一六

 立花千代にとって人に見られることは日常だった。
 取材や将棋ファンからの視線は勿論のこと、異性から向けられる粘っこい視線もそうだ。殊に女性が少ない棋界の一番深い所で思春期を過ごした彼女にとって、同世代や多少年上の男から“そうした”視線を向けられることは、侮蔑の情が既に沸かなくなるほどに日常だった。
 少ないながらも同性が全くいなかった訳ではない。
 勝負の世界に生きるごくごく珍しい“彼女たち”が白星を稼ぐためにそれを武器として用いていたことも当然知っている。
 例会の日は敢えて胸元が緩い服を着たり、丈の短いスカートを履いて来る人間もいた。
 見せる為に。
 多少見た目の整った女性であれば、それは決して珍しいことではなかった。敢えてそのことを指摘したり糾弾する人間が出ない程度には、将棋界にとっては日常的なことだった。
 初潮を終えた頃からだったろうか、丸みを帯び始めた自らの肉体が男の視線を奪う事に千代も気付いたが、気付いてからはむしろ女性らしさを遠ざけた。制服を着なければいけない時の為に、校則通りの膝丈スカートを通学用とは別にわざわざ用意した。
 正々堂々とかそんな欠伸が出るような戯言とは違う、冷静な結論だ。
 少し考えれば当然だが、そんな冗談みたいな負け方が許されるほど奨励会はぬるくない。仮に色気で白星を拾える相手がいるとすれば、それはつまり、目の前の勝負に貴重な残り時間が賭かっていることにも気付けていない真正の間抜けである。そんな間抜けはまかり間違って入会したとしてもすぐに淘汰されるから低級のうちに消えていく。むしろそんな間抜け用の番外戦術に執心しているなどと噂をされたら、蹴落とさなければならない敵に軽んじられ一斉に食いつかれる。
 あそこでは弱った人間は白星を稼ぐ貴重な獲物なのだ。
 奨励会員は情報を共有する相手をプロ以上に吟味する。自分に有利な情報を得られない人間とは付き合わない。生活を保障されたプロと違い、己の人生を賭けて互いを潰し合う環境では当然のことだ。
 地獄の釜底を這い上がると決めた以上、千代は“彼女たち”と同列に扱われることだけは避けなければならなかった。
 “彼女たち”の多くはそれでも女流棋士になっていった。
 立花千代にとって、その程度でもなれるのが女流なのだ。










