二十

 千代が女王戦番勝負に関する打ち合わせで千駄ヶ谷に訪れた、その帰り際のことだった。事務職員から調整が入っていた神座戦二次予選の手合が四月の下旬に決まったことを告げられた。女王戦の番勝負が本来予定されていた日付と重なったため、対局相手の木下元吉九段との調整をして貰っていたところだった。
「ありがとうございます、ご迷惑をおかけしました」
 千代が頭を下げると事務職員は恐縮したように勢いよく首を振る。
「いえ、立花先生には本当に無理をして頂いていますので」
 本来ならばこちらが頭を下げなければいけないと、その職員の表情が本当に申し訳なさそうになっていくことが却って辛い。
「本来ならばもっと早くお伝え出来る予定だったのですが」
「木下先生にも都合がありますから、仕方ありませんよ」
 目の前の関係を壊さない方便だった。木下が日程の調整を渋ったことなど自分に対する当てつけ以外の何物でもないと千代も察している。
 銀乃介との結婚発表以来、木下からの誘いはパタリと止んだ。島津銀乃介と木下元吉の対局成績は銀乃介の五戦五勝、対局数自体は少ないが圧倒的な成績だ。それらしき関係で止まっていた頃ならばいざ知らず、結婚したとなれば自分より成績が上の相手の妻に声を掛けようとは思えないのもこの世界では自然だ。
 ならばせめてこのくらいは、ということかも知れない。
「では、失礼します」
 頭を下げて事務室を出るとようやくほっとした。木下の件に関しては銀乃介も知らないはずだが、こうして助けられた以上一言くらいは礼を言っても良いのかも知れない。
「夕飯、たまには作ってあげるかな」
 不意に口を出た言葉がいかにも家庭の女のようで、千代はふと笑った。






 女王戦第三局は京都御所の飛香舎にて開催される。
 関係者は東京駅に集まってから現地入りする予定となっており、千代が集合場所に到着したのは時刻の十分前だったが、松永会長と付き添いの職員を除いた全員が既に待機していた。
 松永達の到着を待つ僅かな間だったが、意識することもなく滝川との距離が開いていたのは周囲がそう動いたからだろう。周囲のそうした気遣いを悟れる程度には、千代は余裕があった。
 本戦からの参加となった女王戦トーナメントでは、棋士として参加する立花千代・慈乃両名は半香の手合割、即ちハンディキャップを課せられることとなった。松永の鶴の一声で決められたという手合割はもしかすると女流への配慮でなく両名が負けた時の言い訳を与えてくれたものかも知れない。本来棋士と女流の棋力差は半香程度で埋まるはずがない。
 そうした状況下で千代は順調に勝ち進み、最も注意すべき相手であった二名の奨励会員も余裕を持って下した。残るは決勝番勝負のみ、相手は意図的に別山に配置された慈乃で決まりのはずだったが、想定外の事態は起こる。
 慈乃が準決勝で負けたのだ。圧倒的勝勢での七手詰の見落とし、みっともないと笑われそうな思い出王手に自分から詰まされに行くという、世紀に残る大頓死だった。
 終局後のインタビューで『気が抜けていました』と間抜けな笑いを晒しながら答えた妹は、当然と言うべきだろうか、片思い中の某男子高校生王竜位にマジギレで折檻され近頃とんと大人しくなったという余談もある。
 しかし千代は知っている。【慈乃に意図しない負けは存在し得ない】ことを。
 考えられるのは単純にやる気が無かったか、或いは、姉である自分と番勝負をしたくなかったかの二択だろう。ともあれ、決勝番勝負の場に勝ち上がってきたのは滝川女流二冠であり、こうして呉越同舟の仲となった訳だ。
 携帯をいじると銀乃介からメールが入っており、明日は現地に来るとあった。大盤解説かと尋ねると実家から呼ばれたのだという。島津家全員が関係者として現地に来るそうだ。余裕があれば局後に挨拶に行くつもりでいた方が良いだろう。
「遅れてすまなかったね」
 約束時刻と寸刻違わないタイミングで、調子の良い声を響かせた松永が到着した。会長である自分が早く行き過ぎるのも遅く行くのも良くないという配慮から、タイトル戦では恒例の光景らしい。
「では、京都観光へ参るとしましょうか。何せ御所なんて棋界初の栄誉だよ、大東亜製鉄さんにも、両対局者にも感謝、感謝、大感謝」
