとすれば十兵衛はすぐに表情を固くしてしまうのだろう。だから香子はただ頷いて聞いていた。
「きっと、あの不味い残飯を食わされた日、私はようやく生まれることができたのです」
 静かに聞き終えると既に明王は陰に溶け辺りは夕闇だった。名残惜しいが行燈を出さなければならない。勝ちなさい、と一言だけ伝えて香子は立つ。十兵衛は小さく頷いた。


 対局が始まることを伝えに総司の部屋を訪れた香子であったが、襖の向こうから澤山と思しき声が聞こえると、自然立ち聞きする形となった。
「佐々木先生にああ言ったのは、いわば躾のようなものでしてね」
「躾、ですか」
「将棋指しというのはどうにも経営感覚に欠けるようでね、ああでも言わないと危機感を持っていただけない」
「なるほど。棋士の方々はどこか昔気質の方が多いようにも見えますな」
「名人より強い人間など、居て貰っては困るのです」
「社名を出して主催するのであれば当然の主張でしょう。佐々木様も、きっと社長の意をくんでくださいますよ」
「ご理解頂けたようで幸いです……であれば、筒井さんには万が一の時に少し頼みごとを引き受けて頂きたい」
「何、わざわざ八百長など仕組まずとも名人御自ら指されるのです、負けるはずがないでしょう」
「いいえ、どう転ぶか解りません」
「何を仰いますか、十兵衛のような渡世人風情に名人が負けるはずなどありますまい」
「あの浅井十兵衛、界隈ではちょっとした有名人なのです」
「ご冗談を。ヤツはただの渡世人だと、貴方もそう仰っていたではありませんか。折角祭を取材しても渡世人の将棋では記事にならんから、こちらで指し手を用意して盛り上げる、そう言ってくれたのは澤山社長ではないですか」
「最初に負けたのは佐々木先生の孫弟子にあたる新進の棋士でね、田舎の縁日で見かけて、ちょっとした遊びのつもりが負けたそうです。
 次はその兄弟子にあたる人物が始末をつけようと出て行って、これも負けました。
 そこからは芋蔓ですよ、止せば良いのに自分らの不始末をもみ消そうとして、挑んでは負け挑んでは負け、却って話が大きくなっていく。笑い話にもならん。
 私の耳に事の次第が入った頃にはもう、リーグ戦にも参加していた八段が負かされた頃でした。
 ここまで話が大きくなったのだ、棋士連中が必死に隠そうとしても、遠からず愛棋家の先生方の耳にも入ってしまうでしょう。それでは困る。
 ヤツは、浅井十兵衛は、八百長を決して飲みますまい……ならば仕方がない、渡世人が一人消えた所で誰が困る訳ではないが、しかし佐々木先生や将棋連盟の被る損失はもはや一個人のものに留まらない、帝国にとっての深刻な文化的停滞なのです」
 総司は、父はどんな顔をしているだろうかと想像すると気は沈んだが、仕方のないことだと割り切ることも既に容易かった。
 二人の声が消えてから暫く、襖の向こうから告げる。




 星は天高く昇り境内に篝火が炊かれる。盤を囲むように並べられた無数の行燈に二人と明王が赤く燃える。詰めかけた聴衆は息をのみ盤上の攻防を見守る。ただ一人、香子のみが盤を見ず、十兵衛の背を眺めている。
 両者合意の下行われた振駒の結果先手は浅井十兵衛、後手は佐々木金次郎。
              ※