 支度を済ませた千代が部屋を出ると、ちょうど廊下を歩いていた響とすれ違った。昨日はラス前の順位戦だったからそのまま泊ったのだろう。
「おはよう、お疲れね」
 軽く挨拶をすると欠伸交じりに、勝ったぞと一言で伝えられる。対局翌日は聞かれる前に結果を伝えるのが立花家の不文律だ。本人が触れない場合は負けたものとして受け止められる。互いに確認し合ったことなど無いが、鑑連の振る舞いから全員が自然とそうするようになっていた。
「長かったの?」
「日付変わる前には終わったから、そうでもないだろ」
 欠伸の理由は別にあるらしい、今日から期末なんだよ、とぼやく響に、腹の中に重い泥が溜まったような気分になる。
 響はこれでB級2組十戦十勝。確か今期のB2は九戦時点で響以外全勝者がおらず一敗が一名であるから、順位による頭ハネを考慮することも無く、次期B級1組への三期連続昇級が既に決定したということだ。
 おめでとうという言葉は自然と続かずに一瞬の逡巡の間が生まれ、その事実に気付くと泥が一層重くなる。
 そんな千代の葛藤など気付いてもいないのだろう、
「千代は明日だろ、関西だっけ?」
言った響は相変わらず眠そうにしている。
「そうね。今晩から前乗りするつもり」
 腹の底で冷ややかな泥が這いずり蠢いているが、表情は平静を保ちながら答える。
 ――気持ちが悪い。
 ふと、目の前の響から伺うような視線を向けられ、
「例の棋戦のこと、気負うのも解るけどもっと肩の力抜きなよ」
その声は腹立たしい程に優しい。
「何が言いたいの?」
 言葉に出る棘は既に隠しようもなくなっていた。
 千代の変化を察したのだろう、響は気を入れなおすように瞼をこする。
「立花は女流対策に忙しそうだって、うだつの上がらないオッサン連中が噂してる。昨日昼飯食ってたときに聞こえて来てさ……星の勘定されてたぞ」
 頭から血がすっと引いていき、腹の泥と混じり合っていく、こみ上げてきた吐き気までは悟られるわけにはいかないと、生唾を飲みこんで堪える。
「奨励会の、瀬田さんと新山さんの棋譜、調べただろ。誰かが尾ひれ付けて、立花は女流の棋譜を漁っているって言いふらしてるみたいだ」
 瀬田かおり初段と新山紗枝一級は両者ともに奨励会員であり、奨励会員でも参加できる二つの女流棋戦のタイトルを分け合っている。年は二十二歳と二十歳で、棋士になれるかは微妙な所だろうが、その棋力を女流棋士と比較して扱う事は出来ない。
 言うなれば、彼女たちは数年前の千代に近い存在だ。
「千代は間違ってないさ。噂してたオッサン連中だって、あの二人と一発勝負で十割勝てるかどうかなんて怪しいもんだ。注意するに越したことは無い」
 でも、と響の言葉は続いた。
「もっと周りに余裕見せてないと、食い付かれるぞ」

 響と慈乃を学校へ送り出してから、何気なく入ったトイレで千代は自身の月経に気が付いた。
 ピルで先延ばしにしてきたツケがよりにもよってここで出たのだ。
 二勝六敗で臨む順位戦ラス前。前期降級者で順位は高かったが、明日の対局で敗れれば降級点の可能性も出てくる。
 便座に座ったまましばし呆然とした後、それでも、トイレの棚に置いてある生理用ナプキンを取り出そうと手を伸ばす。
 この程度のことは今までも何度もあった、対局が待ってくれないことも知っている――そう自身に言い聞かせるように。
 それでも、頬を伝う涙に気が付いてしまうと、情けなさに嗚咽が溢れる。
 自分の子宮が恨めしかった。






 C級2組順位戦九回戦。
 千代の対局相手は林義男七段、関西の所属であり盤外では多くの弟子をプロとして鍛え上げ名伯楽の名で呼ばれることも多い、還暦も間近という古豪……と言えば聞こえは良いが、彼自身は他の棋戦でも目立った成績を上げておらず、何段という段位も長年の勝ち数規定によるもの。順位戦の降級点を取らないことに全力を尽くす、所謂サラリーマン棋士の一人だ。
 それでも弟子の面倒見が良いという評判は間違いないのだろう、C2の順位戦だというのに、B級1組で現在銀之介と昇級争いをしている川崎七段を筆頭とした林一門の姿が早朝から見られるなど、千代にとっては疑いようもないアウェーだった。
 対局開始の三十分前に福島駅目の前のビジネスホテルから会館に到着した千代は、そうした雰囲気を意識しないように、挨拶も少なに対局が行われる御下段の間へ入った。同室で他に6組の順位戦対局が予定されており、千代と同じように関東から遠征している棋士もいる。
 まだ人の姿はまばらであり、奨励会員達が対局の準備に動き回っている。
 千代は彼らに軽く頭を下げてから、指定された盤の下座について林七段を待った。

 やがて現れた林七段は、千代は以前に数度会話をしたこともあったが、その時と比べてどうにも雰囲気が固いように思われた。対局に際して人柄が変わる棋士などそう珍しい事でもないが、今日は特別に、どうも何か心中に期するものがあることを隠しきれていないように思われた。
 その様子に気付いた千代は、冷ややかに心中で拳を握った。力み過ぎた高齢棋士は往々にして自分の衰えを忘れてしまう。指し盛りの頭のつもりでエンジンを吹かし結果大ポカをやらかすのだ。
 これまでにも何度か、特に千代が四段に昇段したばかりの頃は、女になど負けられないと意気込んだロートルから勝ち星を拾う経験があった。
 行けるかも知れない――千代は冷静に呼吸を整えた。