 松永を先頭に一行は新幹線に乗り込んだ。

 前日行事は府内博物館見学に始まり観光案内を兼ねての検分を経て前夜祭へと繋がった。新幹線を降りてからノンストップで展開する怒涛のような流れに番勝負が始まった当初は戸惑いも覚えたが三度目ともなれば慣れている、すべての行事をつつがなく終え、千代は早々に宿の自室へと引き上げていた。
 荷物の整理をしていると携帯電話の充電器を忘れたことに気が付き、フロントに借りに行く途中、廊下を歩いている時のことだった。
 御所にほど近いホテルの中庭には桜があった。立派に花をつけていたろうがもう見頃は過ぎてしまっている。儚い花の散り際は宙を舞い桜端のうつくしい敷物となって月明かりのもとで一面に広がっていく。
 目を奪われていると歩いてきた滝川とすれ違った。前夜祭の会場からはほぼ同時に出ていたのでどこかに寄っていたのだろう、言葉を交わすでも無いが交差の瞬間に会釈をすると滝川は気付かない風に去って行った。
 プライドを傷つけたかも知れないと千代は思った。前夜に会った相手にまるで意識せずに会釈をするのは余裕と受け取られたかも知れない。実際、千代が余裕を見せるだけの差が両者にはあると言ってよかった。
 女王戦五番勝負は棋士同士であれば平手で、棋士対女流棋士であれば香落ちで行われる本戦トーナメントと同じ手合のものだが、番勝負ならではの規則が一つ盛り込まれている。即ち【二番手直りによる指し込み制】の導入。三勝先取の五番勝負において、三局目までに片方が二連勝していた場合、第三局・第四局の手合割を見直すというものだ。
 棋士対女流で女流側が二連勝していれば第三・第四局は平手、棋士対棋士の場合は半香、そして棋士対女流で棋士側が二連勝した場合は角落ち。
 前代未聞のタイトル戦における角落ち番勝負は明日の立花千代五段対滝川圭子女流二冠の一局で現実のものとなる。
 滝川圭子は紛れもなく女流棋界の頂点だった。経験を積んだ奨励会員が一部の女流棋戦に出場するようになった今でこそタイトル戦での敗退もそれなりに見受けられるようにはなったが、対女流棋士に限ってみれば今でも圧倒的な成績を誇っている。そしてその滝川が角落ちに指し込まれたという事実は女流棋界を根本から揺るがすものだ。
 女流には花としての価値しか無い――少なくとも無責任な観客は大駒を落とされたタイトル戦の棋譜を見てそう受け止めるだろう。
 千代に迷いは無かった。がむしゃらに頂点を目指すことは確かに諦めたが、勝負を前に情けを浮かべる程に鈍ってはいない。対局に臨む以上最善を尽くし勝利する、それ以外の選択肢は無い。
 だが、それでも。今までに積み重ねたものが無価値であったことを突き付けられるあの痛みを、千代もまた身を以て知る絶対的な才能への絶望を、他ならぬ自らに対して滝川が感じているのだろうと思うと、無間地獄の途方も無い虚しさに襲われる。

『女王戦第三局観戦記 将棋報道記者連合会・幸田成行(読日)記
 さて、本棋戦の観戦記は七大タイトル棋戦主催新聞社に所属する記者の連合である我々【将記連】の回り番で担当させて頂いているが、今回の女王戦第三局は読日新聞社の幸田が担当させて頂くこととなった。
 まず初めに申し上げておきたいが、私は女王戦に関して複雑な思いを持っている。それはこの棋戦が、何より番勝負で採用された二番手直りによる指し込み制の採用が、敢えて直球な表現をすれば、スプラッタショーのようなものに感じられるからだ。現にこうしてタイトル戦の場での角落ちが現実のものとなってしまっている。
 そして率直に記せば、立花千代と滝川圭子の組み合わせが決まった時点でこうなることは見えていた。
 半香という手合割は、駒落ちという言葉がもたらすインパクトと比較して、実際の損得が非常に小さい。更に言えば全ての棋士は奨励会時代に例外なくこの手合割を本気で研究している。駒落ちとは言えども【本気で勝ちに行く時の棋士】にとってはハンデと呼べるものにならない、となれば地力の差から結果は明白だ。
 私は自らの考えに基づき、指し込み制の提案者である松永会長に本局前夜祭会場で取材を行った。
 そして松永会長はこの考えを肯定した。全くその通りである、と。
 ――何故そんなルールを提案したのですか?