 ―― 先7六歩、後3四歩、先2六歩、後5四歩、先5六歩、後6二銀、先4八銀、後3二金、先7八金、後5三銀、先2五歩、後6四銀、先2四歩、後同歩、先同飛、後5二飛、先6九玉、後4一玉、先2八飛、後2三歩、先2二角成 ――
 真冬の夜にも関わらず境内には多くの観客が集まっていた。地元の良く知る男が名人を打ち倒さんと挑むこの一戦、吐く息は白いが、芋煮をつつきながら火にあたって暖を取り、そうして見守ることに誰しもが未だ味わったことのない高揚を感じていた。
「角交換だ、十兵衛から角を換えたぞ!」
 御堂から走ってきた男が伝えるとすぐさま地面の盤が書き換えられる。盤を書き換えるのは村で一番に将棋の強い勘太の役目であり、彼は筒井の盆にも数度上った事がある程の指し手であることから、こうした時は自然と解説を任される形となる。
「どうなんだよ、形勢は」
 焦れたような周囲の声にも勘太は慣れた風に動じず、まだまだ互角だ、と返す。
「互角でも、十兵衛から角を換えたんだろう。どういう作戦なんだい」
「力戦だから良く解らんが、自分から角を換えたのは左銀の活用を考えてのことだと思う。相手から角を換えられると争点になりそうな5筋から離れちまうからな」
「アテになるのか?」
「知るかよ、大体あの十兵衛が名人と指してるんだぞ。俺程度に解るはずが無いんだ」
 それもそうだと納得すると、大駒交換に俄かなざわめきを見せていた観客も落ち着いてまた各々でのどかな談笑を始めた。
 彼らにとってこの勝負は多少豪勢な正月の娯楽に過ぎない。

 ―― 後同銀、先6八銀、後5五歩、先同歩、後同銀、先5四歩 ――
 先手が歩を垂らした所で勘太の眉間に皺が寄った。
「なんだいこの歩は、タダじゃねえのか。まあ歩程度なら大したことにもなるまいがよ」
 甘酒を片手に観戦していた聴衆をバカ野郎と荒い言葉で窘めながら、
「仮に後手同飛としたら6五角と打って十兵衛に馬が出来る、名人がそんな真似するか」
「タダじゃないのかい」
「当たり前だろ」
 言い合いながら、だが、と勘太は考える。この序盤で持ち歩を使うには、少々軽すぎるのではないかと思ったのだ。この5四歩は確かに直ぐにはとれない、だが、これによって直ぐに攻め手が出来るという歩でもない。もし仮に、後手が少しばかり時間をかけて駒を整備していく中で自然とこの歩を取りきるようなことになればその時は先手が徐々に苦しくなっていくのではないか。
「なんだよ勘太、難しい顔しやがって。お前は気にくわないのか?」
 聴衆から聞こえた声に我に返り、勘太は首を振った。
「俺には解らんだけだ」
 言いながらも疑念は尽きない。先手は5四歩という拠点を作りはしたが、拠点の維持には必ず対価が求められる。対価に相応の活かし方ができなければ、拠点を作った側が苦しくなるだろう。そして勘太にはこの歩を支える好手がまるで見えない。
「頂点にいる人間の考えは、解らんものだ」
 唸りたくなる代わりにそうぼやいた。
 ―― 後7四歩、先5三角、後4四角、先同角成、後同銀 ――
 先手が垂らした歩先に角を打ち馬作りを見せると、後手は2六への馬は作らせないという角打ち。8筋へ成る手は今度こそ5四歩を取られてしまうため先手は同角成、後手は同歩とすると左銀の活用が狭まるため同銀と引く。必然の進行が多いように思えるが、先手は5四歩を垂らした時点でこれに近しい図が見えていたのだろうか――寒さに震えることも忘れた勘太が盤に沈んでいると、ふと頭を叩かれた。
「何すんだ!」
 そう怒鳴り返すも相手は呆れた顔で御堂を指すばかり、勘太に観戦の順番が回ってきたということらしい。
「どうもアイツは、将棋が強くても周りのことが見えてねえ」
 陰口から逃れるように、勘太は足早に御堂へと向かう。