 対局は後手番の千代の思惑通り、優勢を維持しながら終盤を迎えようとしていた。
 後手番横歩取り8五飛。新人王戦の記念対局で二階堂が見せた新手が俄かに注目を集めたことで直近では採用率が減っている戦法だったが、千代にはこの戦法にアドバンテージがあった。即ち、この戦法を実際に体験した響と以前からこれを知っていた慈乃の二人を相手に十分な検討を行うことが出来ていたのである。件の二階堂と響の一戦を洗い直す事で二階堂新手に対して後手が有望になる変化も見えてきた。
 勝ちを計算できる貴重な研究をつぎ込んでの勝負、負ける訳にはいかない。
 夕食休憩を終え早い人間はそろそろ投了も考え始める頃、このまま安全策で逃げ切れば今日は勝てると、ハッキリと意識した時の事だった。
 ――王の、早逃げ……?
 思わず相手の表情を直視してしまうほどに、それは考えられない手だった。確かに早逃げをすることで自陣に金駒を打ち付ければ勝負を長引かせる事ができるだろうが、しかしである。盤上では千代の角が林の飛車を睨んでおり、そして林七段の飛車には王しか紐が付いていなかった。
 つまり、飛車の素抜きをやってこいというのだ。
 何を考えているのだとその表情を伺うと、林は眼光鋭く千代を見返した。その程度でひるむものではないが、あまりに異質なその指し手に気圧されたのも事実だ。
 結局、飛車のタダ取りという当然の一手に千代は五分の考慮を支払わされた。

 或いはその五分が分水嶺であったのかも知れない。
 クソ粘りと表現して良いだろう、まるで勝ち目が見えないはずの粘りに入った林はありとあらゆる手を使って自玉を逃し続けた。そしてその結果、時間が長くなるにつれて千代に別の問題が現れはじめた。
 貧血である。
 頭がふらつき盤上がぼやける、深く手を読もうとするとそれだけで吐気がこみあげる。ナプキンから溢れた経血が下着を濡らし太腿まで垂れていることを自覚すると、その症状は一層重くなった。
 時刻は既に日を跨ぎ、周囲で行われていた対局は全て終了しているらしい。
 手洗いに行ければ多少はどうにか出来るかも知れないが、ここまで来てしまえばそんな時間は無い。林は十八分を残しているが、千代は残り五分しかなく記録係の読み上げが始まっている。
 仮に相手の手番でトイレに行こうにも、ここまでの粘りを見せている以上時間攻めにも躊躇は無いだろう。
 局面自体はまだ優勢。相手の細かい攻勢を丁寧に面倒見てやれば自然と有利が拡大していくだろう、普通に指せれば必勝の形だ。
「五十秒、いち、にい、さん、しい――」
 秒読みに追われながら千代は飛車を振り下ろした。これ以上長引かせる訳にはいかないという意志のもと、相手の攻めを無視して寄せに出る飛車打ち。
 既に身体が限界を迎えていた。呼吸は乱れ、眩暈が止まず視界は靄がかかったように暗くなっていた。空嘔吐きは止まず胃液が喉元まで逆流してきている。何より手が読めない。脳が働かない。濁流におぼれ、もがきながら、それでも懸命に手を読もうとするも、身体がそれを許さない。
 息も絶え絶えに盤を睨んでいた千代だが、ふと林七段の視線を感じて顔を上げた。それはつい数時間前に千代がしたのと同じような視線だった。飛車の素抜きをさせた林を見た千代と同じように、林が千代を見ていた。
 なんだ、と思い盤をもう一度眺める。
 そして愕然とする。
 三手後、約束された未来の純正王手飛車がそこにはあった。
「四十秒……五十秒、いち、にい、さん、しい」
 秒読みギリギリまで読みを入れた林が9四角と打った所で千代は崩れるように投了した。