「理由は興行的なものの他に二つある」
 ――具体的にお願いします。
「一つは、女流側が立花姉妹に対して示すべき誠意としてだ。奨励会を抜けた女性たちにぶら下がるんだ、この程度は最低限だろう」
 ――もう一つは?
「二つ目、会長としての本音ならこちらの方が圧倒的に大だな……私はね、今の女流棋界を壊したかったんだ。その為にも世間に女流の現実を知らしめる必要があった」
 衝撃的な言葉だった。しかし松永会長は真剣な目でそれを語った。
「立花千代が三段に昇段した頃から考えていたことだがね、女流制度はゼロから再編されなければならない。少なくとも、これまでと同じようにはしておけない。今のアレは本気で将棋を志している女性にとっては足枷にしかならん。
 この考えは間違っているだろうかと、女流の頭に、滝川本人に聞いたこともある。彼女は確かに頷いた、頷いた上でこの棋戦に臨んだ。
 立花慈乃との棋譜は当然君も見ただろう、あんなにみっともない王手をかける程に必死になって、彼女はここに這い上がった。滝川君の気迫が立花慈乃を負かしたんだ。彼女の真意を探るのにあの棋譜以上の言葉が必要かい?」
 ――つまり、滝川先生は敢えて斬られ役になる覚悟でこの番勝負に臨んでいると?
「あわよくば食ってやろうという考えがあったのかは解らない。が、相手との差に気付かないほど彼女も若くはないだろう」
 せめてその覚悟だけは汲んでやってくれと、去り際松永会長が私の肩を握ったその細腕には僅かな痛みすら覚える程の力が込められていた。【続】』

 食事を済ませた千代は慣れた和服を着込むと袴を着けてホテルを出た。対局開始よりもまだ一時間以上早い、八時前のことだ。それから御所をゆっくりと回るように散歩をして会場である飛香舎に入る頃には開始の二十分前になっていた。
 待ち構えていた山脈のような報道カメラに会釈をしてから上座に座り、目を閉じて滝川を待つ。
 ふと、鶯の声が聞こえたので瞼を開けて視界をやると、ほんの僅かな間もおかずに一斉にフラッシュが焚かれた。
 微笑むこともなく再び目を閉じる。一挙一動を監視されているようなこの状況にももう慣れた。
 浅井響という存在に加えて史上初の棋士同士の結婚があったばかりでの新棋戦、世論の関心は高かった。棋界の動向と併せて女王戦番勝負の結果は他のスポーツと同様の扱いで報道されるようになっている。主催の大東亜製鉄内部でも想像以上の宣伝効果だと言われているらしい、今後も末永い付き合いになるだろうとは前夜祭で挨拶をした銀乃介の弟の弁だ。
 対局五分前に姿を見せた滝川は心なし肌が蒼白く、表情が強張っているようにも見えた。盤を挟んで向き合うと千代は己の中に沸きそうになった憐憫の情に気付き、すぐにそれを戒めた。
 会釈をしてから駒箱を開け、盤上に零した駒から一枚の角を抜き取る。二本の指で挟む瞬間に、今日一番の、辺りが白むほどの光が溢れた。眩さの中滝川がその唇を噛み締めた刹那がファインダーに収まらなかったことを、せめてと千代は祈る。

『夕焼け時の温かな春風に藤の蔓が揺れている。本局の舞台である飛香舎はかの源氏物語は藤壺中宮の由来でもありその名の通り庭には見事な藤が植えられている。もう少し経てば見頃となるらしい、ゴールデンウィークの辺りがもっとも良いと言われているのでこれから予定を考える方は是非検討してみてはいかがだろうか。
 閑話休題。
 下手が中飛車に振る戦型となった本局だが、昼食休憩前の局面図は以下の通りだった。