 御堂に揺らめく行燈の灯りは観衆の熱気と相まり燃え盛る炎のようだった。立ち合いとして、対局者と聴衆を隔てるように控える筒井の若衆は彫り物の像のように動かず、その向こうに座する二人はじっと盤を眺めながら、時折独り言のようにぼやくが、それは勘太には届かない。ただ僅かに口元が動いていると解るだけだ。
 御堂の奥深くに鎮座する明王が二人の盤を睥睨する。
 普段の盆と違い聴衆に会話は無い。ただただ、この光景に魅せられて、話すことを忘れてしまったのだろう。
 美しい。
 気が付けば勘太は局面のことなど忘れ、ただそればかりを思っていた。

              ※

十兵衛の背中越しに覗き込んだ盤面の意味は香子には解らない。どちらが優勢であるかも、あとどれくらいで勝負が終わるのかも、何一つとして解らないままに、十兵衛の背を眺めている。それは何もない時間だった。風に舞う桜の花弁を前にして動けなくなる時のような、そんな呆然とした感覚に似ていた。
「――我々と来い、十兵衛」
 独り言のように佐々木が言った。手元の扇子をいじりながら視線は盤に向けたまま動かさず、しかし声色は確かだった。
「お前の才は後世に残るべきものだ、つまらん野良将棋で消えて良いものではない」
 それが心底からの誘いか、それとも十兵衛を揺さぶる為だけのものなのか、香子には解らない。
「――その為に負けろと仰るか」
「お前では新聞社は金を出すまい、他の連中を食わせてやれん」
 十兵衛の表情は憤怒であろうか、嘲笑であろうか、それともいつもと変わらぬのものであろうか、その表情は伺えず、ただ静かな背中が見えるのみ。
 やがて十兵衛は静かに右の腕を駒台へ動かすと、二つの白い指先に駒を挟んで持ち上げた。その流れるような動作は、彼が行う他のどの動作よりも洗練されていた。
「私は、もう二度と、自分を殺したくないのです」
 ―― 先1八角 ――
 言葉よりも明瞭な駒音が鳴ると、佐々木は見る間に眉間に濃い皺を寄せた。怒りである。
「後悔するなよ」

             ※

 打てない角だ。勘太は直感的にそう感じ取り青ざめた。手の良し悪しなどは解るはずもない、彼にしてみれば天上の二人が指している一局であり、ただの好事家がそれを判断できるはずもない。しかし打てない角であることだけは明確であった。
 将棋に人生を賭けていなければ、この角を打てるはずが無かった。
 交代の時間となり表に出ると解説を求める聴衆が群がってきたが、あの手を解説出来る人間など、どうしてこの世に存在できようか。いるとすればその人物こそが名人であろう。
「しばらくは見守るしかないさ」
 虫を散らすように、勘太は力なく手を振るしかない。

―― 後4二金、先5七銀右、後3二玉、先5六銀、後6二金、先5八飛、後3三銀上、先6六歩、後1四歩、先7九玉、後8四歩、先5九金、後8五歩、先2七角、後5一飛、先4五銀、後5五歩、先6七銀、後8六歩、先同歩、後7五歩、先同歩、後4五銀、先同角、後4四銀、先1八角、後5六銀、先同銀、後同歩、先同飛、後5五銀打、先5八飛、後6六銀、先6七歩、後7七歩、先同桂、後7五銀、先6八金上、後7六歩 ――
 日付が変わろうかという頃になってなお人が散ることは無かった、それどころか聴衆は時間を増すにつれて増えてきている。正月気分もあるが、将棋の内容が帰ることを許してはくれなかった。
 佐々木の指した7六歩が伝わると、勘太は好機だと漏らした。
「名人の失着だってのかい?」
「失着と言える程かは解らない。だが、先手としては5三の地点に効きを増やしたいのだから、この桂を跳ねるのはむしろ望む所。後手はそれを手伝った形になる」
 ―― 先6五桂、後6四銀、先5三銀、後同金右、先同歩成、後同銀左、先同桂成、後同銀、先6三角成 ――
 間を置かず読み通りの手が伝わるにつれて境内は俄かに熱気を増してきた。いよいよ村の英雄が日本一の名人を倒そうという時が近づいているのだと、誰しもがその夢に酔っていた。