 終局後、感想戦を始めることも帰ることも出来ず盤前で打ちひしがれていると、林から、トイレ行ってきいや、と声を掛けられた。決して口には出さないだろうが、どこか謝罪の色が籠もっているような、控え目な声だった。
 トイレに行き個室に籠もった千代は静かに泣いた。サニタリーボックスに押し込もうと脱いだ下着を持ったまま、便座に顔を押し付けるようにして泣いた。
 何よりも、残ってしまう無残な棋譜が悲しかった。

 そうして、どれだけトイレに籠もっていただろう。深夜と言っても良い時間、既に林は帰っているだろうが持ち込んだ道具を回収しなければならないと対局室に戻ると、しかし林は一人で残っていた。
 記録用の机も仕舞われ奨励会員も帰り、誰もいなくなった対局室に、胡坐を組んで待つ林と終局時の盤だけが残っていた。
 亡霊のように立ち尽くす千代に気付くと、林は無言で盤の向かいを指した。座れという事らしい。
 無言のまま座り、相手の言葉を待っていると、
「何故投げたんや?」
と、その一言だった。
 聞くまでもないことだ、と思う。プロが、全くの見落としで純正王手飛車をかけられるなど有ってはならないことだ。その時点で心が折れた、他の棋士でも投げるだろうと思う。
 何も答えられずにいると、林は静かに、ある人物の名を挙げた。
「君嶋卓也って、覚えとるか?」
「……三段リーグで、何度か」
「ワシの弟子でな、ホンマ要領の悪いヤツで、難儀したけど……今期で退会したわ。年齢制限、引っかかってもうた」
 君嶋卓也は千代が三段に上がる前から三段におりそして千代が三段を抜けたあとも三段にいた。島津銀之介も、立花千代も、浅井響も、立花慈乃も、全員を知っており、そして全員に追い抜かれていった人だった。
「アイツが……ホンマに不出来な弟子やったアイツが、四段に上がれそうやったことが、一回だけあったんや。七年前、もう一番勝てば昇段できる、盤面も必勝、よっしゃ勝った昇段や!」
 語る林は涙を隠そうとしていなかった。鼻水を垂らし、膝の上で握りしめた拳に大きな涙を何粒も垂らしながら、鼻声で語り続けた。
「……そう思ったら、相手の子がクソ粘りしてな。いや、あれは見事な粘りやった。すました顔して、顔面受けなんぞ屁でもないみたいな、綺麗な子やのに根性座ってて、ホンマ泥臭い……いい将棋やった」
 千代もその将棋は当然覚えている。感想戦を終えたあと君嶋卓也は廊下に崩れ落ち咽び泣いていた。
「王手飛車がかかっても、これだけ圧倒的なら、盤面は君の方がええはずや……あの時の、三段の君やったら、絶対にこの将棋は投げんはずや。投げんで、粘りに粘って、そうして相手を叩き落したはずや」
 握りしめた拳が赤くなるほどに悔しがる、勝者であるはずの林がそこにいた。


「退会が決まってから、君嶋が君との将棋の棋譜、眺めとったんや……せやから、今日はすまんかった。体調悪いのも気付いとった、トイレ行かせたるのが人の道かとも思うた、けど、とことんまで追い詰めてやりたかった」
 そうして林は深々と頭を下げた。上に行けない人間の、しかし美しい作法だった。弟子に恵まれたのではなく、こうした人柄だから弟子が集まるのだろう。


 やがて林は消えていた。千代は一人残された対局室で盤面を眺めている。
 王手飛車まで進んでも後手が優勢だという揺るぎない事実への絶望が、彼女の足を縫い付けたように動かさなかった。



sage