 午後に入ってから下手が4五歩とついて開戦、互いに桂馬を手持ちにする形となったが、どうも仕掛けが悪かったらしい。上手の厚みを破れない下手に対し上手は着々と差を詰めている印象だ。棋力差がモロに出る展開とでも表現しようか、通常駒落ちのプロは下手に花を持たせようと多少の無理攻めをして自陣に隙を見せてくれるものだが、本局はプロの番勝負であり当然そのような配慮はない。
 現局面は以下、上手は桂による両取り、仮に飛車を逃げても銀を取る手がまたも角取りに当たるという気持ちの良い跳躍が見えている。
 角落ちの差が埋められたという局面ではない、正確に指せばまだまだ下手が良いだろう。しかし盤上心理とは残酷なもので、ハンデを貰っていた側は詰まってしまった差の方に目が行くものだ。一貫して姿勢を崩さず朝から涼しげな表情を保ったままの立花千代に対して、前傾姿勢の滝川圭子はハンカチを口元に当て脇息に身を預けながら、時折苦しそうな呻き声を漏らしている。絶望の底でもがくような苦悶の表情からは、女流棋界の絶対王者としての面影など微塵も感じることはできない。
 舞踏会の最中に魔法が解けてしまったシンデレラだ。煌びやかなドレスの魔法は消えてしまった、残るのは乞食のようなボロで衆目に晒された惨めな自分である。
 目を背けたくなるような絶望的な才能の差を、逃げ場の無い盤前で突き付けられているのだろう。そして感じるのは喉元から沸いてやまないどこまでも苦い泥の味なのだ。
 十七時三十分になり両者は夕食休憩に入った。
 注文は立花千代がクラブハウスサンドにオレンジジュース、滝川圭子は和牛のカレーにホットコーヒーとのこと。この状況で美味しい夕食など食べられるはずがないと思うのだが、果たしてこの情報は本当に必要なのだろうか。【続】』

 夕食後、十分程度の間を置いてから滝川は単純に飛車を引いて逃げた。飛車を逃がさずに7四歩と突いて勝負をかけてくる手もあったが、指せなかったのだろう。読んではいただろうがその手を指せる程に精神を鍛えていなかったということだ。そして千代にとってはこの飛車を引く手は僥倖だった。桂を跳ねて銀を毟り取る手が更に角に当たる。
 最早角落ちの差は埋まっている、加えて追い上げた分だけ盤上心理は上手が圧倒的有利、もう結果は見えていると言っても良い状況になると、そこからは下手の悪手が止まらなくなった。一手指すごとに滝川の表情が歪み局面は一層悪くなる。
 将棋における悪手は次の悪手の呼び水となる。
 棋士は奨励会の潰し合いの中で頭を切り替える術を学ぶ、それとて人間である以上完璧ではないが、その環境を知らない人間とは比ぶるべくもない。悪くしたと判断したら最善よりも粘りが効く指し方を選ぶ方向へと頭を切り替えられる。
 滝川にはそれが出来なかった。女流特有の、良く表せば華々しく、率直に評せば我慢のきかない将棋だった。相手の手を潰すのではなく自分の手を実現させる為に頭を使う将棋。それでは勝てない。棋士と女流の将棋のつくりの違いは奨励会という蟲毒を知っているか否かの一点に尽きる。
 だからもうこの将棋は終わる。焼けた鉄靴を履かされた舞踏会、惨たらしい叫喚の舞踏を盤上で狂い踊りながら、滝川に出来ることはやがて首を落とされるのを待つだけだ。
 千代は滝川の崩れていく様を見ることで己の勝利をしっかりと目視し、気を入れ直した。勝ちの見えた局面にこそ穴が潜んでいることもまた教え込まれている。
 決定的な詰めろの香を打ち詰みの手順を二度頭の中で繰り返した所で千代はようやく息を吐いた。
 読み抜けは無い。同金或いは同玉としてくるのなら自陣を唯一攻めている二枚の桂馬を一つ一つ払ってやれば良い、焦らずに一手一手追い込めば万に一つの逆転も無い局面まで追い込めている。