               ※

―― 後7七銀、先2四歩、後同歩、先2五歩、後3三角、先5五歩、後7八銀成、先同金、後7七金、先4五銀 ――
 熱気のせいか赤みがかっていた佐々木の表情が徐々に色を失っていく様が、間近に見ていた香子には良く解った。盤上は十兵衛が優勢なのかもしれない。十兵衛が駒台から拾い上げた駒を盤上に打ち付けると、佐々木は顔を上げて十兵衛を睨みつけた。
 ―― 後6一飛、先7四馬 ――
「死ぬぞ、貴様」
 脅しとはまた違うように聞こえた。自らの負けを遠ざけようという意志ではなく、純粋な警告にも受け取れた。
 ―― 後2五歩、先3四銀、後2四角、先4六銀 ――
「元より将棋に与えられた生です、将棋で死ぬのは自然のことでありましょう」
「何を、貴様は何を言っている」
「生きていなければ、死ぬ事すらも出来ますまい」
 ―― 後3三金、先同銀成、後同玉、先3五銀打、後8七桂、先同金、後同金 ――
「無念だ……十兵衛よ、無念だ」
 ―― 先2四銀、後同玉、先3五銀、後同玉、先4六角、後4四玉、先3四金まで百十一手で先手の勝ち。 ――


 佐々木が駒台に手を置いて暫く、境内は静まり返ったままであったが、それも僅かの間であった。誰かが声を挙げるとすぐさま歓喜の声は伝播し表に伝わる、境内がやはり一瞬の間を置いてから怒声ともつかぬ歓声に支配されると香子はすぐさま十兵衛の手を取って立ち上がった。
 ふと、その場を動かない佐々木の虚ろな視線が向いていることに気が付く。
「貴方も、死んで勝ち逃げされたのでは寝ざめが悪いでしょう」
 睨むように香子が言うと佐々木は視線を逸らした。早く行けという事かも知れなかった。

 一日中将棋を指していた十兵衛は足がもつれるのか、年下の女である香子がその手を引く形で二人は駆けた。あの騒ぎでは既に佐々木の敗北は家に伝わっているだろうし、そうなれば総司が澤山を御することなど出来るはずもない。
 滅多に人が通らない、隣町へと繋がる古道だった。松明を片手に行く道中、十兵衛はいつもの様子で何度も香子に家へ帰るよう説得したが、香子は一切合切を無視して突き進んだ。こうなると将棋で弱っていた十兵衛の体力がむしろ香子には有難かった。今ならば非力な自分でも十兵衛の先を行くことができ、自分が先を歩いていれば十兵衛はそれを見捨てることをしなかった。
 やがて数刻も経ち山道の終わりが見え始めると、道端で火を炊く男の姿が見えた。先回りされたかと様子を伺いながら近付き、その姿を認めると祖父の順慶だった。
 祖父であればと、香子は無防備に近付いて声をかけたが、それは誤りだった。
 祖父の手には白鞘が握られていた。
「どういうつもりさ」
「来るならこの道だと思ってな、待っていた」
「そんな事を聞いているんじゃない!」
 順慶は食って掛かる香子を見ようともせず、後ろに立つ十兵衛に語り掛ける。
「ここに来たということは倒したのだろう、名人を」
 十兵衛もまた、敵意や警戒といった情は一切感じさせない、穏やかな表情で頷く。
「そうかい。大したもんだよ」
 香子は順慶の頬を平手で張った。冬の冷え切った空気を切り裂くような鋭い破裂音が響いたが、順慶は身じろぎ一つせず言った。
「どれだけ馬鹿な話でも家長が持ってきた事だ、家としての義理は立てねばならん」
 叱ることもなくそっと香子を脇に追いやり、順慶はゆっくりと十兵衛との距離を詰めた。十兵衛もまた覚悟を決めたように静かに向き合っている。懐から取り出した撚紐を十兵衛の肩に回し、衣擦れの音が漏れるほどに強く縛ると、少し待てと言って煙草に火を点けた。
 白い息を吐きだしながら夜空を見上げる。言葉を交わすことは無かった。香子は割って入ることの出来ない空気を察し、黙って満天の星々を見上げた。七星が煌々と輝いているのが良く見えた。
 どれだけの間であったのかは解らない。
「香子の事、頼んだぞ」
 やがて順慶はそう言うと白鞘を抜き、十兵衛も解したかのように右の腕を差し出した。
 鮮血が散ることは無かった。ただ真白い雪上に朱の斑点が滴ったばかりだった。
 倒れ伏す十兵衛を懸命に受け止める香子へ、風呂敷包みを押し付けながら、
「すぐ先に医者を待たせている、行け」
 そう残し、順慶は切り落とした腕を大事そうに抱えて来た道を戻り始める。
 香子はその背を追う事もせず、十兵衛を抱えて歩を進めた。