 ここまでくれば滝川とも読みは一致しているだろう、もはや終局までの一本道に入っている。コップに水を注ぎ喉を潤しながら、視線を向けると、滝川はそれまでの苦悶の表情が嘘のように、晴れやかな表情に変わっていた。
 盤越しに重なった視線の目じりが柔らかく緩んだのを見て、千代は滝川の意思を悟った。千代と同じようにゆったりとした手つきでコップに水を注ぐと一息に飲み干す。一手違いを作ることも出来ない局面、7二銀と打ち込んで下駄を預けた。
 千代は一息の間を開けてから3八香成。
 十数手のやり取りの後、アマチュアが見てもそれと解る局面を作り上げてから、滝川は静かに投了の意志を告げた。

『終局後の感想戦は両者ともに明るい表情ではきはきと行われた。これは珍しいことかも知れない。基本的に将棋の感想戦は勝者が疲れ切っていることが多い。敗れた側は敗北を悟った瞬間から頭を整えるが、勝者は相手が投了する時まで気を抜けないからだ。
 しかし本局にそれは無かった。終局後即座に始まった感想戦では滝川からの質問の一つ一つに立花は丁寧に、そして明瞭な声で言葉を返していった。その意味が一般の報道記者には伝わらないのだろう。女性らしい、華やかな感想戦だと表現するものもいた。私にはひどく惨たらしいことのように思われた。
 松永会長の目論見は間違いなく達成されただろう。女流の頂点と順位戦最下層の棋士が角落ちで対局しても一手違いにすらならない、この事実は徐々に一般の認識へと浸透していくはずだ。
 今までの女流棋界は間違いなく崩壊する。女流棋士たちは過酷な生存競争に投げ込まれ否応なしに自分たちの未来を選択する必要性に迫られる。本局はその第一歩だ。
 打ち上げの会場で私は滝川圭子に真意を尋ねることにした。本来であれば間を置くべきかも知れなかったが、それでは本局が持つ意味すらも薄れてしまう。もしも彼女がこれを本当に自らの意志で望んでいたのなら、せめてその意思を最大限汲むべきだと思った。
 取材を申し込むと、滝川は疲労をおくびにも見せず笑顔で受け入れてくれた。
 ――松永会長から女流制度の抜本的再編について相談されたと伺ったのですが、本当でしょうか?
「そうですね、具体的な話は何もありませんがそういう相談はありました。本当です」
 ――では、今回の女王戦の指し込み制に関しても納得されていたと?
「勿論、承知の上でした。まさかここまで負けてしまうとは思いませんでしたけど、でも全て納得した上でのことです」
 ――今回の結果で女流制度は今までより厳しい視線に晒されると思いますが、この点に関してはどうお考えでしょうか。
「仕方がない、というのが本音です。今までは世間が将棋に興味がなかった、女流棋士と棋士の違いについても一般の人はほとんど知らなかった、知らなかったから何も言われてこなかった、それが真実でしょうから」
 ――大変失礼ですが、滝川先生は自ら斬られ役としてこの舞台に上ったのですか?
「流石幸田君、とんでもないこと聞くわね」
 ――いや、だから詫びているでしょう。
 ちなみに、私の奨励会時代の師匠と滝川の師匠は兄弟弟子であり、私と滝川女流は所謂従姉弟の関係にある。一門会などでも何度も顔を合わせており、だからこそこうした非礼な質問も敢えてぶつけていると読者諸兄にはご理解願いたい。
「そうね、その通りよ。勿論勝ちたいとは思っていたけど、自分が棋士の先生とどこまで差があるのか、知りたかった」
 ――女流枠で公式戦にも出ていらっしゃるかと思いますが。
「そういうのはあるけど、あれは結局一発勝負だから、実力どうこうとはまた少し違う気もするし。本気の棋士の先生と番勝負するなんてまずあり得なかったから、だから今回は本当に嬉しかった」
 ――実際に棋士と指してみて、いかがでしたか?
「まるで違う、本当に突き放された感じ。奨励会の二人にもいいように負かされてるけど、四段以上の人は、立花先生は本当に次元が違うのね。番勝負を重ねるごとにまるで勝てる気がしなくなった。棋士ってこういう人種なんだなって、本当、空を見上げたって感じ」
 ――滝川先生の目指す女流再編とは、どのようなことなのでしょう。
「今までは、やっぱり女性で将棋を指す人の目標ってどうしても私になっちゃってたのよ。タイトルって派手だしね、それこそ四段や五段の棋士の先生よりも名前は売れてしまうし。
 だけど、立花先生たちが四段になって、奨励会の子たちが一部でも女流棋戦に出るようになって、女の子でも上を見られるんだってようやくみんな気づいてくれた。
 私はね、これから将棋をする女の子たちは女流なんかを目指しちゃだめだと思う。最終的に女流棋士になってくれるのは嬉しいけれど、初めからそれじゃあダメだと思う。それじゃあ結局、私程度で終わるんだもの。女の将棋のレベルはいつまでも低いままで、何も変われない」
 ――だから四段を、立花姉妹を目指せと?
「そういうこと。勿論、あの二人は何ていうか特別製だから、きっとあと十年は女性棋士なんて続けないと思うけれど、これからの子みんなが四段を目指せば、そうして奨励会を経験してから女流になってくれれば、きっと女性の将棋は強くなる。
 今、きっと女流の平均は奨励会の低級の子より弱いんだと思う。私のようにタイトルに出てくる女流でも瀬田さんや新山さんにまるで勝てない時点で、それが現実なんだと思う。
 けど、女の頂点が私じゃなくて立花先生に代わったら、みんなが四段を目指したら絶対に底は上がる。十年後には女流の平均だって奨励会の初段くらいは目指せるかも知れない。
 だからこの棋戦には本当に感謝しているの、悔しくて気が狂いそうだけど、誰かが恥をかかなきゃ前に進めないんだもの。斬られ役くらいいくらでも受ける覚悟よ」
 どうやら私は滝川圭子という女を甘く見ていたようだと、二十年近くの付き合いでようやく知った。彼女は紛れもなく女流棋界を背負って立ち、そしてその将来の為に自ら泥をかぶって欺瞞を暴いたのだ。
 偽りのドレスは要らない、誇り高きボロをまとえ。滝川は全ての女流にそう言っている。
 ――最後に、滝川先生の今後の目標を教えてください。
「角落ちで負けたんだもの、もう怖いものなんて無いわ。これからは一挑戦者として、私も立花先生の背中を追って少しでも強くなる。そうして頑張っていたら、きっと、いずれ女の名人だって出てくるから、その時に少しでも貢献したと思えるように頑張りたい」
 滝川と別れた後、立花女王にこの言葉を伝えると、立花は複雑そうに笑った。
 ――滝川さんからのバトンタッチ宣言について、率直なご感想をお願いします。
「私はそういうタイプではないので。滝川さんのように女性の為にどうこうなんて考えられないですし、自分が将棋を指すので精一杯ですよ」
 ――けれども、これからの女の子たちにとっては立花女王が目標になる。
「私を目指すのはそれこそ違います。もしも本当に四段を目指すなら、目標は竹中先生や小寺先生や六角先生、浅井響や島津銀乃介といった面子であるべきです」
 キッパリと言い切る立花には彼女なりの信念があるのだろう。
 しかしバトンは確かに渡された。立花千代の意思とは関わらず彼女は名実ともに紛れもない棋界の女王に即位したのだ。これは女性の将棋指しにとって大きな一歩である。
 今後、女性の奨励会員は今よりも珍しくなくなるだろう。そしてその中には立花千代を超える才能も出てくるだろう。その時まで、彼女は女王であり続けるのだ。【了】』

 深夜、ホテルに戻った千代が大浴場に向かうと先客が一名いた。気にせず服を脱ぎ捨てるようにして浴室に入るとそこにいたのはよりにもよって滝川圭子だった。
 気を遣おうにも既に素っ裸で浴室に入った後だ、今更出たのでは却って相手に気を遣わせるだろう。だがしかし、やはり勝者が後からやってきて敗者と同じ湯に浸かるというのはあまりに無神経な気もする。頭の中で堂々巡りをしていると滝川から声を掛けられた。
「お背中、流しましょうか?」