              ※

 救急車が庭先に到着すると、すぐにやかましい救急隊員が乗り込んで、盤の駒が崩れてしまった。香子は少し残念に思ったがすぐに考えを改めた。どうせ将棋の局面など詳しいことは解らないのである。
 動じない香子に、救急隊員が却って狼狽しているようでもあったが、心肺蘇生をしようとすることはやめさせた。もう死んでいます、ゆっくりさせてあげてください。
 十兵衛が将棋で負けたのだから、死んだのだ。これ以上ない死に際だと思った。汚されたくなかった。
 救急隊の陰に隠れるように近づいて来た響は、まだ事情を飲み込めていないようだったが、その手を引いてそっと自分の膝の上に座らせると、その視線はじっと将棋盤に向いているようだった。
「お爺ちゃんは、強かっただろう」
 語り掛けると素直に頷いた。
「響は、将棋は好き?」
 また頷く。
 そうして暫く、小さな頭を撫でながら、救急隊に寝かされた十兵衛を眺めていると、
「また、こういうしょうぎをさしたい」
救急車の赤灯が壁を駆け巡る中で、因果だねえ、と香子は呟いた。(了)
・カチコミにはまって極道物を書きたくなり始めて何年経ったか。ひとまず外伝終わり

・本編戻る予定で読み返してたら祖母の名前違ってましたね、本編を香子に合わせます
・今回の棋譜は天野宗歩と八代伊藤宗印(十一世名人)俗に言う遠見の角で有名な棋譜です。御城将棋だったかと思いますが詳細は不明、なおこの角については中原先生とかも触れてますが多分好手では無いです。でも格好いいよね、だから選んだ。
・なおソフトはGUIさんで技巧先生を使わせて頂くこととなりました。クッソ使い易くなってる・・・これ書き始めた頃はまだ人間がソフトに勝ってた頃なんだよね・・・隔世の感ある。

・古戦場しんどい、毎回言ってるけど今回ヤバ杉内(オッケマン並感想)

・りゅうおうのおしごと研究の為に読んだ。将棋ネタはところどころ散りばめられてて棋界ファンは楽しめる感じ
・文章の崩し方は面白いし気楽に読めるなあと思いつつ、ああいう崩し方は自分はあんまやりたくないなあとも思う。でもああいうのの方が読みやすいわな
・ってことで本編戻ったら多少読みやすくなるよう頑張ろう
・ちな内容的には普通に好きよ。余談で加藤さんの同級生って話がガチ偶然過ぎてワロタわ
・ちなワイの先輩にはガチモンの名人おるぞ(年齢離れすぎだけど)


・丸山叡王を心待ちにしております
・やっぱりお願いだから米ください、死ぬ
sage