「……いえ、結構です」
 棒立ちしていることが恥ずかしくなり、千代はさっさと身体を洗うと距離を取って湯に浸かった。
 お風呂は好きだ。肩の辺りまで温かいお湯に浸かると体に溜まっていた悪いものがグッと押し出されていくようで一日の疲れが抜けていく。湯船に沈むようにして泡をぶくぶくとしていたらくすくすと笑われた。
「先生って、意外と可愛らしいですよね」
 またかと思う反面どうでも良い気もした。女流にはならないと誓ったのは既に過去、今の自分は結局結婚もして棋士としても落ち着いてしまった、ましてや対局を終えた相手である以上こだわるものは既に無い。
「若いので」
 若干の皮肉を込めて言ってやると滝川はやはり笑った。まともな返答が来ると思っていなかったのか、その表情は本当に嬉しそうだった。ざぶざぶとお湯をかき分けて千代の隣まで来るとまじまじと肌を覗き込む。
「肌お綺麗ですね、お幾つでしたっけ」
「今年で二十五になります」
「羨ましい。しかもその年で良い相手捕まえて結婚までしてるなんて、女の敵ですね」
「女流の方には嫌われていますから、もう慣れました」
 冗談のつもりで言ったが滝川は固まってしまった。そんなことありませんよと社交辞令でも返してくるだろうと思っていた千代の方が思わず狼狽えてしまう。
「……冗談のつもりだったのですが、そんなに嫌われていますか?」
 気になって思わず尋ねると、滝川はそっと目を逸らしながら、はい、と答えた。
「島津先生狙ってた子とかはそれこそ本当に昔から……あとは私とのトイレの件で年上の方からも……あとは女流の事見下してるからって……これは本当に割とみんなが」
 こうまで細かに説明されると憤慨よりも却って脱力してしまう。湯船に沈み込むようにしながら、
「なら、滝川先生にも嫌われていますよね」
千代は半ばやけくその発言だった。
 答えを待っていると、突然滝川が抱き着いてきた。裸の女に抱き着かれてギョッとする間もなく言葉が続く。
「私は先生のファンです、本当に」
「……え?」
「奨励会で頑張っている頃からずっと見ていました。お人形みたいに可愛くて、けど少し生意気で、けど凄く、気が遠くなるほどに強くて。本当に、先生のこと大好きなんです」
 この女は何を言い出すのだろうかと千代は思った。しかし滝川の言葉は止まらない。
「絶対に女流なんてならないって公言して、それで本当に四段になった。憧れています」
 鼻息を荒くして語る滝川の顔が近付いてくる。美形だが同性だ。距離を取ろうとすると背に回された腕には結構力が入っていて抜けられない。ほんの僅かに、身の危険を感じるシチュエーションだ。
「あの、滝川さん、少し離れてください。本当に、近いので」
 そう言うと、滝川はようやく己の状況に気が付いたらしい、ハッとしたように背に回された腕の力が緩まった。その一瞬で手を外しほんのわずかに距離を取る。そういう意図はあるまいがそういう趣味は千代には無い。
「あの時も、トイレの時も……初めて先生の弱い所を見せて貰えた気がして、だから嬉しくなってしまって。だからあんな失礼なことを」
「いえ……あれは、八つ当たりだったんです。本当にすみませんでした」
 色々と首をひねりたくなるような言葉であるような気もしたが、勢い過去の謝罪も出来たので良しにしよう。千代は深く考える事を止めていた。考えれば恐ろしい事実に気付いてしまいそうな気がしたからだ。
 滝川はふと微笑むと、手を組んで上に伸びをしながら、
「立花先生は一切女流棋戦に出てこなかったでしょう」
そんな事を言った。
 現在女性奨励会員も参加できる女流棋戦は二つだが、そのうちの一つ女流名華戦は千代が奨励会の二段だった当時に新棋戦としてスタートしたものだ。当時から女性では破格の存在であり或いは女性初四段も狙えると噂されていた千代には異例とも言える連盟上層部からの参加指示も出されていた、更に言えば名華戦という棋戦自体が千代の存在を念頭に成立した棋戦に違いなかったが、千代は本人の意思として参加を固辞、最終的には師匠の結城まで巻き込んで一門総出で連盟執行部に喧嘩を売った過去もある。あの時は凄かった、結城やプロの兄弟子達が頭にハチマキ片手にバットで会長室に殴り込みをかけ警察沙汰もあわやとなった程だ。
 結果立花姉妹は名華戦に参加せず、奨励会員として参加したのは当時級位者だった瀬田や新山を含む三名ほど、その中で初代名華の称号を獲得したのは滝川圭子だった。
「あの時はご迷惑をおかけしました」
「そんな社交辞令は良いんです。でも、どうしてかなとずっと思っていて。賞金も出るし、経験も積めるし、悪くないはずでしょう?」
 首を傾げながら言う滝川を見て思い出話としてなら話せるかも知れないと思うと、口を出る言葉は軽やかに紡がれた。
「迷いが出ると思って」
「迷い?」
「女流の道を選べば自分は今後数十年負けない存在になると思っていました」
「素直ですね。いえ、その通りです」
「だから……そうすれば生きていけてしまうから、それを知ることが怖かったんです」
 語るうちに思考が整理され、ようやく過去の自分が抱えていたものが見えてくる。
「奨励会の人間は、みんな負ければ明日が無い環境でした。有段者になると、他の生き方を見つけるには遅すぎる人も大勢いた。だから、あそこでやっていたのは、本当の意味での生存闘争だったと思うんです。相手を殺さないと自分の明日が消えてしまうから、生き残る為の将棋を指して、勝って相手を蹴落とした。
 私は、才能が無い平凡な人間だから、努力するしかありませんでした。私よりも才能がある人たちがみんなそうしていたから、私も全てを賭けなければ生き残れない、【女流という保険】を知ったら、きっと私は折れてしまう……そう思ったんです」
 滝川に話しているうちに、ひどく心が落ち着いていった。十年以上抱え込んでいた自分の弱さを、それによって迷惑をかけていた人間にようやく懺悔が出来る事への安堵だったのかも知れない。
「弱いんですよ、私は。他に生きる道があるなら、それを知っても奨励会でやっていけると思えなかった。女流にならないと放言していたこともそうです、命を賭けている実感が無いと、自分のことを後がない崖際に追い詰めていないと、きっと将棋が弱くなった」
 言い終えてから滝川に向き直りその瞳をまっすぐに見据える。仲良くしたい訳ではないが自らの責任はきちんと清算しなければならない。
「だから、本当にすみませんでした。女流という制度も、女流の皆さんも、何も悪くないんです。単純に私が弱かったから、私の弱さが皆さんにご迷惑をおかけしました」
 姿勢を正して頭を下げると、一つ、二つ、三つ、間を置いても滝川は何も話さなかった。ただ、呆然としたように千代を眺めている。
 伝わらなかったのだろうかと千代は思ったが、それならばそれでも良いと思った。ようやく自分の弱さに向き合えた、そして清算された過去に肩が軽くなっていった。
 やがて、肌がほんのりと赤く染まる程に長湯をしていると滝川は口を開いた。たどたどしいと表現するのが適切であるような口調だった。
「それは、それが正解かどうかは解りませんけど……きっと、その決断をしたから、先生は四段になったのだろうと、そう思います」
 それからは言葉も消え二人で湯船に浸かっていた。

「一つ、教えて頂けますか」
 湯船から上がろうとした千代に背後から滝川の声がかかった。振り向くと千代に視線は向いていない、明後日の方を眺めながら声だけ出している。向けられないのかも知れないと思った、その様はどこか怯えているようでもあった。
「今日、角落ちでしたが、適正だと先生は思いましたか?」
 聞かれて答えに窮したのが事実、そしてそれが何よりの回答だったろう。しかし言葉で返さなければならない。何より滝川は真実を求めているのだから、おためごかしで逃げる訳にはいかなかった。
「本気で指すなら飛車落ちで五分の勝ち負け、それが正直な感想です」
 言い切ると滝川はそっかあと呟き、バシャンと音を立てて浴槽に顔を突っ込んだ。涙が溢れてしまったのだろう。
 そうして一分ほども潜っていただろうか、顔を上げた滝川は何もなかったように平然とした表情で千代を見ている。
「将棋、やめたくなりました?」
「まっさかあ、全然」
 それでもなお、滝川は満面の笑顔でそう答えてみせる。
 強いな、千代はそう思った。









sage